第8話 部屋。
息がかかるほどの近距離で会話を紡いだあと、聡美は勝負に出た。こすれていた鼻の頭をちょっと離し、おでこ同士を合わせ、ふたりとも上目遣いで見つめ合う。そして、聡美は目を閉じた。
聡美の背中にまわされた乃亜流の右手が、脇腹からの稜線をなぞり、くびれた所をみつけると力を入れて引き寄せた。口づけと思われた瞬間、乃亜流はすっと顔をそらし、聡美の耳元で囁いた。
「瑠音とマークのキスにあてられたんだろ?」
乃亜流にしてみれば、普段、見慣れているふたりのキスにも関わらず、今日のはとても優雅で、見せつけられた感じがした。聡美もそうだったはずだと乃亜流は思った。
「……」
聡美は答えない。
「そんな対抗心でするもんじゃないよ……」
躱した理由をなんとかひっぱりだして口にした。
「あ~~~あ。つまんない。あたしのキスを2度も躱したのは乃亜流がはじめてよ!」
「2度? ダンキンドーナツのも? あれもカウントされるんだ」ふたりの間に距離ができ、運転手の変な緊張感もなくなり、車内の空気が緩んだところを見計らい、乃亜流は聡美の不意をついた。「ところで、聡美の元カレって同級生って言ってなかった?」
「え? そっそうだけど……なんで?」
動揺がはっきり見えた。
「別に……」乃亜流は、聡美の嘘をはじめて見破ったが、なんでもないふりをした。
聡美が勝負にでるまで、あれだけ焦らしたりするのを楽しんだのは、過去にそんな経験があるはずだと推理するのはしごく簡単。それに、そんなことができる高校生男子は限られている。だから、相手はきっと年上、それもかなりの年上だったはずだ。
男女の関係をひとつ深くするときに、じれったい駆け引きを楽しむのは大人の特徴で、乃亜流の女性遍歴において、年上の女性ほど駆け引きを好み、簡単には次のステップを踏み出さず、相手を焦らしては、その反応を楽しんだ。そんな体験を思い出しながら、ライムピール入りエスプレッソの味を説明した時の聡美の表情を思い返した。乃亜流は確信した。聡美は、大人の恋を知っている。そしてそれは、おそらく乃亜流の経験した恋よりももっと切ないものだったのではないかとも感じた。
そんな想いを馳せている間に、タクシーは目的地に着いた。ボストン美術館のすぐ近くの交差点だ。乃亜流は、運転席と後部座席を隔てる分厚いアクリル板越しにお金を渡した。いつもよりチップを弾んだ。
タクシーを降り、角にあるファーマシーによって、スナック菓子やちょっとしたジャンクフードを買い込んだ。スコットの機嫌を取る為だ。
あたりはすっかり暗い。街灯の明かりがふたりの息が白く浮き上がらせ、木々の枝に凍り付いた水分をキラキラと反射させた。それはとても幻想的な風景だ。れんが造りのアパートが立ち並ぶこの一帯も、マーク達の住むビーコンヒルに劣らず、古き良きアメリカ東部の街並が続く。その道をしばらく無言で歩いた。
「寒いね」聡美が数分ぶりに口を開いた。
「もうついたよ。その階段をあがって」
「ここね!」そういいながら、アパートの入口につながる階段を昇った。そして、ドアに手をかけた。もちろん、建物自体の入口には鍵がかかっていて開けることはできない。すぐに悟った聡美は後ろを振り向き、荷物を抱え昇って来る乃亜流に笑いかけた。それは、マークの部屋で新しいコートを着て見せた時のポーズに似ていたが、情緒あるレンガ作りの建物が背景になり、階段がステージ、街灯の灯りがスポットライトのように照らしたようになり、あまりの可愛さに、乃亜流の視線は釘付けになった。
スコットが焼きもち妬いちゃうな。乃亜流は思ながら、アパートの入口のドアの鍵穴にキーを差し込んだ。
「アイムホーム!スコァッ」
乃亜流が居候しているスコットの部屋は1Fにある。アパートの入口のドアを入り、部屋のドアを開ける前から声を出した。出さずとも、スコットは気づいているはずだ。部屋の窓からは、アパートの階段が見えるのだから、乃亜流ともう一人、瑠音ではない日本人の女の子が来ているのしっかり確認していたはずだ。そして、そのとおり、乃亜流がただ今を言い終わる前に、スコットが部屋のドアを開け、半身を廊下に出して、ふたりを見た。機嫌は悪くなさそうだ。瑠音の妹を連れて帰ることは、マークから聞かされていたのだろう、興味津々の様子で出迎えてくれた。
「スコッ、さとみ。さとみ、スコッ」乃亜流はそれぞれの名前を呼ぶ時にそっちに首をふり、ふたりの顔を交互に見ながら、紹介を終えた。
「ハジメマシテェ……ワタシハ、スコットデェス」日本語で出迎えたのはスコットだった。
「ナイストゥーシーユー、スコォッ。アイム サトミ」聡美が英語で答えた。
それが面白かったらしく、ふたりの口から笑いが漏れた。
第一関門はクリアだ。乃亜流はスコットの機嫌が悪くならないか心配だったがそれは杞憂だったようだ。あいかわらず、スコットは身体を半身以上そとに出すようなことはないが、右手を不器用に差し出して、聡美と握手した。
次の関門は聡美の方だ。部屋をみて驚くだろう。
「スコット、寒いよ。早く部屋に入れてよ」日本語で言った。
乃亜流は荷物を右手に持ち替え、自由になった左手を聡美の腰にあてて、部屋に入るよう促した。その次の瞬間、予想通りの言葉が聡美の口から漏れた。
「なにここ!」
「ようこそ我が家へ」部屋の中を見て絶句している聡美に語りかけた。「つまりね、スコットは、引きこもりのオタクの……ゲイなんだ……」
部屋は東海岸によくあるタイプのストゥーディオ(studio)タイプ。日本でいうとワンルームだが、遥かに広い。ただ、この部屋のほとんどをパソコン機器が占めていて、歩くところもない。壁には通信機材やモニターが張り付いていて、まるで、ハリウッド映画に出て来るスパイ組織の秘密基地のよう。違うところがひとつ、部屋の真ん中に置かれたクイーンサイズのベッドだけが、映画のセットではないことを物語っていた。
「ここで、ふたりで住んでるの?」
「そうだよ」
「えっと……乃亜流はどこで寝てるの?」
「そのベッドだよ」
「お姉ちゃんが来た時は?」
「そのベッドだよ」
「えっと……じゃぁ……スコットは?」
乃亜流はベッドの上の空間を指差した。
「え?それって、まさか……ハンモック……」
この部屋でロマンチックな雰囲気になることはないってことが聡美にもわかったようだ。
こいばな。 陽野 乃在 (ひの だいざい) @redwine1968
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