4日目、夕方、井戸の底。

 その日、片平は都内のホテルで人に会い、夕方に帰宅した。

 

 名取は、前日の晩と同じように、椅子に座っていた。廃屋に置き去りにされた人形のように、じっと動かない。何年もずっとそこにあったかのように、あるいはこれからも変化とは無縁であるかのように、時間から切り離されて存在していた。蝋のような頬に前髪が落ち、影を作っていた。うっすらと開いた目は、もう何も見ていないようだった。乾いた唇は力なく、わずかに開いたまま動かなかった。ただ、片平が帰ってくると、その顔に、わずかに表情のようなものが浮かんだ。けれども、それがどんな感情を表現したものかは、片平には分からなかった。

 片平は居間に入るなり、名取の前にあぐらをかいて座った。馬鹿馬鹿しいと、不意に思った。頭の奥で、何かが沸騰したような感覚があった。怒っているのだと自覚した。自分は今、怒っている、と。なぜはじめに警察を呼ばなかったのか、無理にでも追い出さなかったのか、なぜ最後まで話を聞いてしまったのか。どこまでも無関係な他人であればよかった。なぜ、関わってしまったのか。

 死なせたくないという思いが、唐突に、暴力的に、こみ上げてきていた。どうでもいいと、飲まず食わずの人間を放っておいた自分に対して、片平は怒りを感じていた。

「井戸に落ちたサソリみたいだ」

 片平は、不意にそんなことを呟いた。

 名取は、瞳だけを動かし、こちらを見た。

「あぁ、……」

 小さく、笑ったような気がした。

「ふとそう思ったんだ。君、うっかり井戸に落ちて、死ぬのを待っているサソリみたいだよ。こんなことなら、そこら辺のイタチにでも食われてやればよかった、ってさ」

 そうすれば、この命ひとつ、無駄に消えることもなかっただろうにと。

「……命の繋ぎ目の話ですね」

 片平はそれを聞いて、思わず笑った。別に、何もおかしくはなかった。それでも今は、笑うのが適当なのだろうと思ったのだ。

「君はどこにも、繋がらないつもりなんだね」

 はい、と。名取は、静かに答えた。

「腕、縛っておいてくれませんか」

 そう言って、力なく両腕を差し出した。

「最初の晩のように」

 そのネクタイは、ずっと、彼の傍らに落ちたままだった。拾い上げ、今度は丁寧に、両腕に巻いてやった。痛みを感じないように、しかし解けないように。

 それから片平は、名取の前に膝をついた。顔を、下から見上げながら両手で押さえた。ひび割れた頬を撫で、首筋を伝うように指を滑らせる。そうして、頸動脈を探り当てた。この指で、止めてやりたかった。名取は抵抗しないだろう。今この瞬間さえ、微動だにしない。ただ、もう半分ほどしか開かない目で、こちらを見ている。

「君を、ちゃんと死なせてやりたいよ」

 指に力をこめれば、それで終わる。けれど名取の首に手を添えたまま、片平はそれ以上、動かなかった。とくん、とくんと、皮膚の下を流れていく血液の感触を感じながら、無意識に脈を数えた。一、二、三、と。そして、六十でそっと指を離し、立ち上がった。

「……死んで、どこに行けると思ったんだ?」

 命の行き場の話だ。どこにも繋がらない。

 名取はもう、答えなかった。ただわずかに笑ったような気配があった。

 片平は、名取の頭をふと抱き寄せた。抵抗はなかった。彼の頬から、触れた胸へと熱が伝わってきた。体温だ。まだ生きている。今は、まだ。それだけを、確かめ、頭を離した。

 それからふと、自分もまた、生きているのだと思った。

 冷え切った体の中心で、心臓が脈打つのを感じる。

 明日には死ぬかも知れないと、思わない日はない。事故に遭うか、それとも脳出血でも起こして倒れるか、あるいは唐突に自殺するかも知れない。それは恐ろしいことではあるが、悲しいとは思わない。何か備えをするつもりもない。ただ、そういうこともあり得るのだという可能性を思いながら、一日を終える。

 なのに、何だ、と思う。

 目の前で死んでいく人間を見ながら、内心ひどく取り乱していた。そして、そんな自分が理解できなかった。どこか得体の知れない場所に零れ落ちていこうとしている命を、手で掬い上げてやりたかった。一滴でもいい。掬い上げて、彼の元に戻してやりたかった。そしてそれは、決して叶わないことなのだと、はっきりと理解した。

 これが死というものか、と。

 片平は、不意に思った。

 これまで目にしたどの死よりも、あるいは毎晩思う自分の死よりも、今目の前に置かれた死はあまりにリアルだった。それは何かが不可逆的に失われることへの、底知れない恐怖だった。その恐怖は、翌朝になっても、日が経っても、彼の胸の底に澱のように留まり続けた。


 名取が転がり込んでから十日目にあたる十一月二日、片平は彼が死亡したと判断し、警察に通報した。

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