第7話 後部座席。
マークの家は、古き良きれんが造りの風情がある建物が立ち並ぶ、もっともボストンらしい街並のビーコンヒルにある。4人で食事(といっても、近所のデリバリー、箱詰めの中華料理だ)をとったあと、ごちそうさまを言って、帰り支度をしながら、翌日の予定について話した。当初のプラン通り、瑠音が迎えに来るってことで話が収まった。
マークの家を出る時は、いつも淋しさをまといながらハグをする。乃亜流は、なにが残念なのか、どうしてmissing you なのか未だによくわからないが、マークはハグをする度、必ず「もう帰るのかい?淋しいよ、ノエル」と言う。はじめの頃は、その言葉を鵜呑みにして、毎回、後ろ髪を引かれる思いがしたけど、実はそういった挨拶が、ふつうに社交辞令ではなく、挨拶以上の愛情表現としてに行われるのを理解してからは、お別れの儀式のひとつとして、毎度、熱のこもったハグをするようにはしている。
マークとハグしたあとは、瑠音とも同じようにハグをする。この時「みっしんぎゅー」とは言わない。ふつうに日本語で「またあした~」という。このマークの時と瑠音の時との温度差が、乃亜流は面白いと思っている。
相手の肩にあごを乗せたタイミングでひと言添えると、別れの儀式がスマートになるのを瑠音は知っている。「乃亜流、今日はありがと」荷物持ちをねぎらった。
「どういたしまして」あごを肩からはずし、ちょっと距離をとってから、首をすくめて答えた。眉毛を上げながら「なんでもないよ、瑠音の願いなら」と目で返事を付け加えた。
その横にいる聡美のオーラが危険な色になっているのを感じて、瑠音の手を離した。聡美はふたりとハグをすることはなく「じゃぁねっ!」とつっけんどんに言って、アパートの階段を降りた。
「ねぇ、マークはノエルって呼んでなかった?」
うちに向かうタクシーの中で聡美が言った。
「へぇ。よく聞き取れたね。そうなんだよ。仲間はみんなおれのことノエルって呼ぶんだよ。アイルランド系の男性に多い名前らしい。日本人なのにね。まぁ元々変わった名前だから・・・ノアルだろうがノエルだろうが、あんまり変わんないし」乃亜流は気にもとめていないとばかりに答えた。
「うちにも変わった名前のネコがいるよ」聡美はそう言って、鞄の中をゴソゴソとかき混ぜ、可愛らしい柄のポシェット的なもの取り出した。その中から分厚いカードホルダーを抜き取り、ふたりの間に持ってきて中身を開いてみせた。病院の診察券やテレホンカード、美容院のスタンプカードらしきものに混ざり、ネコの写真が出て来た。
「ニョンて言うの」
「にょん?」
「そう……ニョン」
「なんで? 由来は?」
「ネコって、普通、にゃ~って鳴くじゃない? うちの子、にょ~んって鳴くのよ。だからニョン」
「そんな!」乃亜流はそんな鳴き声は信じられないと思ったが、反論するのはやめた。アメリカでは、犬は「バウバウ」と鳴くってことを思い出したのだ。
「オス。乃亜流、この子に似てる」
「どこが! むりやり言ってない?」
乃亜流は写真を覗き込むように言った。その作業のせいで、ふたりの距離が縮まった。正確には縮まったどころか、冬服を介しても体温が伝わってくるのではないかと感じる程寄り添っている。
こめかみとこめかみがひっつき、髪の匂いが乃亜流の鼻を通して脳に伝わり、心の中に占めている聡美の居場所をどんどん広げていくのがわかった。
「優柔不断なところが、似てるのよ」
「ネコが優柔不断だって?」
会話を紡ぐとほっぺの動きをほっぺで感じ取れる。
「そうよ。この子はね、お姉ちゃんとあたしが同時に呼ぶと、どっちに寄っていけばいいのかわからなくなって、困ってしまって鳴くのよ。にょ~~んって。それが面白いの」
「なにそれ、じゃぁ、あした、ふたりに呼ばれたら、にょーんって言うよ。そしたら、瑠音は笑うかな? そんなんじゃ笑いはとれ……」
言葉に詰まったのは、瑠音とニョンがツーショットで写っている写真が出て来たからだ。その瑠音の表情に乃亜流がみとれてしまったのだ。
聡美がニョンと写っている時、それは、聡美が母親のような存在感で写っているのだが、瑠音のそれはちょっと異質で、まるでニョンを彼氏のように慕い寄り添っている。乃亜流はその表情にみとれたのだ。聡美はそれを敏感に察知した。そして、カードホルダーから手を離した。結果、乃亜流の右手が、聡美の持っていた部分に添えられ、両手の自由を失うこととなった。昼間に、買い物袋を持った時と同じ状況だ。ただし、ここは、タクシーの後部座席、寄り添って座っている。それは近すぎると言えた。
「ニョンはこうすると喜ぶのよ」
聡美は自由になった右手を乃亜流のあごの下にやり、撫でた。
「そこを撫でられて喜ばないネコはいないよ。聡美」
近すぎる……と乃亜流は思った。いつのまにか、鼻と鼻がこすれそうになっている。聡美が向き合おうとして体勢をひねったからだ。もう、すこしでもあごを上げれば、唇と唇が触れ合う近さだ。その状況を楽しむかのように、聡美が目を合わせて来た。
「ねぇ、いつも、あんな風にハグするの?」
聡美はマークのアパート玄関でのことを言っているのだ。そう言いながら、視線を目と鼻と唇にずらす。小悪魔の目が、乃亜流の唇の位置を確認するために、一旦、下を向いた。乃亜流の瞳には、目を伏せた聡美の顔がアップで写されている。とてもチャーミングだと思ったその瞬間、目をあげた。そして、今度は上目遣いのドアップが乃亜流の目の前にあった。一瞬前はチャーミングに見えたその顔が、今は意地悪そうに見える。
「そうだよ。あれは愛情の確認作業なんだ。マークはあれをおろそかにすると、瑠音に詰め寄るらしい。ノアルがおれのことを、きらいになったんじゃないかって」
この距離で会話を紡ぐのは、前の彼女とベッドの中でして以来だと思った。
「マークとのハグじゃないよ。お姉ちゃんとのハグのこと」
交互に言葉を発しながら、お互いがその目で、お互いの唇の位置を確かめ合っている。
「瑠音?」
「そう、ハグしたとき、お姉ちゃん、なにか乃亜流にささやいたでしょう?」
「ないしょ」
「けち」
乃亜流はわかっていた。聡美はこうした状況で会話を繋げたいだけなのだ。そして、乃亜流が我慢しきれなくなって、聡美の唇を奪おうとするのを待っているのだ。これは、罠でもなく、誘いでもない。ただ試しているのだ。
「知りたい?」
「べつに……」
「聡美に手をだすなって、念押しされたんだよ」乃亜流は嘘をついた。
もう写真は両方の手から離れ、乃亜流の右手は聡美の背中にまわされ、腰から描く優雅な曲線部分をなぞり、聡美の右手は乃亜流の頬を撫でていた。
いよいよか。
「で、そのいいつけ守るの?」
そう言って、しばし見つめ合ってから、目を閉じた。そして、あごを上げた。
聡美は勝負に出た。
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