12-2
朝、目が覚めるなり、髪を切ろうと思い立った。どうせ切るのだからと髪も梳かさず家を出た。きっちりとしたおかっぱ頭にこだわる必要はもうどこにもなかった。
日曜日のせいか、街に人通りは少ない。広すぎる歩道は逆に歩きにくかった。頭上は分厚い雲に覆われていて、空よりも、立ち並ぶ店から零れ出る照明のほうが明るい。漏れ出す光りを見ていると、外の薄暗さをすべて私ひとりに押し付けられた気分になる。
一際眩いガラス張りの店先で、私は足を止めた。すぐに兄の姿を見つけることができた。相変わらず、家とはまるで別人だ。普段のぐうたらぶりを知っているせいか、美容室の明るい店内で見る兄は輝き度八割り増しだ。
いつもは目を細めて笑うのに、お客を前にした兄は目を開いたまま白い歯を披露して笑う。笑顔というよりスマイルと呼ぶほうがしっくりくる、家では絶対にお目にかかれない顔。
何だか足の裏が痒くなって、私は靴の中で指をもぞもぞと動かした。
ドアを開くなり、お客と談笑していた美容室の顔が、心配性な兄の顔に変わった。お客の怪訝そうな表情にも気付かず、兄はハサミを持ったまま駆け寄ってくる。
「ダメだろ小春ちゃん、来るなら来るって前もって連絡くれなきゃ。お兄ちゃん今手が離せないよ」
「急にごめん。手が空いたらでいいから、切って」
「構わないけど、まだ当分終わらないよ。どこかで甘いものでも食べて時間潰しておいで」
「大丈夫、ちょうど読みたい雑誌があるの」
ポケットを探る兄が甘いもの代を取り出す前に、私は待合席へと逃げ込む。他の客の邪魔にならないよう一番端の席に陣取ると、あの日の出来事が目まぐるしい勢いで想起された。
すべての始まりはこの美容室からだった。あのとき私は、おぼろくんを何とかすることにばかり夢中で、自分の髪を切ってもらうことを忘れていたことさえ、今日まで忘れていた。
「来るときは先に連絡してって、いつもいってるだろ」
「ごめんなさい。でもだって、急に切りたくなっちゃったんだもん」
「まぁ今日はしょうがないか。お兄ちゃんもずっと気になってたんだよ。この前小春ちゃんのこと、切ってあげられなかったからさ」
手際よく私にケープを掛けると、兄の目線は隣の席に動いた。おぼろくんが座った席だった。気付かないふりをして、兄が出してくれた飲み物に口をつける。
冷房ですっかり冷えた私の体温を見抜いたように、中身は温かい紅茶だった。好みに配慮してくれたつもりなのか、びっくりするほど甘い。サービス満点の砂糖が、冷えた喉に張り付いて流れていかない。
この期に及んで、私はおぼろくんが淹れてくれた紅茶を思い出す。持ち手を持たずに直接カップを握ると、手の温度がてきめんに上昇して、指先がじんじんと疼いた。温かいのに、どうしてこんなに痛むのだろう。
カップの中で揺れる自分の間抜け面を覗き込みながら、この矛盾は何かにとてもよく似ていると思った。
「私、失恋したの。だから一思いにばっさりいっちゃって!」
「これまた発想が古いねぇ。今時いないって、そんなベタな断髪する人」
「おかっぱ頭してる女子高生だって、今時いないもん」
「小春ちゃんが自分でおかっぱがいいっていったんだろ」
「だからもういいの。飽きたの。おかっぱの残骸がなくなるくらいに、とことん違う髪型にしたくなったの」
「分かった分かった。じゃあ夏だし、思い切ってばっさりいこっか」
兄は眉毛を下げたまま笑うと、それ以上は何も聞かずに髪の毛を梳き始めた。猛反対を振り切って、初めておかっぱ頭に挑戦したときのことを思い出す。
愛しい坊ちゃん刈りを思い浮かべながら、長さや厚さに細く注文を付けて切ってもらった。「したい髪型があるなら写真持ってくればいいじゃん」という兄のごもっともな意見に、汗だくになりながらいい訳をしたりもした。理想通りに仕上がったおかっぱ頭を見たときの胸の高鳴りが懐かしい。
あのときは、たったそれだけのことが嬉しくてたまらなかった。
ガラス越しに見つめるだけで幸せに浸れたささやかな恋だった。決して自分に向けられることのない声を聞いていられるだけで満足だった。おぼろくんのことが、ただ好きなだけだった。何かを望んでいたわけじゃない。それなのに、いつから私はこんな欲張りになってしまったのだろう。
足元に溜まっていく髪の毛に視線を落とす。醜い自分の顔を見ていられなかった。
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