第6話 告解
六 告解
歩いていくうち、ソーダがいなくなったことそれ以上に、別の不安が頭をもたげていた。
……佐藤ミユキに何と言おうか。そのことが何より悩ましく感じられた。
このあいだばばあのブロマイドを見られて微妙な空気になったあとなのでなんとなく気まずいというのもあるが、どう連絡したものか。
猫がいなくなった。目が覚めたらいなかった。どこへ行ったかわからない。三日間帰ってきていない。だから——、だからどうすると言うのだ? いや、とりあえず飼い主探しを打ち切らなくては。肝心の猫がいないのだから、チラシも回収せねばならない。
しかし、佐藤ミユキに連絡することはひどくためらわれた。なぜだろう? そもそも誰かのイタズラだか嫌がらせだかによってうちに押しつけられた猫だ、いなくなったからといっておれが責任を感じる必要はない。けれどもおれは、電話をかけることもメールを送ることもできなかった。
佐藤ミユキをがっかりさせたくなかった。いや、がっかりするかどうかはわからない。佐藤ミユキはたまたま猫を見つけただけなのだ。猫が好きなだけで、猫のことを心配していて、ついでにちょっとした探偵ごっこを楽しんでいて——、
ソーダがいなくなって、佐藤ミユキとのつながりが消えてしまうことをおれは恐れているのだろうか。そんな、まさか。
ぐずぐず考えながら歩いていたら、いつのまにか面影橋近くまで来ていた。神田川を越えればもう早稲田だ。ずいぶん歩いてしまった。そういえば、朝から何も食べていない。にわかに空腹をおぼえて、どこか店に入ることにした。
そうだ、久しぶりに迷亭に行こう。
迷亭というのは神田川沿いある小さなバーで、都電の早稲田に近い。年齢不詳のママがひとりでやっていて、止まり木にスツールがいくつか並んでいるだけの簡素な店だ。バーではあるけれど、ママは気まぐれにサンドイッチだのちょっとした煮込みだのを出している。あまりしゃれていなくて小汚いため早大の学生も少なく、ひとりで入るには気軽で気に入っていた。
「いらっしゃい。……あら、ごぶさたね」
ママは煙草をくゆらせながら、そう言った。たしかに久しぶりだった。仕事を辞めた春から来ていなかった。
「どう、最近は。忙しいの?」
「失業したんでひまですね」
「あら、そう」
ママはころころ笑った。
「何か、食べるものある?」
「今日はもうピクルスと卵サンドしかないわね」
「じゃあそれで」
ママが支度しているあいだ、ゆっくり水割りを舐めた。店はすいていた。中年男と若い女のイカニモ訳ありなカップルがひそひそ話をしているほかは、客はおれだけだった。店には古い歌が流れていたが、それが何の歌だか思い出せなかった。聞き覚えのある女の声だったが、名前が出てこない。ぼんやり旋律をたどっていると、
「おまちどおさま」
ママが卵サンドを置いてくれた。
「どうも」
「なんだか顔色悪いんじゃない。どうかしたの」
「どうもしないです。……おかわりもらえますか」
「はいはい。鶴森くんは具合が悪そうだから、うんと濃く作ってあげましょ」
ママは微笑んだ。
「……猫って飼ったことあります?」
いつのまにかおれの口から、そんな言葉がこぼれていた。猫のことを誰かに話すつもりはなかった。だけど、口にしていた。ママもそうだし、タクシーの運転手だとか床屋だとか「職業的におれと会話をしてくれる人」には、なんとなくいろいろなことを話してしまう。
「猫? 子どもの頃、飼っていたことがあったわね。姉が動物好きで」
「どんな猫でした?」
「茶トラの雌。でもすぐに死んじゃったのよ、家の近くで車に轢かれてしまって。かわいそうなことをしたわ。それ以来動物って飼ってないわね」
「猫って、家出するもんなんでしょうか」
「猫がいなくなったの?」
「ええ、まあ」
友人でも恋人でも仕事上の利害関係もない気安さからだろうか。べらべらと言葉は溢れた。ほとんど懺悔のようなものだ。
「うちに迷い込んできた猫なんです。元々飼ってたわけじゃない。ちょっとした成り行きで、うちにいたんです。本当の飼い主はわからないんです。飼い主を探していたんですけど、見つかる前に、猫が姿を消してしまった」
「それで鶴森くんは落ち込んでいるの?」
「落ち込んでいるように見えますか」
「そうね、女の子に振られたみたいな顔をしているわね」
なんだか恥ずかしくなって、ごまかすように卵サンドにかじりついた。ここの卵サンドはオムレツがはさんであって、塩胡椒がきいている。塩気が舌にじんわりと沁みた。ま、猫は雄でしたけど、とおれがもごもごつぶやくと、ママはグラスをみがきながら、そう、と言った。
「……今はどうか知らないけど、ウイスキーの蒸留所では、必ず猫を飼っていたっていう話をきいたことがあるわね」
「ウイスキー?」
「そう。乾燥させている大麦をねずみや鳥が食べにきちゃうから、猫を飼うんですって。まあ昔昔の話でしょうね」
猫がすました顔で闊歩するウイスキー蒸留所というものを想像してみた。だけどそれはあまりうまくいかなかった。酒に詳しくないので蒸留所の風景が具体的に思い描けなかったし、猫の姿はどうしてもソーダになってしまった。ソーダにねずみを捕まえるような気の利いたことができるだろうか、とぼんやり思った。
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