1日目、夜、庭。
片平が被害者の男と出会ったのは、十月二十四日の深夜、日付が変わる頃。
場所は、彼の家の前だった。
そのときのことを、片平は淡々と語った。
モノクロ映画のように、彼の声には色というものがなかった。
その日、二十三時半頃に、片平は最寄り駅で電車を降りた。そこから自宅まで、海沿いの道を三十分ばかり歩かなければならない。外灯の少ない、暗い道だ。周囲に点在する民家は、みな明かりを落としていたという。すれ違う人もいない。
ようやく玄関まで辿り着いたのは、ちょうど零時頃。そのときは、何も違和感はなかった。
廃屋寸前とはいえ、施錠はしている。玄関の扉の前で、片平は鍵を探した。ジャケットのポケットにも、ズボンの後ろポケットにもなく、鞄の中に手を突っ込んだ。よくあることだ。決めた場所に仕舞うようにすればいいのだけれど、いつも出かける支度をするとき、頭では別のことを考えているのが常だった。無意識に、収まるところに収めてしまう。
そうして鞄の中を引っかき回しながら、片平は何気なく周囲を見渡した。
庭は、そう呼ぶこともはばかられる荒れ地で、ブロック塀のような囲いもない。胸まで届くような雑草が、伸び放題になっている。手入れをさぼっているという意識はなく、ただ、この状態が自然なものなのだと思っていた。
その草むらの中に、何かがいたのだ。
じっと、息を潜めるようにしゃがみこんで、こちらを窺っていた。犬や猫にしては大きい。
片平は、小さな声で呼びかけた。誰、と。
わずかに、カサカサと草の擦れる音がした。一歩近づくと、鋭く、来るな、という声が聞こえた。
「立ち去ってもらえないか」
片平は、そう言い放った。
「今ならまだ、そちらの顔を見ないで済むから」
そうしたら、何もなかったことにして、いつものように風呂に入って寝る。囲いもないボロ家に、犬や猫や人間が迷い込むことは、不思議なことではない。大げさに騒ぐようなことでもない。明日になったら忘れてしまうだろう。
そう考えていた。
けれども、そのとき運悪く、車が通りかかったのだ。
こんな時間に、こんな田舎の町に、一体何の用があるのかは知らない。車種も、もちろんナンバーも覚えていない。ただ、一台の車が、家の前の道路を通り過ぎていっただけだ。そしてそのヘッドライトが、わずかな時間、こちらを照らした。
相手の姿が、一瞬、浮かび上がった。そしてその手元に、光るものが見えたのだ。刃物だと、片平は直感的に理解した。
「それから、彼と揉み合いになりました」
そう言う片平の声は、僅かな感情の揺らぎもなく、落ち着いていた。もちろん、今はもう終わったことだ。今の彼に危険が及ぶことはない。何しろ相手はもう死んでいるのだから。
(それでも)
と、私は困惑する。もし彼がそのとき、何らかの危機感や恐怖を覚えたのならば、幾らかはその感情に引きずられてもいいのではないか、と。多少の劣化はあれども、幸福が幸福として記憶され再生されるように、恐怖の記憶は、恐怖として再生される。けれど彼の声に、感情の揺らぎは一切感じられなかった。
「揉み合いというのは、あなたと、その、被害者の男が?」
尋ねると、彼は静かに頷いた。私は片平の腕に目をやった。どう見ても格闘向きではない、と思う。骨に皮をかぶせただけの、細い腕だ。
「逃げるとか、助けを呼ぶとか」
「どちらも、無駄だと判断しました」
先刻、周囲の家々には明かりがついていなかったと言っていた。全力で逃げるという選択肢はあっただろうが、目の前に座るこの静かな青年が息を切らして走るところを、私はうまく想像できない。
「結局のところ」
片平は続ける。
「どちらが勝ったとか、組み伏せたとか、そういうことはありませんでした」
「何があったの」
「別に。ただ、互いに、どうでもよくなったんです」
このとき、わずかに、片平は笑っているような気がした。
表情ひとつ動かすことなく、それでも何かしらの感情が、微小な不純物のように声に混じっていた。
「だって、下らないでしょう。夜中に、家の前で揉み合いなんて。だから」
やめたんです、と。
静かにそう言った。スイッチを切るように。あるいは、操り人形の糸に鋏を入れたように。彼らは目を合わせ―――そして、同時に腕の力を抜いた。
「きっと、彼も同じように、下らなくなったんでしょう」
普通であれば、どちらかがどちらかを組み伏せるまで、揉み合いは続く。あるいは、片平が大声を上げて、運良く近所の誰かが駆けつけるということも、あり得たかもしれない。
だが実際に起こったことは、奇妙としか言えなかった。
家主と不法侵入者は、揉み合い、そして、互いに身を引いた。
下らない、と。
顔見知りでもなく、言葉を交わしたこともない彼らの間に、この瞬間に何かがあったのだと、私は朧気に感じ取った。何か、まだ語られていないことがあるのだ、と。意識的か無意識的かは分からないけれど、まだ片平の中に隠されている何かが。
それが何なのか、ことのきはまだ、分からなかった。
ともかく、十日に及ぶ彼らの対話の始まりは、こんな風に語られた。
午前零時の、海沿いの家の、おそらくは波の音しか聞こえない静寂の中で、それは静かに始まったのだ。
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