第7話 偶発の歌
七 偶発の歌
のろのろ飲んでいたらとっくに日付が変わっていた。いつまでも先延ばしにしているわけにもいくまいぞ、と頭の中で誰かが言った。
とりあえず、メールの文章を考えてみよう。そう思って携帯電話のメール画面を開いた。
——『ソーダがいなくなってしまいました。一昨日のことです。家の中にいたのですが、気が付いたら姿が見えなくなっていて、行方がわかりません。おれはずっと家にいたので、誰かが連れ去ってしまったというのは考えにくく、また網戸も閉まっていたのでソーダが自分で出て行ったとも思えません。もちろん家には抜け穴とか隙間というものはありません。では、どうしていなくなったのだと思うでしょうね? おれにもわからないのです。ただ、猫の失踪という事実があるだけです。それ以上のことは何もわかりません。本当はいなくなったその日に連絡するべきだったのかもしれません。連絡が遅くなってすみません。おれも混乱していたのです。ミユキさんにはチラシやら聞き込みやらお世話になりました。結局真相はわからぬまま、猫はいなくなってしまったわけですが——、』
「——ずいぶん長いメールだな」
「わっ!」
いきなりおれの顔をのぞきこむ者があって、思わず大声を上げてしまった。いつの間にかとなりに誰か座っていたらしい。
「相変わらず女々しい奴だ。今時そんなに長いメールは流行らんぞ」
浴衣を着て、サングラスをかけた背の高い男だった。どうして夜中にサングラスをしているのだろう? しかし、おれはその声に聞き覚えがあった。ごくシンプルに言って、ものすごく驚いた。
「……松尾可先輩?!」
「うん。鶴森、久しぶりだな」
松尾可先輩はサングラスを取ってみせた。細い目がこちらを向いて笑っていた。幾分老けたかもしれないが、大学の頃からほとんど変わっていない。なぜ浴衣を着ているのだろう。紺地の浴衣はくたびれていて、着古しているのは明らかだった。祭りや花火の帰りというわけでもなさそうだ。
「何年ぶりですか。どうしてここに?」
「何って、飲みに来ただけだ。おれが魚釣りをしに来たように見えるか?」
表情も物言いも、たしかに松尾可先輩だった。松尾可先輩は亀山の葬式でも姿を見なかったのでかなり久しぶりに会ったはずだが、まるでおととい会ったかのような気安さだ。
「先輩、この辺に住んでいるんですか」
「うん、すぐそこだ」
「そうなんですか。おれ、雑司が谷なんですよ。意外と近くにいたんですね」
ついこのあいだ松尾可先輩のことを思い出したばかりだったので、不思議な感じがした。
「……松尾可先輩、おれに猫を寄越したりしていないですよね?」
「猫? なんの話だ?」
「や、なんでもないです」
やはり松尾可先輩の仕業ではないようだった。それはそうだろう。ずいぶん会っていなかったし、いくら先輩がかつて奔放だったとしても、迷子の猫チラシを作っておれに猫をあてがうなんていうのはありえない。先輩にしてはまわりくどい。だいたい先輩はおれの住所を知らない。
「鶴森は教員をやっているんだったか」
「や、それはもう辞めたんです。今はブラブラしてまして」
「ふうん」
松尾可先輩は、水割りを傾けながらぼんやり言った。聞いておきながら、あまり興味がない様子だ。
「先輩は最近何をしているんですか?」
「おれは短歌を作っている」
「短歌?」
先輩に短歌の趣味があるというのは初耳だった。だから浴衣を着ているのだろうか?
「短歌って、五七五七七の」
「うん。しかし短歌は難しい。おれが何か歌を作ろうとしても、すでに世の中にはもっと良い歌が存在していて、おれはたびたび絶望する」
それはおれも小説を書いていて痛感することだった。これだと思ったアイデアや着眼点はすでに誰かに使われていて、しかもおれよりうまい。あるいはがんばってひねり出したつもりでも、読んだ物や見た物の受け売りにすぎなかったりする。
「とくにな、西武線がすごいんだ」
松尾可先輩はまじめな顔で言った。
「本川越南大塚新狭山狭山市入曽新所沢」
いきなり先輩は駅名を羅列した。
「えっ、なんですか? 本川越?」
「短歌だよ。本川越、南大塚、新狭山、狭山市、入曽、新所沢。連続した駅がきれいに五七五七七になっているんだ」
「え? ……ああ、本当だ」
「下の句が洒脱で良い。おれにはとてもこんな歌は詠めない」
「よくわからないですけど、駅名が偶然に短歌の形に並んでいるということですよね?」
「東上線は惜しいんだ。朝霞台志木柳瀬川みずほ台鶴瀬ふじみ野上福岡。上福岡だけが字足らずだ。実に惜しい」
「はあ、そうですか」
「こんなにも美しい歌が自然発生している。おれがこねくりまわした歌に、なんの意味があろう」
松尾可先輩はうなだれた。おれは慌てて言う。
「いや、ただの偶然ですよね? たしかに美しい偶然ですけど、それと短歌を詠むことはまた別の話ですよ。日本語に五七五ってあふれていますし」
松尾可先輩は、ふうっとため息をつき、浴衣の袂からくしゃくしゃに潰れた煙草を取り出した。
「鶴森。火、あるか?」
「あ、はい」
ポケットからライターを出そうとまさぐっていると、先輩はカウンターに置かれていたおれの携帯電話にすっと手を伸ばした。
「あ、」
おれが小さく声を上げる間に、先輩はすいすいとそれを操作した。
「生意気言う後輩のメールは、こうだ」
「……あっ!」
佐藤ミユキ宛に作っていたメールを、勝手に送信されてしまった。
「ちょっと! 何するんですか!」
慌てて取り返すが、遅かった。しっかり送信済みになっている。
「まだ途中だったんですよ!」
「大丈夫だ、あらゆるメールに万能の締め言葉、どうぞよろしくお願いします、を付け加えておいた。で、火は?」
「文脈が無茶苦茶ですよ!」
松尾可先輩はひょいとおれの手からライターを取ると、悠然とした仕草で火をつけて、たっぷり煙を吸い込んだ。
「宛先は女の名前だったな。好きな女か?」
にやにや笑って言う。
「いい歳して中学生みたいだぜ」
佐藤ミユキは猫がいなくなったことを知ってどう思うだろう? そりゃあ早いところ連絡をしなくてはならなかったが、もうちょっと、こう、推敲とか心の準備をしたかった。
「放っておいてくださいよ。あんたこそ、いい歳して学生みたいなことをして。先輩は短歌のほかは何をやってるんです?」
「……いろいろだよ」
ふっと笑って煙を吐いた。もしかしたら松尾可先輩も無職なのかもしれないな、と思った。
「そうだ鶴森。おれは昔、お前に傘を借りたことがあったな?」
「傘?」
唐突にそんなことを言われても、まるで覚えていない。
「さあ、貸したかもしれませんが……」
「ここで会ったのも巡り合わせだ。傘を返してやろう。おおい、お勘定!」
煙草を灰皿にぎゅうと押し付け、唐突に会計を始めた。ママはのんびりとレジを打った。
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