2日目、境界線に至る。
翌朝には、縄を切った。
腕を拘束するネクタイを解いた。
どこにでも行けと、ドアを指した。
「俺に、何か恨みがあるわけではないんだよね」
念のため、尋ねておく。男の顔に覚えはないが、どこで恨みを買うか分からない。あるいは誰かと間違われている可能性もある。
男はおそらく、一睡もしていないのだろう。憔悴しきった様子で、俯いたまま小さく頷いた。たまたま身を隠せそうな空き家を見つけたが、実際はそうではなく、家主が帰ってきてしまった、と。そんなところだろう。
空き家と間違われるのは、よくあることだった。特に夏場、海水浴に来た若いカップルが、ラブホテルの代わりに使おうと入ってくることがある。酷い場合には、留守中に鍵を壊されることもある。人が住んでいると分かれば、強引に上がり込まれることはない。鍵を壊された場合はそのまま放置されることが多いが、被害届を出したこともない。気が向いたら修理屋を呼ぶ。
そういったことがあるので、不審者が庭にいたことに対しては、別段、おかしなことだとは思わなかった。怒ることも、恐怖を感じることもない。よくあることの亜種に過ぎない。
昼間、大学に行っている間に、どこかに立ち去ってほしいと思った。
そうすれば、自分とはもう関わりのないこととして忘れることができる。男が法的にまずいことをしていたとしても、それは片平にとって、どうでもいいことだった。
けれども帰宅したとき、男は変わらず、居間の椅子に座っていた。
出かけたときと同じように、背もたれに背を預け、俯いていた。
「まだ、いたの」
思わず、そう口に出した。
返事はない。
このときになってはじめて、片平は男の衣服がひどく汚れていることに気付いた。黒い服を着ていたせいで、ずっと気付かなかった。どす黒い染みが、バケツでぶちまけられたように広い範囲に付着していた。今は、カラカラに乾いている。
片平は、風呂を沸かした。
まず自分が入り、それから男を風呂に行かせた。
男がシャワーを使っている間に、彼が着ていた衣服を手に取った。血液だと、すぐに分かった。少し考えて、燃やすことにした。
秋の終わりだったのが幸いした。
そろそろ暖房が必要だろうと、灯油を二缶ばかり買っておいたところだった。庭先に転がっていた一斗缶に灯油を入れて、男の服に染み込ませた。マッチを擦り、缶の中にそっと落とした。火は音もなく広がっていった。縁側に座り、その火を見ていた。この際だからと、不要な書類や衣類も、少しずつ薪をくべるように入れた。
背後で物音がした。見ると、男は片平が貸した部屋着姿で、また同じ椅子に座るところだった。風呂に入って幾分ましな顔にはなったが、疲れているように見えた。
男は、名取と名乗った。
穏やかな顔立ちの青年だったが、目元だけは、鋭利な雰囲気が漂っていた。
「三人、殺しました」
そう言った。
「もう、気が済みました」
静かな声だった。そして、それきり、続く言葉はなかった。
片平は、また火に目を戻した。名取が着ていた衣服は、もうとっくに燃えてしまっている。あの血痕を思い出す。ナイフを持っていたから、凶器はそれかもしれない。今はタオルに包んで、寝室のベッドの下に置いてある。適当に処分するつもりだった。
「なぜ、出ていかなかったの」
「行く場所がありません」
「そう」
夜空を、厚い雲が覆っていた。雨になるかもしれない。片平は火に両手をかざした。いつのまにか指先は冷えて、かたくなっている。解すように、指を順番に揉んだ。火が小さくなればまた、書類を引き裂き、そっと入れた。
「食事は」
「いりません」
この男は死ぬつもりなのかもしれない。不意に、片平はそう気づいた。水も食事もとらず、立ち枯れていく木のように死んでいくつもりなのだ、と。
風は強い晩だった。家のどこかで軋む音がしていた。住み始めた頃は、どこか壊れたのではないかと思うこともあった。今はもう慣れた。修繕するつもりもなかった。放っておけばいい。この家が自分よりも先に朽ちたなら、そのときはまた、別のところに移るだけだ。漠然と、そう考えていた。
そして、その風の中にあっても、一斗缶の中では火が燃え続けていた。
「何か、聞いていませんか」
名取が、遠慮がちにそう言った。殺人のことだと、少しして気付いた。聞いていない、と片平は答えた。新聞は取っていないし、テレビもろくに見ない。職場でも、そういった話はしない。そう言った。
「三人とも、君の知り合い?」
「いえ」
小さく、けれどはっきりと、名取は言った。
「無差別でした」
片平は、肩越しに名取を見た。俯いて足元に視線を向けている。その目に、何か強い感情が宿っている。
「誰でもよかった。ほんとうに、誰でもよかったんです」
先ほどまでとは違う、押し殺したような低い声だった。
下らないと、片平は吐き出した。それが、率直な感想だった。
誰でもよかった、と。殺人犯が、よく言う台詞だと思った。ドラマか、ニュースか、あるいは小説でもいい。似たような台詞はいくらでもある。
「でも、そうなんです。見ず知らずの誰かで、よかった」
「そんなありきたりな言葉で、人は死んではくれないよ」
ほかの無差別殺人犯もそうだったのだろうか。あるいはこの男が特別なのだろうか。それは、分からなかった。ただ一つだけ、確かなことがあった。
名取は、片平を殺していない。ならば、無差別とは言わないだろう。気が済んだ、と先刻言っていた。
何か、彼を納得させたものがあったはずだ。
「なぜ三人で止めたの?」
「別に、その数字には意味はありません。三人目が、何か特別だったわけでもない」
ただ、と。
言いかけて、少し考え、そして、名取は続けた。
「これからどれだけ殺せば、目的を果たせるかと考えたとき、たぶん俺は、この世界の人間の半分以上を殺さないといけないだろうと、ふと思ったんです」
「それは、核戦争でもやらないと無理だろうね」
「馬鹿げていると思いますか?」
「いや」
「本当に?」
片平は、頷いた。
人間の半分か、と思う。
全部ではない。
―――この男は、何をもって人間を半分に分けたのか?
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
「その中に、つまり君が殺さなければならないと判断した人類の半分の中に、君の家族とか、友人とか、世話になった人でも、あるいは憎んだ人でも構わないけど、君と何か関わりのある人は、いるんだろうか」
ちょうど風が止み、家の軋む音がぴたりと収まった。
そのすとんと落ちてきたような静寂の中で、はっと、息を呑む音が聞こえた。
そうか、と。
ふと、片平は何かが腑に落ちたような気がした。
「見ず知らずの誰かでよかった、なんて、嘘だろう」
名取は、答えない。
「見ず知らずの誰かでなければ、駄目だったんだ」
やはり、名取は何も言わない。
その沈黙は恐らくは―――肯定だった。
風が再び吹き始め、家のどこかがガタガタと鳴った。
先刻の問いを、片平は胸中で反芻した。
人間の半分。
全部ではなく、半分。正確に半分かは知らない。もしかしたら六対四くらいかもしれないし、九対一くらいかもしれない。ともかく、その境界線を見せつけられるような出来事があった。
彼と、彼に関わりのある―――恐らくは彼にとって大切な誰かとの間に。
そして、その誰かが、この男の引き金を引いたのだ。
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