12-3
店を出ると、外では蝉の合唱が始まっていた。気温も朝より上がっている。冷房を浴びっぱなしだった肌も瞬く間に解凍された。
汗が滲むのを感じ、前髪を整えようと伸ばした指先は、毛に触れることなく額にたどり着いた。私の前髪はもう、乱れるほど長くはない。眉毛のはるか上にあって、面積の広い額が全開だ。
短くなったのは前髪だけじゃない。横も後ろもとにかくばっさりだ。おかっぱ頭を卒業した私の新たな髪型は猿の人形じみていて、やっぱりこれも女子高生らしくはなかった。
頭が軽くなりすぎて、脳にまで風が通り抜けていく気がした。さっぱりして気持ちがいい。私は空を見上げ、力いっぱい背伸びをしてみる。雲はまだ晴れていないけど、空はだいぶ明るくなっていた。
いつの間にか、人通りも復活している。行き交う人々から漂う浮き足立った雰囲気が、平日とは違っていた。ふたり連ればかりが目に付く。
あの日おぼろくんに遭遇したけやきの辺りにも、腕を絡めてのろのろと歩くカップルの姿があった。何となく落ち着かない気分で、私は目を反らす代わりに体ごと脇道へ反れる。
裏通りに入ると、蝉の声も遠ざかり一気に静かになった。仲睦まじげなふたり連れは、あの後どこへ向かうのだろう。カップルたちが蔓延る熱々地帯からわざわざ避難してきたのに、ついそんなこと考えてしまう。
振り切ろうと歩を進めると、新たなカップルが目に入った。車のまばらな駐車場の隅に並んで寛いでいる。
「あらやだ、キミたちもラブラブにゃのね」
近付いてみると、二匹はよく似たトラ猫だった。親子かもしれないし兄弟かもしれないし、もしかしたら本当に似たもの同士のカップルなのかもしれない。年齢も性別も分からないけど、寄り添っている姿はとても微笑ましかった。
「ふたりはどんな関係にゃの?」
猫語を駆使した私の問いかけが終わる前に、猫は二匹揃って車の下に飛び込んで行った。あまりの逃げ足の速さにちょっぴり傷つく。覗き込んだ姿勢のまま「にゃんだよー!」といじけていると、突然背後から声がした。
「小春ちゃん?」
こんな場所で聞こえるはずのない声に、私の首はひとりでに後ろを振り向いた。猫に負けない速度だった。「うわ、やっぱり小春ちゃんだぁ」と当たり前のことを確認する人物を見上げながら、私は「やっぱりおぼろくんだ」と胸の中で思った。
坊ちゃん刈りは今日も見事に整っている。白いシャツに薄桃色のズボンというおぼろくんの服装は、真っ黒な髪の毛と相まって、たらこのおむすびが食べたくなる色合いだった。そういえば、私は昨夜から何も食べていない。
「小春ちゃんに似た人がこっちに入ってくのが見えてついて来たんだけど、髪型が違うから悩んじゃったよ。すごい短くなったね。涼しそう」
首を左右に揺らし私の頭を色んな角度から眺めるおぼろくんは、頬にえくぼを浮かべた。ここしばらく見ていなかった表情だった。
「おぼろくん、私……」
「小春ちゃんちに行ったらお母さんがいてね、それでお兄さんのところへ行ったって教えてもらって、追いかけてきたんだよ」
早口で私を遮ったおぼろくんは、珍しく玉の汗をかいていた。鼻の下で光るそれは、全力で追いかけてきてくれたことを物語っている。昨日のことを話しにきたのだと察しがついた。おぼろくんは私みたいに変な意地を張らずに、すべての気持ちを飲み込んで詫びるつもりなのだろう。
だけど、何も悪くないおぼろくんにごめんなさいをいわせるわけにはいかない。私は姿勢を正し、おぼろくんに向き直る。再び遮られないように、大きく息を吸ってから口を開いた。
「おぼろくんのせいじゃないよ。みんな、何もかも、隈なく、悉く、漏れなく、一切合切、森羅万象、全部! おぼろくんのせいじゃないよ」
「……何だかよく分からないけど、えーと、ありがとう」
私の真剣な訴えは、のほほんとした表情にあっさり吸収された。それじゃあ納得がいかなくて、私は激しく首を振る。
「だめ! ちゃんと分からなきゃだめ」
だめなのに、次が出てこなかった。一番いいたかったことなのに、喉に詰まって出てこない。これで最後と決めたから、想いの全てを畳み掛けようと思ったのに。気持ちばかりが先走り、干からびた唇が震えた。
おぼろくんは口を挟むこともせず、続きを促すこともしなかった。何も語っていない私を見つめるおぼろくんは、何度も頷いた。言葉にできない想いを汲み取ってくれているようなその動きに励まされ、私はもう一度空気を腹いっぱいに吸い込む。
今ここで伝えなかったら、一生後悔すると思った。
「神様が間違えたの。だから、おぼろくんのせいじゃない。おぼろくんは何も悪くない。これっぽっちもおぼろくんのせいじゃないの。……分かった?」
ありったけの想いを込めた、主語を抜かした私の言葉に、おぼろくんは一層大きく頷いてくれた。ちゃんと伝わったことに満足している場合じゃない。いいたいことは、まだある。
「分かったんだったら、これからは自分を責めちゃだめ。嫌いになってもだめ。卑下するのもだめ」
「だめなことばっかりだね」
おぼろくんは人差し指で鼻の頭を掻くと、笑みを残したまま困った顔をした。性懲りもなく、胸の奥が騒ぎ出す。
男である自分も女である自分も隠せず、その両方を顔面に残したまま、それでも笑うおぼろくんが、やっぱり大好きだった。
「だめなものはだめなの。だって、おぼろくんが変態なわけないもん。気持ち悪いわけないもん」
「そうかな。ちゃんとした男でも女でもなくて、僕だけみんなとは全然違う生き物みたいで、自分でも時々、気持ち悪いなって思うこともあるんだよ」
「そんなことない、絶対ない。気持ち悪くなんてない。おぼろくんは、おぼろくんはむしろ…………気持ちいい!」
心に広がる柔らかい感情を、にぎにぎとかき集めて言葉に変換しようと無我夢中だった。おぼろくんは、美しい。綺麗。可愛い。素敵。無敵。最高。素晴らしい。生命の奇跡。
続けたい言葉が次々に頭を駆け巡った。それなのに、実際口に出せたのは救いようのないひとことだった。そもそも、おぼろくんを想う気持ちに直撃する言葉を、私はまだ知らなかった。
最初こそポカンと口を開けていたものの、おぼろくんはすぐに表情を引き締めた。大声で気持ちいいと太鼓判を押してしまった手前、いい訳もできない私は、今や厳めしいほどに締まり切ったおぼろくんの表情の変化を見守ることしかできなかった。
「ごめんね。小春ちゃんの気持ちを分かってないのは、僕のほうだった」
声を詰まらせたおぼろくんは空に顔を向けた。大きく見開いた目を、乾かすように両手で扇ぎ始める。首を伸ばしたせいであらわになった喉仏が、何かを飲み込もうと動いていた。
それを見て、やっと気付く。さっきの厳めしい表情は、怒っていたわけじゃなく、涙を我慢していた顔だった。
私だって、何も分かっていない。分かりたいと焦るあまり、おぼろくんを傷つけてばっかりだ。大好きな人を大切にするのは、当たり前のようでいて本当はとても難しかった。
おぼろくんが涙を飲み込むのには時間が掛かった。喉仏が大忙しだ。
『もっと強くならなきゃ』あの日のおぼろくんの声が鮮明に甦る。私の前では、泣いたっていいじゃないか。見ていられなくて、私はおぼろくんを抱きしめた。
……はずだったのに、背の低さのせいで、完成したのはただ抱きついただけのような格好だった。
背中と後頭部に感じた温もりで、おぼろくんが抱き返してくれたことが分かる。これじゃあ私のほうが胸を借りているみたいで悔しい。踵上げて最大限の背伸びをすると、頭上から声を出さずに笑う気配がした。
頬に押し当てたおぼろくんのシャツからは、柔軟剤の香りはしなかった。代わりに、古めかしいタンスの匂いがした。私は、厳粛な気持ちで胸板から響く音に耳を澄ませる。おぼろくんの心臓の音を聴くのは初めてだ。
心地よい鼓動を聴きながら、私は手を繋ぎ合った日のことを思い出していた。絡み合う兄と鮎子に打ちひしがれる私の手を取ってくれたおぼろくん。あの夜のように、男女の垣根を超えた触れ合いが今、ここに成立していると思ってもいいんだろうか。
キスをしたら怒るのに、抱きしめたら抱き返してくれるおぼろくんは、短くなった私の髪を、面白がるように摘んでいた。ふっくらした指の腹の感覚が、軽くなった頭に伝わってくる。細いのに肉付きがいい、お母さんみたいな手のひらだった。
男でも女でもない。それは違うよおぼろくん。おぼろくんは、男でもあり女でもある。だからきっと、こんなにあったかいんだ。
もう、おぼろくんを異性として見るのはやめにしよう。
昨日から幾度となく重ね続けた決意を、もう一度胸の中で繰り返す。目から水が噴射しそうなほど私の心は大騒ぎなのに、おぼろくんの鼓動は一定のリズムを崩さない。噛み合わぬ隙間を埋めるように、私はひたすら祈った。
どうかこの先、おぼろくんがありのままのおぼろくんでいられる日が来ますように。
この腕が解かれても、私はいつまでも祈り続けるだろう。
覚悟を決めて、愛しい胸から顔を離した。――さようなら、私の初恋。
(了)
はんぶんこの、おぼろくん 犬飼鯛音 @inukaitaine
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