第8話 迷路と雨傘

八 迷路と雨傘


 外は涼しかった。とっくに終電もない時間である、通りはがらんとしていた。

「で、先輩のうちはどこなんです?」

「すぐそこだ。早稲田の……」

 言いかけて、先輩は急にうずくまった。

「どうしました? 吐くんですか?」

「む」

 そういえば松尾可先輩はあまり酒に強くなかった。なんとなく酒臭いし、迷亭に来る前にだいぶ飲んでいたのかもしれない。

「先輩、吐くんならもう少し物陰か、あるいはコンビニのトイレかなんか……」

「や、大丈夫だ。しかしうまく歩けないんだ。肩を貸してくれ」

「ええ?」

 のしかかってきた松尾可先輩は、酔っ払っているわりに奇妙に体温が低かった。しかしおれより背が高いから、重い。

「歩けないんならタクシーでも呼びます?」

「いや、大丈夫だ。そこを、右」

 細い路地に入っていくと、街灯がまばらでますます暗かった。道が折れ曲がっていて、どこへ向かっているのかよくわからない。

「こっちでいいんですか?」

「うん、近道だ」

 ふうふう息を吐きながら、松尾可先輩は言う。俯いた先輩の髪の毛が、頬にちくちく刺さった。

 学生時代にもこんなことがあったな、と思った。我々は金がなくて、どこかへ行くと帰り道は数駅歩くはめになることがままあった。たとえばむかし阿佐ヶ谷に知り合いの演劇を見に行った帰り、当時先輩は下落合に住んでいたのだが、歩いて帰れると言い張ってひどく道に迷った。酔っ払っていてもいなくても、我々はいつも夜道をずるずるさまよった。自分たちがどこにいるのだか、どこを向いているのだか、まるでわからず闇雲に。

「……ここ、さっきも通ってません?」

 世界人類が幸せでありますように、という看板はさっきも見た気がする。

「む。ここはどこだ?」

「先輩、近道のつもりが迷ってますって。近所じゃないんですか?」

「フロイト的に言えば帝都はすべて近所だよ」

「フロイトを便利に使わないでください。じゃあ住所を教えてくださいよ、地図を見ますから」

「いやだ。ここで地図に頼るのは、おれの美学に反する」

 ろくに歩けないくせに、主張ははっきりしていた。そうだった、先輩は方向音痴で、そのうえ地図が大嫌いだった。

「本当にもう近くなんだ、ここはあれだろ、えぞ菊の裏から入っていった道だろ?」

「や、早稲田通りはとっくに過ぎましたよ」

「えぞ菊はふたつあるぞ。どっちか潰れた気もするが」

「勘弁してくださいよ、もう」

 ため息をつくと、先輩は肩から離れ、ふらふらと歩き出した。

「吐くんですか。小便ですか」

「ひとりで歩ける。おれは傘を返したいんだ」

「あの、傘なんて貸しましたっけ? ずいぶん昔の話ですし、今わざわざ返していただかなくても」

 ひとりで歩けるというのなら、ここで別れてもよかった。しかし松尾可先輩の足取りはおぼつかなく、ひとりにするのは少々心配だ。

「いや、傘を返すことが大事なんだ。おれは昔、亀山にも傘を借りていたんだ」

 亀山。

「……先輩。暮れに亀山が死んだことは知っていますか」

「知ってるよ」

「そうですか。葬式で先輩を見かけなかったものだから……」

「葬式には行ったよ。誰とも顔を合わせたくなかったから、隠れていたんだ」

「そうですか」

 とは言ったものの、本当にそうだろうか、と思った。そう広い斎場ではなかった、隠れる場所なんてあったろうか。だいたい、葬式で隠れるなんて意味のないことじゃないか。

「亀山はどうして死んだんだっけな?」

「クモ膜下出血ときいています」

「それは突然死ぬものなのか」

「さあ、前ぶれのない場合が多いらしいですが」

「たとえば、この道を、右に曲がるか、左に曲がるか……」

 おもむろに先輩は、T字路の真ん中で立ち止まった。ゆらりとこちらを振り返る。

「右か左か、筋肉に命令するわけだ。どっちだっていいし、どっちにも行ける。決定そのものは気まぐれだ。そういう気まぐれのようなものか。右に曲がると生きていて、左だと死ぬ。曲がり角の向こうで、待ち受けているのか」

 わけのわからないことをぶつぶつ言う。

 ふと先輩は、幽霊なのかもしれないなと思った。そうであってもおかしくない。こんなふうに突然再会して夜道をさまよっていると、現実なのか夢の中なのか、生きているのか死んでいるのか、境界はあいまいだ。

 先輩はふらふらしながらも歩みを止めなかった。ここはどこなのだろう。早大の戸山キャンパスの方だと踏んでいたが、あちこち曲がっているうちにどこだかわからなくなってしまった。まるで迷路だ。電柱の陰から野良猫が音もなく現れ、また消えた。もちろんソーダではなかった。

「——先輩、猫が家出するときって、どんなときなんでしょうね?」

 先輩の背中に小さく問う。聞こえていなければ、それでもよかった。

「猫?」

 先輩はちゃんと聞いていた。

「さあ、おれは猫を飼ったことがないから知らんけど、自分がもうすぐ死ぬってわかった猫は、飼い主の前からいなくなるってきいたことがあるな」

 ……その話はおれにも聞き覚えがあった。死期を悟った猫は、飼い主に自分の死ぬ姿を見せないように、自分から姿を消すという。

「さっきも猫がどうとか言っていたな。鶴森は猫を飼っているのか?」

 飼っていたわけではない。ほんの少し同居していただけだ。だからたとえあの猫がイノチの期限を察知したとして、おれに対して思うところなんてないはずだ。そもそもそんなのは迷信だし、猫はぴんぴんしていた。死んでしまうわけがない。

 ああ、でも亀山だって、何の予兆も前ぶれもなく死んでしまったではないか——。

 短い沈黙の後、先輩がぼんやりと言った。

「ずいぶん前に、おれとお前と亀山と三人で、海に行ったことがあったろう」

「ありましたっけ」

 と、うそぶいてみせたが、そのことはよく覚えていた。二十歳の頃の話である。

 由比ヶ浜に行ったのだ。江ノ電に乗って男三人で泳ぎに行った。海水浴場は混んでいて、おれと亀山は『こころ』の真似をした。帰りに刺身定食をたらふく食って、大仏を見物して帰ってきた。

 ——そうだった、そのとき大仏の内部に入る、胎内めぐりをやったのだ。

 あれはもう十年も前のことになってしまうのか。亀山はまさか十年後自分が死んでしまうとは思っていなかったろう。

「鶴森。おれはあれから一度も海というものに行っていないんだ」

「そうですか」

「じかに触れていないから、本当に海というものが存在するのかどうか、わからなくなってきた」

「海がなくなるわけないでしょう」

「まあ、それはそうなんだが。でも、何事も疑ってかからねばならん……」

 言って、先輩はくるりと振り向いた。

「ところで水が飲みたい」

「かなり戻らないとコンビニはありませんよ」

「さっき自販機があった。ちょっと、戻って買ってくる。先に行ってろ」

 そう言って、ゆらゆら歩き出した。

「や、おれは先輩のうちを知らないんですけど」

「じゃあ、そこで待っていてくれ。ちょっと行って、すぐ戻るから。水が飲みたいんだ。……こんなにうまい水があふれてゐる」

 先輩は唐突に、山頭火(だろう、多分)の自由律俳句を諳んじて歩いて行った。一緒に行っても良いのだが、待っていろと言われたので待つことにした。先輩は立ち小便がしたいのかもしれないと思ったからだ。

 ポケットから携帯電話を取り出す。佐藤ミユキから返事はきていなかった。

 と、そのとき、後ろの方からばたりと音がした。松尾可先輩が歩いていった方だ。

「先輩?」

 転んだのかもしれないと思ってあわてて走っていくと、道路の真ん中に傘が落ちていた。どこにでもあるビニール傘だ。さっき歩いていたときは、こんなものは落ちていなかった。

「……先輩?」

 松尾可先輩の姿は見当たらなかった。傘があるだけだ。これはおれの傘なのだろうか。松尾可先輩が持ってきてくれたのだろうか。では先輩は、どこに行ったのだ?

 間抜けにも、おれは松尾可先輩の連絡先をきいていなかった。電話もできない。周囲は戸建てばかりで、アパートはない。一応表札を見たが、松尾可なんて苗字はなかった。ばかばかしいことだけど、大の大人が早稲田の住宅街で道に迷って、しまいにはぐれてしまった。

 傘を抱えて、ぼうっと立ち尽くす。遠くをぶうんと車が走り去っていく音がした。

 亀山も猫も松尾可先輩も、急におれの前から消えてしまう。おれはいつも取り残される。

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