第10話 トンネル効果
十 トンネル効果
五時になる前に、ジョナサンを出た。佐藤ミユキと顔を合わせるのを避けたためだ。あわてていたので傘は忘れてきてしまった。結局、始発までだいぶ時間がある。やけくそで歩いて帰ることにした。
佐藤ミユキが、おれに猫を寄越した犯人ということになるのだろうか。自分でチラシを作って、おれのところに猫を連れてきたのだろうか。しかし、何のために? おれは佐藤ミユキとは、このソーダの件が初対面のはずだ。猫を押しつけられるようなイタズラをされる覚えはない。いや、イタズラではないのかもしれない。さっき佐藤ミユキは、ちょっと試してみたいことがあって、と言っていた。では一体、猫でおれの何を試そうとしていたのだ? そして、文通とは何のことだ?
わけがわからなかった。
会話に耳をすませてわかったのは、やはり二人は姉妹で、佐藤ミユキでない方が姉で名前はアヤコということだった。アヤコはアパレル関係の仕事をしているらしく、海外に出張していたらしい。
夜明けの街は薄青く、まだ車もまばらだ。大きなからすがゆらりと飛んできて、電柱に止まって甲高く鳴いた。
考えごとをしながら明治通りをずんずん歩いていたら、曲がるべきところを通り過ぎ、いつの間にか池袋まで来ていた。ジュンク堂の手前の交差点である。きのうからずいぶん歩いているなと思う。眠いことは眠いのだが、身体は妙に軽かった。
右に折れて東通りから帰ればよかったのだが、ふと、意味もなく左に曲がってしまった。
「右か左か、筋肉に命令するわけだ。どっちだっていいし、どっちにも行ける。気まぐれだ——」
松尾可先輩の言葉が頭をよぎった。右に曲がるつもりでも、ほんの少しの気持ちの揺れで、まったくちがう方向に進めるのだ……とぼんやり思った。
びっくりガードのトンネルが薄暗い口を開けていた。(それにしても、ここの立体交差はどうしてびっくりガードなんていう変な名前なんだろう?)蛍光灯が切れているのか、中はますます暗かった。音ばかりがよく響き、ざりざりと砂っぽい足音が耳をつく。
「わっ」
ここ数日の雨のためか、びっくりガードには水がたまっていたようだ。暗くてよくわからず、おれは水たまりに思い切り足を突っ込んだ。ついでに昨晩から歩き通しで疲れていたためか、酒が残っていたのか、間抜けにも転倒してしまった。
服がぐしょぬれである。まったく、何をやっているのだおれは。いくらなんでも暗すぎないかと思っていると、トンネルの壁に穴があいていた。
「お兄さん、こっちこっち」
大きな骨ばった手が、手招きしている。
「……」
普段なら絶対に無視するのだが、どうしてだか壁の穴を覗き込んでいた。
「この辺は工事が行き届いていないから水がたまるんです。こちらへどうぞ」
穴の中にいたのは、うらなりでバイトしているじいさんだった。狭い穴の中で、大きな身体が窮屈そうだ。
「さあさあ、奥にどうぞ。服の替えもありますよ」
招かれるまま、後ろをついて行った。穴をすすんでいくと、暗い階段だった。じいさんは慣れた足取りで降りていく。
「やあ鶴森くん」
奥ではうらなりのマスターが水撒きをしていた。
ちょっとした公園くらいの広さがある。天井も高い。テーブルや椅子がオープンカフェのようにいくつも並んでいて、その上には万国旗のように白いシャツがたくさん干されていた。(マスターがいつも着ているシャツだろうか?)
「ここは僕のもうひとつの店なんです」
言いながら、バケツの水を柄杓で撒いた。
「朝ごはんでも食べていきますか?」
じいさんがテーブルのひとつに真っ白なテーブルクロスをひいて、きびきびと準備を始めていた。
「……あまり洗濯物は乾かなそうですね」
ここのところわけがわからないことが続いていたおれは、ちょっとやそっとでは驚かないぞという気持ちで、あくまで平然とマスターに言った。
「意外と乾くんですよ。地下鉄からの風がすごいですから。むしろ風と熱が強いので、こうしてときどき水撒きをしないと」
マスターは笑った。
「……マスター」
「はい」
「あんた、知ってたんですね?」
明治通りを歩きながら考えていたことを、ぶつけてみた。
「猫の飼い主探しの件、あらかじめ佐藤ミユキに聞いていたんでしょう? 佐藤ミユキとも面識があったんだ」
「そうです。ばれましたか」
マスターはあっさりと肯定した。
「あのときチラシをほとんど見もしないで置いてくれると言ったのは、やけに乗り気だったのは、あらかじめ佐藤ミユキから相談されていたからですね?」
「そうですね、どうも僕は芝居が苦手です」
マスターはバケツと柄杓を置くと、手近な椅子に腰掛けた。おれにも座るよう促す。
「……あの日。はじめに佐藤ミユキがあんたのこと、無口なマスターですね、って言ったんですよ。たしかにいらっしゃいませも言わなかった」
「ええ」
「だけどあのとき店には、あんたとそこのじいさんと二人いたじゃないですか。じいさんじゃなくてあんたがマスターだって、佐藤ミユキは知ってたんだ」
「なるほど」
「それに、ミルクとガムシロップも佐藤ミユキに二つずつ寄越した。それは佐藤ミユキのことを知っているからですよね?」
「ありゃあ、それはわたしの失敗だ!」
遠くからじいさんが叫んだ。
「いえいえお気になさらず。僕のつめが甘かったんです」
マスターはにっこり笑ってじいさんに言う。それからふうっと息を吐いて、伸びをした。
「参りました。鶴森くんは観察眼が鋭い」
「……いや、今さら気づいても遅いです。猫はいなくなってしまったんですから」
どういう意図があっておれに猫を連れてきたのか見当もつかないが、ジョナサンでの会話を聞いた限り、猫がいなくなったのはアクシデントのようだった。ソーダが消えてしまった今になって、そんな仕掛けに気づいても意味はない。
「おや、猫はいなくなっちゃったんですか? 僕も事情を知っているわけではないんです。佐藤さんがどうしてそんなチラシを作ったのかは知りません。それで、鶴森くんはどうするんです?」
「……」
「朝ごはんでもどうですか? 今朝はフレンチトーストなんです」
いつのまにかテーブルに皿が並んでいた。白い皿にフレンチトースト。ぽってりと甘そうなそれにはメープルシロップがたっぷりかかっていて、よく焼かれたベーコンが添えられている。
「甘いものでも食べて、落ち着いたほうがいいでしょうね」
「コーヒーでもカフェオレでも、お好きなものをお淹れしましょう」
じいさんも言う。
「いや、いいです。……おれは、猫を探しに行かなくちゃ」
思わず口から、そんな言葉がこぼれていた。口でものを考えているようなものだ、考えはうまくまとまっていないのに口からこぼれてしまう。自分に言い聞かせているようだと思う。
「おれには何がなんだかよくわからないんです。佐藤ミユキの意図は、まるでわからない。おれはいろんなことを見落としているのだと思います。でも、だから、ともかく猫を探さなくては。そんな気がするんです。佐藤ミユキが叱られていたのも気になるし」
「それはずいぶんお人好しに見えますね。鶴森くんは猫を押しつけられただけなのに」
「それはそうなんですけど、でも……」
言いかけたとき、ごおっと強い風が吹いた。風にあおられて、シャツがばさばさとはためいた。
「始発が動き始めますな!」
じいさんが慌ててテーブルクロスを押さえた。
「鶴森くん、それなら急いだ方がいい。電車が動き始めると、ここはひどく揺れるんです」
マスターがさらに奥を指した。まだ奥があるようだ。小さな口を開けている。
「あそこから、もっと奥に行けます。ずっと深くはあまり揺れません。服を着替えるなら、奥に銭湯があります」
そう言って、シャツを一枚貸してくれた。
「ありがとうございます」
思わず礼を言っていた。そして、『もっと奥』とやらへ足を踏み入れたのだ。
奥へ奥へ進むと、たしかに銭湯らしき場所だった。大きなのれんに『ゆ』と染め抜かれている。
のれんをめくると、広い脱衣所だった。カゴの置かれた木製の棚が延々と続いていた。
よくわからないがともかく着がえようとしていると何者かがどたどた走ってきて、どん、と背中にぶつかった。牛乳瓶を持っていたようで、おれは頭からコーヒー牛乳を浴びた。マスターのシャツにも大きな染みがついてしまった。
「すまん!」
ぶつかった相手は松尾可先輩だった。
「……先輩。気をつけてくださいよ」
松尾可先輩が現れたことは、不思議とすんなり受け入れられた。やっぱりな、とさえ思った。
「すまんすまん、風呂を沸かしたりなんだり忙しくってな」
「先輩が風呂を沸かしているんですか?」
「そうだ。この寒月湯でバイトしてるんだ。風呂を炊いたり、掃除をしたり、合間に短歌を作ったり忙しいんだ。忙しいから一本くすねてやった」
そう言って、残ったコーヒー牛乳をぐいと飲み干した。
「寒月湯って、雑司が谷一丁目の?」
「そうだよ。雑司が谷に銭湯はここしかない」
「でもここは一丁目じゃないですよね?」
「裏口だよ。何事にもオモテとウラがある」
「そういうものですかね?」
「何を訝っているんだ。帝都はいつだって工事中だろう、都電の下だって地下をずいぶん掘ってるじゃないか。裏口ぐらいあって何がおかしい?」
先輩はするする浴衣を脱ぎはじめた。
「バイトの特権だ。一番風呂に入るんだ」
「……きのうはどうして急に姿を消したんです?」
ごうんごうん、と機械の重い音が遠く響いていた。風呂のボイラーだろうか。
「お前がはぐれただけだろう。お前こそどうしてちゃんと傘を持って帰らなかったんだ? せっかく返してやったのに」
先輩はぱんつ一丁になって言う。
「松尾可先輩。あんたは幽霊なんですか?」
思い切ってきくと、先輩は笑った。
「おれが幽霊? まさか! 鶴森、お前は物書きのくせに想像力が足りない。そんなことはどうでもいいじゃないか。それより風呂に入っていかないか。牛乳まみれになっていることだし」
「……いや、おれは猫を探さなきゃ」
そう言うと、先輩はふうんと首を傾げた。
「どんな猫だ?」
「黒い猫ですよ。右目が青で左目が茶色なんです」
「猫なら、この奥だろう」
「えっ?」
先輩はこともなげに言った。
「雑司が谷は猫が多いからな。まあ、探してみるといいさ」
そして先輩は、おれの手からマスターのシャツを取った。
「このシャツと今着ているお前の服は、洗って乾かしておいてやろう。銭湯の隣にコインランドリーがあるんだ」
「でもそのシャツは借り物なんです」
「そんなことは知っている。うらなりのマスターのだろう? ほら、風呂に入らないんなら早く行ったほうがいい。猫はすばしこいからな。さっさと服を脱げ、代わりにこれを着ていけばいい」
そう言って、自分の浴衣を手渡した。
「先輩のを着るんですか? なんか嫌だなあ」
「水たまりやコーヒーまみれより、よっぽど良いだろう。猫は敏感だぞ」
そう言われるとなんだかそんな気もして、おれは先輩の浴衣に着替えた。
「下手くそだなあ。帯はこう結ぶんだ」
松尾可先輩は、手早く帯を締めた。
「鶴森。どうして猫を探す?」
「さあ……わかりません。なんだかそうしても良い気がして」
「そうか」
先輩は笑った。そしてタオルで頭をぐしゃぐしゃと拭いてくれた。
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