第4話 晴れときどき、ハムカツ

四 晴れときどき、ハムカツ


 日々は過ぎる。

 ソーダの奴はすっかりうちに慣れた様子だ。慣れたついでに、床や扉に引っかき傷をたくさん作ってしまった。でぶのくせに動きは俊敏で、とはいえ礼儀知らずの粗忽者だから、灰皿はひっくり返すしおれの帽子をぐちゃぐちゃにしてしまうし、やりたい放題だ。やはり野良猫ではなく、もともと飼い猫なのだろう。どうも人懐こい。

 ソーダを預かってしまってから、もう一週間になる。依然として飼い主は見つからない。佐藤ミユキは聞き込みと称して、雑司が谷のあちこちの店に声をかけているらしい。

『最初の、ねこ探してますのチラシを貼った人を見ていないか、聞き込みをしてきました。あるいはソーダくんに見覚えがないかも聞いてみました。でも、誰も知らないそうです』

 佐藤ミユキからはそんなメールがきた。


 佐藤ミユキがうちを訪ねてきたのは、晴れた土曜の午後だった。まだ梅雨は明けていないらしいが、日差しはじりじりと暑い。佐藤ミユキは麦わら帽子をかぶっていた。

「こんにちは。調査の報告に来ました。これ、おみやげです」

 そう言って差し出したビニル袋から、鮮やかなアイスの包みがのぞいた。

「……うち、散らかってるんですよ」

 とは言ったものの、アイスが溶けてしまうので、結局は佐藤ミユキを部屋に上げることになった。

「メールにも書きましたけど、まだチラシの効果はないですねえ。ハルオさんはどうですか。誰か、ハルオさんに猫を飼わせたいというようなお知り合いはいませんか」

 佐藤ミユキはのんびりした調子で言った。

「さあ。いませんよ、そんな人」

「では、猫がありあまっているような人は」

「いませんね」

「それでは、猫が好きで好きでたまらなくて、あまねく人々に猫の飼育を推進するような過激な愛猫家の方は」

「いませんよ!」

 むう、と佐藤ミユキは眉を寄せた。

「じゃあ、猫から離れてみましょうか。こういう手の込んだイタズラをしそうな人に心当たりはありませんか」

 イタズラ。

「……イタズラ好きといえば」

 松尾可先輩だ。

 大学の先輩である。出身高校も同じだったのだが、その頃は面識がなかった。大学でたまたま授業が一緒になって、聞けば亀山の部活の先輩だったことがわかり親しくなった。

「大学時代の先輩ですけどね、昔、たびたび妙なイタズラをされました。たとえば、貸してもらった推理小説の初っぱな、登場人物のひとりにラインマーカーが引かれていて」

「犯人のネタバレをされてしまったのですか」

「いや、それが犯人でも被害者でも探偵でも、重要参考人ですらもなかったんです。なぜその人物に印をつけてあったのか、何かの伏線なのか、ずっと気になってしまっていらぬ深読みをさせられた。そういうイタズラをされたことがあります」

 そのほかにも、手当たり次第に教室の黒板に本日休講と書いて授業を撹乱したり、金がないと言っては大学構内のビワを収穫したり、破天荒なエピソードを挙げれば枚挙に暇がない。

「へえ、それはおもしろい方ですね。今もよく連絡をとっているんですか?」

「全然ですね。先輩は留年しちゃったので、すっかり疎遠になってしまった。ま、連絡先もわからないですし、ずいぶん会ってないですから、先輩の仕業とは考えにくいですけど」

「そうですか。やはりチラシと聞き込みで地道に探していくしかないですかねえ」

 佐藤ミユキはため息をついたが、とくに深刻そうな顔ではなかった。そして、ソーダの背中やあごの下を、いとしそうになでた。猫が好きと言っていただけあって、猫に慣れているなと思った。

「ソーダくん、いったいぜんたい、きみはどこから来たんだろうねえ? きみがお話できたらいいんだけど」

 佐藤ミユキになでられると、ソーダはゴロゴロ鳴いて、腹を見せて転がった。この猫畜生、きれいな女だから媚びてやがる。

「……ハルオさんのうちは、本がいっぱいですね」

 ふと佐藤ミユキが、おれの過積載気味の本棚を眺めて言った。それから、机に散らばった原稿用紙や紙くずを見て、

「ハルオさんは、物書きの方なのですか」

 ときいた。

「ん。ま、一応ね」

 格好つけて一応などと言ったものの、正確には自称・物書きである。仕事はゼロだ。どんなものを書いているのかと聞かれたら、どうしよう。自分の作品を説明するのは苦手である。何かおれの書いたものを読んでみたいと言われたらどうするか……などとぐずぐず考えていると、

「あ、さっきお渡ししたアイス、イチゴアイスとメロンアイスなんですけど。いっしょに食べるとスイカの味がするんですよ」

 と、笑いながら子供のようなことを言った。

「あ、そうですか。……どうも」

 とくにおれの小説についての話は広がらなかったようで、ホッとしたような、拍子抜けしたような、ともかく脱力した。

「それからこれ、このあいだうらなりに置いてもらったチラシです。そういえばハルオさんに渡していませんでしたよね」

 そう言って佐藤ミユキがおれに一枚寄越したチラシには、『猫の飼い主を探しています』と書かれていた。ソーダの写真も載っていた。

 佐藤ミユキの作ってきたチラシは美しい書面だった。文字の並びが端正だ。佐藤ミユキはデザインとか広告の仕事をしているのかもしれないな、と思った。


「そういえばあのあと私、お祭りをちょっと見物してきたんです。朝顔も売ってるんですねえ。ひとつ買ってみましたよ」

 鬼子母神の夏市は朝顔市も兼ねている。そうか、もう朝顔の季節なんだなとぼんやり思った。佐藤ミユキは屋台めぐりの様子を楽しそうに語った。一緒に行ってみてもよかったな、と少し後悔していると、

「すみませーん! 先生! 鶴森先生!」

 ドアを叩く音と、子どもの声がした。

「あら、出版社の方でしょうか」

「……たぶん、昔の生徒だと思います」

 おれのことを先生と呼ぶのは、教員時代の同僚か生徒ぐらいのものである(悲しいかな、おれを物書きとして先生と呼ぶ者はこの世のどこにもいない)。子どもの声だから生徒と思われるが、非常勤の講師をやっていただけのおれを生徒が訪ねて来るというのは初めてのことだった。

 ドアを開けてやると、小柄な少年とひょろっと背の高い少年が二人、並んで立っていた。やはり、おれが勤めていた中学の制服である。

「鶴森先生、お久しぶりです」

「遊びに来ました」

 しかし、おれはこの生徒たちを知らない。

「おれはもう、教員じゃないんだけどな。君ら何年だ? どうしてうちを知ってる?」

「工藤っていうんですけど。覚えてませんか」

 小さい方が名乗り、背の高い方も続いた。

「僕は岩尾です」

 工藤に岩尾。まるで記憶にない。

「悪いけど、あんまり生徒の名前は覚えてないんだよ。おれは非常勤だったから、担任も部活の顧問もしてなかったし」

 しかし二人は平気な顔をしている。

「でも僕らは先生のこと、よく覚えてますよ」

「先生の国語、面白かったです。太宰治を丁寧にやってくれましたよね」

 太宰。たしかに、授業で走れメロスをやった際、ついでに人間失格も読んでやった覚えがある。思えばずいぶん趣味に走った授業をしたものだ。「立ち話もなんですから。おじゃましまーす」

 工藤と岩尾と名乗った二人は、招き入れもしないのに、図々しくもうちに入ってきた。今日は強引な客の多い日である。

 うちに上がるなり、二人は佐藤ミユキを遠慮なく眺めた。岩尾と名乗った方がおれに耳打ちする。

「奥さんですか」

「ちがう」

「はあ、じゃあガールフレンドさんですか。いずれにせよ、先生もすみに置けませんね」

 そう言って、にやにや笑う。おれは佐藤ミユキに、少し前まで教員をやっていたことを話した。

 わけがわからないが、四人でアイスを食う流れになった。ソーダは来客に警戒するかと思ったが、わりあいすぐに馴染んだ。

「本当だ、スイカの味がする!」

「ね、そうでしょう」

「先生、この猫、左右の眼の色がちがうんですねえ。青眼の猫は、耳がよくないんですよ」

 佐藤ミユキも工藤も岩尾も、意外と図太いのか、おれの散らかった部屋ですっかりくつろいでいるし、初対面なのにすらすら会話をしている。

「……ところでお前らは、どうしておれを訪ねてきたんだ? なぜうちを知ってる?」

 おれが聞くと、岩尾はゆうゆうとアイスを平らげてから言った。

「やだなあ先生、教員にプライバシーなんてありませんよ」

 うんうんと頷いて、工藤も言う。

「職員室をちょっと探検すれば、住所なんてすぐ手に入りますからね」

 おそろしい。まったく、あの学校の情報管理はどうなっているんだろう。

「ろくなもんじゃないな。で、何しに来たんだ? まさか……」

 こいつらがこの猫騒ぎの犯人だろうか。

「まさか、なんですか?」

 工藤が首を傾げた。

「お前らか、この猫をおれに押し付けたのは」

「猫?」

 工藤は目を丸くした。

「猫がどうかしたんですか。この猫、先生の猫じゃないんですか」

 岩尾も不思議そうな顔をしている。

「おれの目を見て言ってみろ。本当にこの猫を知らないのか」

「なんのことですか? 全然わからないです」

 とはいえ冷静に考えれば、こいつらの仕業ではないだろうという気はしていた。あのチラシは、子どもが作ったふうではなかった。妙にきちんとしていたのだ。ぼんくら中学の生徒に作れるとは思えない。それに中学生のイタズラにしては、妙に手が込んでいる。

「本当に知らないんだな? じゃあお前らは何をしにきたんだ?」

 ええと、と工藤が居住まいを正した。

「僕らが来たのは、修学旅行のおみやげを先生にあげようと思って」

「修学旅行?」

「先生に渡そうと思って八ツ橋を買ってきたんですけどね、岩尾が食べちゃったんですよ」

 工藤に言われて、岩尾が恥ずかしそうに頭をかいた。

「そうなんです。生八ツ橋の皮だけのやつを買ったんですけど、あまりにもおいしくて、つい全部食べてしまいました」

「ふふ。私も八ツ橋好きです」

 佐藤ミユキが笑った。工藤はあくまで真面目な顔で言った。

「せっかく割り勘で買ったのにね。だから、八ツ橋はもうないんです。すみません」

「はあ、そう」

 そう、としか言いようがない。猫のことは知らないようだし、名前も覚えていない元生徒からみやげがありますと言われても、よくわからないし反応に困った。

「でですね、代わりにお好み焼きの材料を持ってきました」

 そう言って、二人はいそいそとビニル袋を広げ始めた。キャベツやら小麦粉やら豚肉やら卵やらが、ずらずらと並ぶ。

「……話の展開が斜め上すぎて、よくわからんのだけど。みやげを食べちまって、どうしてお好み焼きが出てくる?」

「僕らがお好み焼きが好きだからです。作ってあげますよ」

「ソースとマヨネーズはありますよね?」

「今、作る気か?」

「今作らずにいつ作ると言うのですか?」

 教員時代から思っていたが、中学生の思考の流れというのはまったくわけがわからない。

「あと、ハムカツとトマトも買いました」

「なんでハムカツとトマト?」

「僕らが好きだからですよ」

 ……はあ、そう。やはり、そうとしか言いようがなかった。

 工藤と岩尾は図々しくもうちの台所を占拠し、キャベツをみじん切りし始めた。それを佐藤ミユキが手伝っている。その足元を、ソーダがうろうろ歩いた。

 つい一週間前まではなんの関わりもなかった女と猫と、おれの記憶にない中学生が二人、おれのうちでアイスを食ったり料理をしたりしている。あまりに奇妙な光景すぎておれの思考は停止し、冷蔵庫に残っていたきゅうりとツナ缶で和え物を作っていた。

「先生、意外と料理するんですね」

「ま、たまにな」

「あら、トマトがうまく切れないわ」

 佐藤ミユキはトマトを切るのに難儀していた。中身がずるずる流れてしまうらしい。

「すみません、上手じゃなくて」

「いや、トマトが熟れすぎか、包丁の切れが悪いんでしょう。おれも包丁をろくに研いでいないもので申し訳ない」

 とおれが言うと、工藤と岩尾は顔を寄せ合って何やら笑っていた。

「なんだ、お前ら」

「なんでもないですよう」

「すみに置けないなって話です」


「じゃ、焼きますよ!」

 岩尾が高らかに宣言した。

 前に何かの景品でもらったホットプレートを、初めて箱から出した。

「変な形。工藤、へったくそだなあ」

「生地がゆるいんだよ。先生、かつおぶしはありますか」

 工藤と岩尾はあれこれと騒がしい。鉄板からは煙がもうもうと立ちのぼった。

「ハルオさんの作ったきゅうりのおかず、おいしいですねえ」

 煙の向こうで、佐藤ミユキが微笑んだ。

「……どうも」

 そういえば子どもの頃は、しばしば家でホットプレートを囲んだものだったなと思う。父と母と兄とおれ。日曜の夜、テレビを見ながら囲んだ食卓。今思えば、母は働いていたから切って焼くだけの夕食が楽だったのだろう。だけどそれは懐かしくいとおしい記憶だった。

「——先生は、京都に行ったことありますか」

 唐突に工藤にきかれ、我に返った。

「京都か。学生の頃に行ったきりだな」

「僕ら自由行動で、いろんなところに行きましたよ。下鴨神社とか京都タワーとか」

「叡山電鉄に乗りました。小さい電車で、駅は無人で面白いんです」

「ふうん」

「ま、都電には敵わないですけどね。そういえば鬼子母神と雑司が谷の間、ずっと工事してますね」

 都電荒川線は、三ノ輪橋から早稲田までをのんびりと走る。都電雑司が谷と鬼子母神の間は、地下の道路工事の関係で線路が数メートル移設された。元の線路から新しい線路に移る際、都電は大きくカーブする。ただでさえゆっくりとした都電が、さらにスピードを落としてごとごとと走っていく。こういう電車絡みの工事というのは進みが遅い。サグラダファミリアのように永遠に工事をしている気さえする。

「清水寺には行ったことありますか」

 がつがつとハムカツを食いながら、岩尾が言う。

「あるよ。清水の舞台だろう」

「僕ら、清水寺で胎内めぐりというのをやってきたんです」

「胎内めぐり?」

 佐藤ミユキが不思議そうな顔をした。

「胎内めぐりというのは、お堂の下を菩薩さまの胎内と見立てて、中を歩くものです。迷路みたいですけど本当に真っ暗で、手すりの代わりの数珠が張られていて、それを頼りに中を進むんです」

 工藤が偉そうに説明した。

「中には菩薩さまの石があって、それを一周して戻ってくるんです。真っ暗な地下で上がったり下がったり、ダンジョン探検みたいで面白かったですよ。先生、行ったことありますか?」

「清水寺のは行ったことないな。むかし、どこだったか別の寺で、そういうのがあった気がするけど、あまり覚えてない。仏さまの腹の中をめぐって仏教の教えに出会うとか、生まれ変われるだとか新しい人生が始まるだとか……、そんな意味合いだったか」

「そうですそうです」

 工藤と岩尾はうなずいた。

「へえ、面白そうですねえ」

 佐藤ミユキが笑う。

「ま、ちょっと一周しただけで生まれ変われるんなら、ずいぶんお手軽な人生だと思いますけどね」

 そうおれが言うと、

「あっ、先生が馬鹿にしてる!」

「国語の先生のくせにロマンがない!」

 と工藤と岩尾が抗議した。とはいえそう言いながらも、二人はけらけら笑っていた。

「だから、おれはもう教員じゃないんだって」

 おれが訂正するのも聞かずに、二人はふと後ろにあった本棚に手を伸ばした。

「でもさすがに先生のうちは、たくさん本がありますねえ」

「太宰治。坂口安吾。織田作之助。ふうん」

 そう言って、工藤が何気なく本棚の一冊を手にとったときだった。

「——あら!」

 佐藤ミユキが小さな悲鳴を上げた。

「どうかしました?」

 蜘蛛でも出たろうかとぼんやり考える。しかし出てきたものは、蜘蛛よりもっと始末が悪かった。

「全裸だ!」

 岩尾が叫ぶ。工藤が『人間失格』を手に取ったとき、はずみでハラリと落ちてきたのは、ストリップ劇場でつかまされたばばあのヌードポラロイドだった。

「熟女だ熟女だ」

 岩尾がうれしそうに囃し立てる。

「や、それはたまたまで、」

 なんであれをあんなところに突っ込んでおいたのだ、おれは。一週間前の自分を恨んだが後の祭りである。ああ、佐藤ミユキはどんな顔をしているだろう。

「……セクシーショットですねえ」

 そう言って、佐藤ミユキはちょっと笑った。さすがに佐藤ミユキもそれなりの年齢だ、明からさまに軽蔑するとか、怒って帰ってしまうとか、そんなことはなかった。

 それでも、食べ終わって後片付けをしている間、なんとなく佐藤ミユキはぎこちなかった気がした。

 まったく、元生徒なんか家に上げるものではない。人間失格、の文字が胸に刺さる。ソーダは我関せずというふうに、あくびした。

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