終幕、そしてその外側で行われたこと。

「死ぬのは、怖いですか」

 唐突に、片平はそんなことを問うた。

 私は、しばらく考えた。

 怖いかどうか、ではない。怖いに決まっている。考えていたのは、彼が求める答えが何なのか、だった。

「それは自分の死? それとも、他人の死についてかしら」

「その二つに、どんな違いがありますか」

 予想していたかのように、片平の言葉には迷いがなかった。

 何かが違う、と思った。

 それまでの彼の話し方と、何かが、違っている。低い声も、静かな語り方も同じだ。ただ、そこに先ほどまでの柔らかさはなかった。彼をふわりと包んでいたものが融け、冷たく抑揚のない彼の言葉が、むき出しで響いてきた。

 彼は、私の次の言葉を待たずに話し始めた。

「意識、ではないですか。自我という言葉もありますが、そちらの方面は詳しく知りません。でも、そういうことでしょう。自分と他人を分かつものは、意識とか、思考とか、感性とか、そういう言葉で表される何かだ。それが失われることを死だと、無意識にそう考えている」

 恐らく彼は何度となく、同じことを考えたのだろう。言葉が淀みなく流れ出てくる。淡々と、同じ速度で、予めこのときのために用意されていたかのように紡ぎ出されていく。

「ならばその意識、あるいは思考、あるいは感性は、人ひとりの命と釣り合うのではないですか。それらを否定することは、人ひとりを殺すことと、等価ではないのですか」

 生きづらいということは、ゆっくりと殺されていくということだ。七日間などという、短い時間ではなかった。

 名取という男は、もっと長い、長い時間をかけて、殺されたのだ。恋人がどうという話ではない。そんな薄っぺらいことではない。あの男が見ていた世界を、周囲にいた人間が「そんなものはどこにもない」と言い続けた結果だ。その結果が四人の命で済んだことを、多いと考えるべきか少ないと考えるべきかは分からない。けれども、ともかく死は死だ。

 名取は、死んだのだ。

 その最期を見届けた男が、今、目の前にいる。

 それだけが、現実だ。

 そして、それで全部、終わりなのだ。この事件は、すべて。


 私は、ノートパソコンを閉じた。ICレコーダーを止めた。後輩が横で首を傾げたが、私はそれを無視した。ここから先は、私的な会話であり、この事件の、いわば余白に書かれてあったことだ。

「四日目にあなたが会いに行ったのは、電話の相手ね? その相手に携帯電話も預けた。違うかしら?」

 片平は、手元に目を落とした。膝の上に伏せていた手。無数の傷がある。

「俺に関わりのある人のことは、もうとっくに調べているでしょう。だから俺から説明する気はありません。強いていうなら、人間に飽きた人です。そういう人でなければ、俺みたいなのに興味を持つはずもない」

「友人? 何を話したの?」

「少々面倒なことになるかもしれないと、伝えました。要するにこの状況ですが」

 そこで片平は携帯電話の電源を切り、その男の前に置いたのだろう。

「下らない、と言われましたけど」

「何が」

「さあ。でも実際、俺のすることは大体下らないんです」

 四日目の彼が、逃げ込むように会いに行ったその誰かのところに、まだ彼の携帯電話はあるのだろう。調べて、押収して、証拠品とすることはできる。けれども、それは結局のところ、もうすっかり済んだことをあとから確認するだけの作業になるのだと思えば、ひどく空しかった。

「誰かに会わずにはいられなかったんです。どんどん死に引きずり込まれていくような気がしていた」

 片平は話しながら、左手で口元に触れ、また膝の上に戻した。煙草が吸いたいのだろう。ここでは吸うことができない。それがさらに彼の心を不安定にしているようだった。

「でも、お前が死んだら悲しいなんて、そんなことをわざわざ口に出して言う人間なんて、俺はどうでもいいんです。だってそんなことは当たり前でしょう? そういう決まりになっているんです。納得できなければ、知人の誰かに言ってみるといい、君が死んでも悲しくも何ともないって」

「あなたは……死なないで欲しいと思う気持ちさえも、この社会の決め事に過ぎないと言うのね?」

「いいえ、そうじゃない。そうじゃなく……」

 片平は言葉を探す。

「俺は、名取を死なせたくなかった。それは本当です。でも俺自身まで引きずられていくことが、ひどく間違ったことに思えたんです」

 私は、片平の暗い目を、じっと覗き込んだ。どこか、遠くを見ているようだった。

「だから、少しだけ逃げたんです。少しだけで。あのまま引きずられて一緒に死んだってよかったのかもしれないけれど、でもそういうわけにはいかなかった。俺も一緒に死んでいたら、誰が、彼が生きていたことを証明するんですか」

「……だからあなたは、生きることにしたのね」

 私の言葉に、片平は頬を緩めた。初めて、ちゃんと笑ったような気がした。


 それで私は、これでようやく、本当に、全部終わったのだと知った。

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アルカリと皮膚 佐々木海月 @k_tsukudani

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