第5話 海底、増殖する影
〈幕間〉
亀山と朝顔市に行ったことがある。高校三年の夏だ。亀山の家に泊まった日で、近所の神社でやっていた朝顔市を見に行った。
おれも亀山も、とくに朝顔に興味があったわけではない。ただ、当時亀山が気に入っていた図書館の司書さんが朝顔市で店番の手伝いをすると聞きつけて、わざわざのぞきに行ったのだ。
「朝顔ってさ、古文だと、朝まで共寝した相手のことをあらわすんだと」
亀山はにやにや笑って言った。おれに朝顔市の話をしてくれたってことは、司書さんはおれに気があるってことだ、と力説していた。
「そんなわけないだろ」
おれはうんざりして言ったのだ。つねづね亀山は思い込みが激しいところがあり、現実に引き戻すのに手を焼いた。
「だってあの人、卒論で源氏物語やったって言ってたぞ。知らないわけがない。どうする、おれ、今年受験なのに」
亀山の家に泊まって勉強会をしていた晩だった。おれも亀山も英語の成績が壊滅的で、互いの英単語の語彙の少なさを罵りながら机に向かっていた。
「ぜったい彼氏いるって」
「なんでわかる? 鶴森、お前女子とつきあったこともないくせに」
「いいから早くその速読英単語を進めろよ」
「ふん。おれは最少限の単語で長文を読み解く技を編み出したから速単はもういい」
「文型とかそういうことか?」
「いや、もっと文章というものの原理原則だよ。英語の長文ったって、センター試験ごときにそう複雑な文章が載るわけはないんだ。文章のスケール感を掴みさえすればいい。たとえばこの文さ、『比較的最近まで、塩は現金の一種として使われていた』って始まってるだろ? そしたらこの文章は塩のことが書いてあるに決まってるし、なぜ塩が現金として用いられたのかとか、理由や歴史の話になるに決まってるんだ」
「……まあ、それはそうかもしれない」
「たとえば塩についての文章で、いきなりフロイトが出てくることもあるまい。だから、知らない単語が出てきても放っておけば良い。律儀に和訳する必要なんてない。常識の範囲内の話の展開に耳をすませれば、じねんと文章の内容が浮かび上がってくる。想像を超える文章なんて存在しない」
「わかった。塩とフロイトについて密接な関係を説いた文章を考えてやるから、ちょっと待ってろ」
そんな馬鹿話をしていたため勉強そのものはまるで進まなかったし、ついでに寝坊した。神社に着いた頃には、朝顔はみなしぼんでいた。
「やれやれ」
亀山は神社の砂利を蹴飛ばした。司書さんの姿も見えなかったからだ。
「おみくじでも引いていくか?」
しかしおれが言うのをきいていないのか、亀山はしゃがんで石ころを熱心に拾っていた。神社に敷かれている、白くて丸い石である。
「何やってんの?」
「塩のかたまりみたいに見えるな」
亀山は石をひとつ、つまみあげた。昨晩の話をひきずっているらしい。
「まあ、見えなくもない」
おれは曖昧に返事した。朝から暑い日で、早く屋内に入りたかったのだ。
「でも、ちがうな。鶴森、この石はなんだか骨みたいに見えないか」
「骨?」
骨と言われておれが反射的に思い浮かべたのはフライドチキンの骨で、まるでその石は似ていないように思えた。亀山はそれを見透かしたように笑った。
「人間の骨だよ。葬式で焼いたあとの骨」
「おれ、葬式って行ったことないんだ。身の回りで誰も死んでないから」
おれが言うと、亀山はぼんやりと遠くを見ながら言った。
「そうか。おれ、このあいだひいじいさんの葬式に行ったよ。……そのとき、骨を一個、こっそり持って帰ってきたんだ」
亀山は透明な目をしていた。
「小さくて平べったくて、丸い骨だよ。どこの部分かはわからないな。……それを、おれは、食ってみたんだ。なんの味もしなかったよ。砂みたいだった。口の中の水分が、すうっと奪われた。なんの味も匂いもなかった」
「……」
急にそんな話になったので、おれは沈黙した。なんと言えばいいのかわからなかった。視界の片隅で、すっかりしぼんだムラサキの朝顔が揺れていた。
「なあ、鶴森。おれが死んだら、おれの骨を食ってみるといいよ」
そう言って亀山は笑った。
「……お前が先に死ぬとは限らないだろう」
かろうじておれがそう言うと、それはそうだなあと亀山は言った。
でも、瞬間、おれは亀山が先に死ぬことを予感した。おれは死んだ亀山をこの目で見ることになるだろう、それは寒い日になるだろう。真夏の朝の神社で、なぜだかそれがわかった。
ふと見れば、亀山が手に持っていた白い石は風にぽろぽろと崩れていった。それでもおれにはそれが骨には見えなくて、貨幣としての塩についての文章を——、
そういう夢を見た。
記憶と妄想がごたまぜになっていた。亀山と勉強会をして朝顔市に行ったのは事実だったが、石ころや骨の味云々は実際にはなかったことだ。
亀山が死んでから、亀山の夢を見たのは初めてだった。少なからず動揺していたが、布団の隅でソーダが丸まっているのが目に入り、なんとなく眠くなって、もう一度目を閉じた。
そのあとは何の夢も見なかった。
五 海底、増殖する影
けれど、ふたつのことが起きた。
目が覚めると、どしゃぶりの雨だった。天気予報は大はずれだ。雨音で目を覚ました。雨のせいで涼しい。外に出したままだった洗濯物がぐしょぬれになった。
ふたつめの事象はかなり不可解だった。
ソーダがいなくなっていたのである。
「……ソーダ?」
ドアはもちろん閉めてあった。窓は開けていたものの、網戸は閉まったままだったのだ。ソーダが脱走したのだとして、猫が律儀に網戸を閉めていくものか。
部屋の中を見回し、ちゃぶ台の下やら風呂場やらあちこち探すけれども、ソーダはいなかった。夜中に目を覚ましたときは、たしかにいた。朝起きたら、姿を消していた。煙のように消えてしまった。
消失。猫が、家の中で? いや、そんなことはあるまい。そんな非科学的なことがあってたまるか。ではどこに? 誰かが窓から入って、ソーダを連れて行ったとか? ますますありえない。こんな狭い部屋に侵入者があったなら、気付かぬはずはない。それではやはり、猫が自分で出て行ったのだろうか? きちんと自分で網戸も閉めて? よりによってどしゃぶりの夜に?
わけがわからなかった。
それでもおれは、たかをくくっていたのだ。放っておけば帰ってくるだろうと。どこかに隠れているのだろうと。とりあえずドアと窓を細く開けて、一日過ごした。窓辺にはえさの皿も置いておいた。
しかし次の日になっても、その次の日になっても、ソーダは帰って来なかった。いよいよおれは、混乱した。もう丸三日姿を見ていない。どうやら本当に、猫はいなくなってしまった。
一日中ぼんやりと小説の続きを書いたり、読みさしの本を広げてみたが、さっぱり捗らなかった。吸い殻ばかりが増えた。三日間、雨が降ったり止んだりした。今日も昼過ぎから降り出した雨が夜まで降り続いていた。
雨が止むのを待って外に出た。別にソーダを探そうと思ったわけではなかった。何しろどこに行ったか見当もつかない、ただ歩きたかっただけだ。とりあえず身体を動かせば、少しは頭がすっきりするかもしれない。
鬼子母神の参道は雨に濡れ、石畳の道に街灯が反射してぬらぬらと光っていた。うらなりも他の店もとっくに閉まっていて、通りはしんとしている。海の底のようだと思った。
踏切に差しかかったところで、ちょうど都電がごとごと走ってきた。早稲田行きの終電だろう。乗ろうか、と逡巡しているうちに都電は走り去ってしまったため、歩き続けることにした。
ソーダはどこに行ったのだろうか。こんなふうに消えてしまうと、猫がうちにいたのは夢の中のできごとのように思えた。はじめから猫なんていなかったんじゃないか。いや、ソーダを抱いたときのぐんにゃりと柔らかくて温かい感触は、まだ手に残っている。夢ではない。猫はたしかにおれの部屋にいたのだ、夢であるものか——。
そのとき、ふと何かが視界の隅でまたたいた。早足で歩いていたから、うまく認識できずに通り過ぎた。だけど、何かが気になって振り向いた。
『亡霊黒猫』だった。
ブロック塀に描かれた黒猫の影だ。街灯の頼りない明かりに照らされて、ひっそりと佇んでいた。
「……猫」
ここは何度も通っている道だ。たまに一丁目にある寒月湯に行くときなど、近道として使っている。つい何日か前にもここを通った。だけどこれまでここには『亡霊黒猫』はなかった。最近新たに描かれた『亡霊黒猫』ということである。
……ソーダが、壁の向こうに消えてしまった影なのではないか。思わずそんな妄想が明滅した。
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