第3話 亡霊黒猫と句読点

三 亡霊黒猫と句読点


 夕方近くなって散歩に出た。なにしろまったくの無職になってしまったのだ、散歩でもしないことには引きこもりになってしまう。

 坂をのぼって鬼子母神に向かうと、境内に屋台が出始めていた。そうか、今日から夏市か。毎年七月六日から三日間、鬼子母神は夏市というお祭りである。金魚すくいに型抜きなど、テキ屋の屋台が懐かしい雰囲気だ。平日だが、夜には人が集まるだろう。

 ジュンク堂でもひやかして来ようと思って、寺の横の細い道を抜けて東通りを目指した。湿度は高いが風があるので散歩には悪くない。どこかの家から、ふわりと蚊取り線香の匂いが漂った。

 雑司が谷に住み始めて六年目になる。職場から近いのと、古い家や昔からの店が多く残っている街並みが気に入って住み始めたが、なかなか住みやすい。池袋の大学に通っていたのもあって、なんとなく雑司が谷界隈は落ち着く。都電ののんびりした感じも好みだ。

 歩きながら『亡霊黒猫』に目をやった。『亡霊黒猫』は梅雨の長雨で薄れてしまったようだ。威光稲荷神社前の車止めに描かれた『亡霊黒猫』は、でぶのソーダよりもさらに大きい。

 『亡霊黒猫』というのは、雑司が谷界隈の電柱や壁、車止めなどに描かれた猫のラクガキのことである。黒いスプレーでささっと描かれたふうで、猫のシルエットになっている。誰が何のために描いたかわからない。そのラクガキは、いつのまにか雑司が谷に点在していた。少しずつ増えているらしいがよくわからない。

 ラクガキではあるものの、猫の多い雑司が谷の雰囲気にあっているということで、なんとなく消されずにいるらしい。とはいえ雨風にさらされて、薄れて見えなくなってしまったものも多い。

 おれはこの落書きを『亡霊黒猫』と呼んで気に入っていた。

 なんだか野良猫が、ひょいと壁の向こうに消えてしまった痕跡であるかのように見えるのだ。たしかに雑司が谷は猫が多いけれども、今や野良猫は住みにくい世の中だろう。都会に疲れた猫たちが、壁の向こうの別の街へ消えてしまったのではないか。ぶっそうな例えだが、ゲンバクの熱線でジョーハツしたヒトの影が壁に残るみたいな、そういう消失の痕跡。猫は壁の向こうへ消えてしまったのだ。亡霊のような影だけ残して。 

 『亡霊黒猫』を見るたび、おれはそういう妄想をこねくり回した。

 東通りに面した霊園の壁にも『亡霊黒猫』があって、ここの猫は横を向いている。今にもするするっと駆け出しそうだ。

「鶴森さん」

 声をかけられ振り向くと、佐藤ミユキが立っていた。今日は花模様のワンピースを着ていた。

「こんにちは。ソーダくんとお散歩ですか」

「……ソーダなら留守番してますよ」

「あら? でもそこに……。おや、これは絵だわ」

 猫がラクガキだと気付き、佐藤ミユキは驚いた。おれは『亡霊黒猫』の話をしてやった。

「へえ、あちこちに猫が描かれてるんですか。面白いですねえ。私、初めて気がつきました」

「ま、ラクガキですから、雨で消えかかっているものも多いですけどね」

「消えたんじゃないですよ。きっと、壁から飛び出して、本物の猫になったんじゃないかしら」

 ニッコリ笑って、妙なことを言う。佐藤ミユキはかわいらしい顔をしているが、少しおかしな女なのかもしれない。

「猫の飼い主は見つかりましたか」

「いえ、残念ながら」

 佐藤ミユキは首を振った。

「でもこれから、飼い主探しのチラシを喫茶店に置いてもらいに行くところなんです。よかったら、鶴森さんも一緒に行きませんか」

 うろうろ散歩してのども渇いたため、同行することにした。佐藤ミユキは小さな歩幅でリズミカルに歩いた。そういえば、誰かと歩くのは久しぶりだなと思う。途中、早くも金魚の袋をぶら下げた親子とすれちがった。

「お祭りでしょうか」

 佐藤ミユキが言った。

「鬼子母神の夏市ですね。今日から三日間お祭りなんですよ」

「なるほど。私、小さい頃スーパーボールすくいが好きでした。金魚すくいは下手っぴで」

 佐藤ミユキは楽しそうに話した。

「子どもの頃、ドラマで青いキラキラしたスーパーボールを窓から投げるシーンを見て、憧れてたんです。ビルの三階から道路にバウンドさせて、ちゃんと戻ってきてキャッチするんです。同じようなのがほしかったんですけど、なかなか取れなくって。結局自分ですくえたのは、木星みたいな変な柄の小さいスーパーボールでした」

「木星。それで、窓から投げたんですか?」

「ええ。でもどこかへ行っちゃいましたね」

 佐藤ミユキは笑った。


「ここなんですけど」

「なんだ、うらなりじゃないか」

 佐藤ミユキに連れられて行ったのは、うちの近所のうらなりという喫茶店だった。

「鶴森さんは、来たことありますか?」

「週三は堅い」

「なるほど。行きつけなんですね」

 夕方の喫茶店は空いていた。昭和初期のアパートを改築した店内は、ひっそりと静かだ。

「二階、空いてます?」

 と聞けば、カウンターの向こうからマスターが、いらっしゃいませも言わずに口元だけで笑ってうなずいた。七月だというのに長袖シャツをきっちり着込んでいて、青白い顔は昔の文学青年を思わせる。最近アルバイトに入ったじいさん(立派なひげのハンサムで昔は役者だったらしい)が、鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。

「マスター、寡黙な方なんですね」

 狭い階段を昇りながら、佐藤ミユキが言う。

「そうですかね。ま、人見知りするタイプなのかもしれない。佐藤さんが初対面だから」

 二階は誰もいなかった。客が帰ったばかりなのか、空のコーヒーカップがぽつんと置かれたままになっていた。

 テーブルにつくと、佐藤ミユキはメニューを丹念に検分した。

「……佐藤じゃなくて、ミユキの方で呼んでもらえませんか」

「はい?」

「私の名前です。子どもの頃から、佐藤って学年の誰かしらとかぶるものですから、だいたい下の名前で呼ばれているもので。苗字で呼ばれるのって、あんまり慣れてないんです」

「はあ……。じゃあ、ミユキさん、でいいですか」

「はい。あの、私も鶴森さんのこと、下のお名前で呼んでもいいですか」

「はあ、いいですけど」

「ありがとうございます。ハルオさん、でしたね」

 言って、佐藤ミユキはふわっと笑った。

 それはまるで控えめな花がほころぶような笑みで——いかん、花だなんて! おれとしたことが、なんてひねりのないブンガク的表現だろう。仕事を辞めてからほとんど女性と会話していないせいで、ある部分の精神年齢が中学生くらいに戻っている気がする。まずい兆候だ。

 そしてそういうことを意識すると、急におれと佐藤ミユキの身なりの差が気になった。佐藤ミユキの服装は、いかにも金がかかっているというふうではない。だけど色合いがきれいで作りもちゃんとしており、趣味の良さが伺えた。おれはといえば、着古したTシャツで裾には万年筆のインク染みがついており、ショートパンツは寝間着同然の代物だ。近所とはいえ、もう少しまともな服を着てくるのだった。

 アルバイトのじいさんが、アイスコーヒーを運んできた。この人は年寄りの割に大柄で、背筋がしゃんとしている。骨ばった大きな手が、グラスを置いた。

「ごゆっくりどうぞ!」

 やけによく通る声で言って、階段をどたどた降りて行った。コーヒーにガムシロップを垂らす。歩き疲れた体に甘さが心地良い。ふと佐藤ミユキを見ると、ミルクとガムシロップを二つずつ入れていた。

「ずいぶん甘党なんですね」

「ちょっと疲れていたもので。ここのところ、仕事が忙しくって」

 ここで互いの仕事の話をする流れだったのかもしれないが、ほぼ自ら選んだとはいえ無職の身としては、なんとなくその話題を避けた。佐藤ミユキはとくに気にするふうでもなかった。

「ハルオさんは、ずっと雑司が谷に住んでいるのですか」

「いや、生まれは埼玉です。雑司が谷に住み始めたのは、大学を卒業してしばらく経ってからですね。でも、もう六年目だな」

「そうですか。私は——」

 言いかけたところで、マスターが隣のテーブルを片付けに来たのだろう、二階に上がってきた。

「あの、すみません」

 佐藤ミユキは話を中断し、マスターに声をかけた。

「お店にチラシを置いていただきたいのですが……。猫の飼い主捜しをしていまして」

「いいですよ」

 チラシを見もせずに、マスターは快諾した。きれいな女の頼みだからあっさり聞きやがる。

「レジのところに置いておきますよ。迷子の猫なんですか?」

「迷子というか……」

 ことの仔細を話すと、マスターはふうんと唸った。

「それは不思議ですね。鶴森くんは、その猫に心当たりはないんですか。知り合いの猫だとか」

「いや、全然ですよ。まるでわけがわからない」

 おれが眉をひそめてみせると、マスターは息だけで笑った。

「あの、もうひとつお願いがあります」

 佐藤ミユキがマスターに言った。

「このチラシを持って行った人がいたら、よく見ておいて下さいませんか。もしかしたら最初の猫探しチラシを作った、犯人かもしれません」

 犯人。佐藤ミユキは探偵めいたせりふを口にした。猫が心配といいつつ、ごっこ遊びを楽しんでいるのかもしれない。

「そうですね。ではせいぜい注意しましょう」

 マスターは神妙にうなずいた。佐藤ミユキにのってやっただけかもしれないが、こんな探偵まがいの片棒を担ごうというのはなんだか意外だった。

「ありがとうございます。ハルオさん、よかったですねえ」

 言って、佐藤ミユキはニッコリ笑った。

 ああ、まただ。佐藤ミユキはすっと人の懐に入る。強引というわけではない、ごく自然に距離がちぢまる。よく笑う。長いセンテンスに効果的に打たれた句読点のように、絶妙な間合いで笑ってみせる。まったくこちらが意図せぬうちに、佐藤ミユキのペースに乗せられているのだ。

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