第9話 空白の所有
九 空白の所有
少し悩んだものの、結局おれは帰ることにした。松尾可先輩がどこに行ったのかわからなかったし、眠かったのだ。
適当な見当をつけて歩いていくと、あっさり大久保通りに抜けた。いつのまにか河田町近くまで来てしまっていたらしい。ずいぶん歩いたものだ。ここから雑司が谷まで歩くのは面倒だな、と思った。
明治通り沿いのジョナサンに入って、始発まで時間をつぶすことにした。ここからなら副都心線の東新宿に近い。
「いらっしゃいませえ」
深夜だというのにジョナサンには何組も客がいた。終電を逃したらしい若者ばかりだ。
「当店五時で閉店しますがよろしいでしょうかあ」
ウエイトレスが間延びした声で言う。二十四時間営業ではないらしい。五時で一度閉めて、六時にまた開店するのだ。その一時間にどういう意味があるのだろう、と思ったけど、眠くて思考はまとまらなかった。要するにこのジョナサンは一時間の空白を所有しているということだ。
コーヒーを注文して、ソファに深く腰掛けた。少し眠りたかった。
短い夢を見た。
女が砂浜を歩いていた。おれはその女を知っている気がした。声をかけようと思う。だけど名前は出てこないし、なぜだかおれは足が砂に埋まっていて動けない。女はおれに気づかない。女は裸足で砂を踏んでいる。
女が何かつぶやいた。波の音で聞こえないはずなのに、なぜか声は耳に届いた。
「——みんな働く雲雀のうた」
それは山頭火の俳句だ。雲雀。
そうだ、女の名はひばりだ。おれが学生時代に書いた小説の主人公じゃないか。
『ひばりの空白』という小説だ。ひばりという女が主人公で……。それで、どうしたのだったっけ。自分の書いたものなのに、まるで筋書きを思い出せない。おれは何を書いたのだったろう?
波の音に混じって、女が砂を踏む音が聞こえる。みんな働く雲雀のうた。ああ、働いていないのはおれだけだ。
不意に女がおれの方を振り返る。女の顔は、なぜだか佐藤ミユキの顔だった——。
そこで目が覚めた。
パーテーションの向こうから聞こえてきた話し声に、眠りを寸断されたのである。夜明け前のささやかなざわめきの中で、その壁越しの声はいやにはっきり響いた。
「——いったいどうして、知り合いの家に預けたりしたのよ?」
女の声だった。苛立った感じで、痴話喧嘩かなと思った。なんとなくいたたまれない雰囲気だ。眠りを妨げられそうな予感がして、席を移ろうかと腰を上げた。が、つぎに聞こえてきた声が聞き覚えのあるものだったので、目を見開いた。
「……ちょっと、試してみたいことがあって」
ゆっくり、気づかれないようにパーテーションの向こうをのぞいた。その小さい背中をおれは知っていた。水玉模様のワンピースを知っていた。
佐藤ミユキだった。
「猫の又貸しなんてきいたことないわ。出張中っていったって、メールは見られるんだから、連絡をくれれば良かったじゃない」
佐藤ミユキは二人連れだった。向かいで苛立った声を上げているのは、知らない女だ。だけどその女は佐藤ミユキとそっくりで、ますますおれを混乱させた。
姉妹だろうか。佐藤ミユキではない方(多分)は、白いシャツにパンツ姿で、服装の趣味は異なるように見えたが、背格好はほぼ同じだ。傍に大きなスーツケースが置いてある。
「仕事に水を差しちゃいけないと思って。もちろんはじめはうちにいたのよ。だけど、大家さんに見つかっておこられちゃって。それに、私も仕事が忙しくて帰る時間も不規則だったから」
「どうして最初に言わないのよ? 無理に預けたわけじゃないでしょう。ソーダを預かるって、あんたが言ったのよ。これならちゃんとペットホテルに預けるか、遠くても実家まで行くんだったわ」
「ごめんなさい。ちゃんと見つけるから」
「試してみたいことっていうのは何なの?」
「……」
「言いたくないの?」
「……ごめんなさい」
「参ったわね。成田に着くなり、あんたからの電話でびっくりしたわ。こんな時間だけど、仕事は大丈夫なの?」
「明日はゆっくりできる日だから」
「ふうん。雑司が谷のどこの家だって?」
「鬼子母神の近く」
「私、その人のうちに行ってみるわ。いなくなったときの様子とか、聞いておきたいし」
「それは待って。ちょっと、いろいろあって」
「どうして? その人は何なの? 友だち? 彼氏? それとも仕事関係の人?」
しばしの沈黙のあと、佐藤ミユキはこう言った。
「……ずっと、文通してた人」
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