1日目、夜、家の中。
これからどうするべきか少し迷い、家に入れることにした。
鍵は結局、鞄の内側のポケットに入っていた。
ネクタイを外し、それで男の腕を縛った。抵抗はなかった。居間まで連れていき、壁際に置いてある椅子に座らせた。椅子はどこかで拾ってきたもので、これといって用途もなく、存在さえ忘れていた。男はなすがままに、大人しく従っていた。
向かい合ってみれば、自分とそう年齢の変わらないようだった。
念のため、荷造り用のビニール紐で椅子に縛り付けた。引っ越しのときに使ったものが、クローゼットの奥に仕舞ってあった。痛そうだとは思ったが、ほかに縛れそうなものは見当たらなかった。
怖いとは思っていなかった。ただ、奇妙な状況に置かれていると感じた。危機意識が欠けていると言われれば、そのとおりだ。なるようになると考えていた。相手の気が変わって本気で暴れ出したら、そのときは潔く諦めるつもりだった。
それから、警察に連絡するべきだろうと、このときになってようやく思い至った。
しかし彼が携帯電話を鞄から出すのを見ると、男は急に顔色を変えた。
それだけはと、懇願するように繰り返したという。
「それじゃあ、明日までこのままだよ」
ため息混じりでそう言うと、男は幼い子どものように、何度も小さく頷いた。
それで、片平は携帯電話を仕舞った。
何か事情があることは分かった。警察に連絡されたくないような、面倒な事情が。とはいえ問い詰めようにも夜中で、片平はひどく疲れていた。もともと、帰ればすぐに寝てしまうつもりだったのだ。そこに、不審者とのもみ合いがあった。そのあとさらに尋問など、考えただけで気が滅入った。この様子では、素直に話すとも思えない。
何より、他人の人生の面倒ごとに首を突っ込むつもりはない。そんなものは、本人が自分で何とかすればいいと思っていた。
こちらに危害を加える意志がないことだけを確認し、あとは、こんな男などいないものと思うことにした。
それが、一日目について片平が語った、すべてだった。
「いないものと思うことにした、って」
私は、呆れた。
「本当に、怖いとは思わなかったの」
「特には」
片平は、そう簡潔に答えた。
「彼が本気で暴れたら、もともと手に負えないですから」
簡単にまとめれば、刃物を持った男が、家の前にいた。それをどうにか拘束した。
あとは、警察に連絡をするのが常識的な判断だ。実際、彼は一度はそうしようとした。けれども結局それを断念し―――そんな不審者など、いないことにしたのだ。
「いくら、興味がないといっても」
私は、思わずため息をついた。
「最近は、あの辺りも物騒だったでしょうに」
片平は、知らないというように、わずかに首を振った。
「殺人事件だってあったでしょ」
「テレビも新聞も、見ないので」
心底、興味がないという風だった。
別段、珍しいことでもないだろうとでも言いたげだった。
「でも、それで結構ピリピリしているのよ、私たちも」
もしかしたら、と、私はふと考える。遺体のひとつふたつに翻弄されているのは、私たちのような警察官くらいなのかもしれない。ほかの大多数の罪なき一般市民にとっては、報道を通して知る殺人事件など、大した出来事ではないのかもしれない。
「あなたの家からは離れているけれど、帰宅途中のサラリーマンが襲われた事件もあったし、ジョギングをしていて後ろから刺された事件もあったし。いくら田舎だからといって、決して平穏というわけでは……」
実際、ここ最近私たちはこれらの事件の捜査に駆り出され、駆け回っていた。今回のこの事件についても、関連を疑われている。
そのときふと、思い出したというように、片平が口を挟んだ。
「それなら」
と、相変わらずの抑揚のない声で、言う。
「ほかにも一件、あるはずです。県内で、先月最近起こった殺人事件が、三件」
今度は、私が首を傾げる番だった。
「残りの一件は……」
「まだ、発覚していないのかもしれません。よく知りませんが。一人暮らしで仕事もしていない人とか、家族と離れて暮らしている老人とか、孤独に死んでいく人間はいくらでもいる」
「テレビも新聞も、見ないんじゃなかったの」
「ええ」
そして、わずかに顔を逸らし、言った。
「事件のことは、すべて、彼から聞きました」
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