第11話 文通
十一 文通
のれんの先は細い通路だった。ぐねぐね折れ曲がり、坂や階段があって先が見通せない。どこまで続いているのだろう?
だいぶ歩いた。時間と方向の感覚が失われているが、足の疲れからして、それなりの距離だ。入り口がびっくりガードだったとして、とっくにひと駅以上歩いているだろう。ここはどこの地下なのだろう。どっちを向いているのかわからない。松尾可先輩は裏口と言っていた。雑司が谷の裏口って何だろう? ここは雑司が谷なんだろうか?
通路はどんどん狭くなった。足元はいつのまにか土になっていて、雨上がりのぬかるみのようだ。浴衣の裾が汚れそうなので、たくし上げて歩く。周囲は赤黒くて、天井が低い。壁に手を触れてみる。泥のような感触に、思わず手をひっこめてしまう。気味が悪い。こんなところに猫がいるんだろうか——。
そのときだった。
「——やあ、ハルオくん」
奥から声がした。子供の声だ。
「こっちこっち」
歩いて行くと、六畳ほどの空間だった。小学生くらいの少年が椅子に座って、何やら雑誌を広げている。黒い服を着て、子供のくせにサングラスをかけていた。こんなに薄暗い場所でなぜサングラスなのだろう。
「ハルオくん、いつもと服がちがうね。まあでもわりと似合ってるよ。しかしよくこんなところまで来たもんだ」
少年はのびをした。そして、ぶえっくし、と品のないくしゃみをした。
「……お前を探しに来たんだよ」
おれが言うと、少年はサングラスを外してみせた。青と茶の目をまるくして、首を傾げる。
「すごい。どうしてわかったの?」
「さあな」
少年——ソーダはくすくす笑った。どうしてソーダが少年の格好をしているのかはわからない。でもこんな変な空間を歩かされていると、そんなこともあるかもしれないという気がしてきた。
「ハルオくんは勘が良いんだね?」
「良くない。わからないことだらけだ」
この空間のこともわからないし、佐藤ミユキの意図だってまるでわからない。
「じゃあヒントをあげよう。ハルオくんはふたご座だったね?」
そう言うと、持っていた雑誌を読み上げた。
「——ふたご座のアナタはうわの空。やるべきことがわからなくて見当違いのことをしているみたい。ラーメンが食べたいならラーメン屋の行列に並ぶしかないのよ、カレー屋で途方に暮れても自業自得。それはそうと明治通り沿いにはインドカレーのお店がたくさんあるから、行ってみて」
その文言には覚えがあった。
「おれが書いた星占いじゃないか」
よくよく見れば、ソーダが持っているのは『雑紙』だった。ずいぶん前の号だ。
「そうだよ。ちなみにこのときの乙女座はどんな占いだったか覚えてる?」
「さあな、そこまでは覚えてない。適当に書き散らかしているだけだから」
「乙女座は歩くべき時。周りがよく見えなくて不安なのね。でも山登りで暗くなったら、先を見ようと躍起になってはだめなの。暗い足元を見ること。暗闇に目を慣れさせること。暗くても歩き続けること。法妙寺の横の道も暗いけど、月明かりがきれいなことに気づける道よ。行ってみて。——覚えてる?」
「そうだったかね。あまり記憶にないな」
我ながら無責任だと思うが仕方ない。こんなものは誰も読まない、記憶に残ることはない文章なのだから。
「……でもね、これを読んで、本当に月明かりの道を歩いてみて、勇気づけられた乙女座の女性もいるんだよ」
そう言うと、ソーダは占いのページをこちらに向けた。ふと挿し絵のマダム・三毛子の絵が目に入った。その号の三毛子は黒猫で水玉模様のドレスを着ていて、右目が青で左目が茶色だった。
「……これ、お前にそっくりだな」
「そりゃそうだよ、僕がモデルだもの」
「もしかして、この挿し絵を描いたのは」
そうか。
佐藤ミユキがこの挿し絵を描いていたのか。それで、文通と言っていたのか。
おれは佐藤ミユキと、ずっと一緒に仕事をしていたのだ。佐藤ミユキはおれの文章を読んでくれていたのだ。
ソーダは笑った。
「さてと。じゃあ僕はもう行こうかな」
「おい、どこへ行くんだ?」
「さあね。とりあえずここを出るよ」
「ここを出るんなら、おれと一緒に来い。雑司が谷に帰るぞ。お前を佐藤ミユキのところに連れて行かなきゃ」
「どうしようかなあ」
ソーダはにやにや笑う。
「おれは、お前を探しに来たんだ」
「そうらしいね」
「お前を佐藤ミユキに返すためにここに来たんだ。おれはお前を連れて佐藤ミユキのところへ行く。……それで、」
「それで?」
「……」
言葉を継げずにいると、ソーダは肩をすくめた。
「まあいいや。僕はこの壁を抜けて、外へ出る。きみは壁を抜けられないだろうから、まあどうにかしてよ。あはは、これで本当の鬼ごっこだね」
そう言うと、ソーダは壁に手をついた。ずずずっと身体がめりこんでいく。
「おい!」
おれが思わず叫ぶと、ソーダは言った。
「猫には簡単なことなんだ。あちら側からこちら側へ、その逆もね」
「待て! せっかくここまで来たのに!」
「じゃあね」
ソーダは壁の向こうに消えた。おれが壁に触れても、壁はただの泥だった。
猫の奴、不意に現れ、また消えてしまった。
……ともかく引き返すか、と後ろを向くと、おれが歩いてきた通路がなかった。通路は壁になっていた。地下の妙な空間で、おれは猫に取り残されてしまった。閉じ込められてしまったのだ。
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