3日目、夜、続き。

 嵐は、夜中を過ぎても弱まる気配がなかった。

 片平の家は、絶えず音を立てて軋んでいた。そのうち、トタン屋根が飛ばされてしまうかもしれない。この辺りは、しばしば荒れる。そうして、この家はここまで朽ちてきたのだ。この先も徐々に朽ちていくのだと思うと、片平は、ひどく穏やかな気持ちになった。ここでは、時間が正しく流れている。そういう種類の穏やかさだ。

 片平は、新しい煙草を咥えた。ライターの火からそっと熱を吸い上げるように、静かに火を点けた。そして、できる限りゆっくりと、煙を吐き出した。

 かすかに、こめかみが痛んだ。ふわりと、目眩にも似た感覚があった。疲れているのかもしれない。

 片平は立ち上がり、縁側のガラス戸を閉めた。風の音が遠ざかった。

 床に置いてあるガラスの灰皿に、ぽとりと灰を落とした。

 名取は何も言わなかった。黙って、片平が煙草を吸い終わるのを待っていた。

 片平は細く煙を吐きながら、これまでのことを考えていた。つまり、目の前にいるこの男と揉み合いになった晩から、今までの経緯を。

 もっともそれは、経緯というほど紆余曲折があったわけではなく、むしろすんなりと、互いに最良のものを選び取った結果であるように思えた。最善かは分からない。けれども最良ではあった。

「マウスでなかったとして、それが何だというんだろう」

 片平はそう言いながら、部屋の真ん中に置いてあるソファに腰を下ろした。古いソファは、湿気のせいか、いつもより余計に黴臭い気がした。

 名取が何か言うたびに、片平は生皮を一枚ずつ剥がされていくような気がした。それは不快ではなかった。恐怖も感じなかった。ただ、わずかに痛みがあるだけだった。

「たとえばそれがネコや、ニジマスや、人間や、豚だったとして―――」

「あなたにとっては、みな同じなんですね」

「だいたいは」

 名取が笑った。

 それで、片平もわずかに笑った。

「ねえ、俺は」

 短くなった煙草を、今度は灰皿で揉み消しながら、言った。

「大切な人というのがいないから、君のことを理解することはできないんだ」

 はい、と。

 名取は、小さな声で返事をした。

「でも、君が残していくものがあるならば、それは俺が預かるべきなんだと思う」

 この時には、名取が死んでいくということを、現実に、確実に起こることなのだと感じていた。水が雨樋を伝って落ちていくように、それは初めから決まっていたことだった。自分が目にするかどうかは別として、ともかく、決まっていたことなのだ。

「あなたは、ほかの人間に、何かを強く求めたことがないんですね」

 名取の言葉は、片平に対するいかなる感情も含んではいなかった。非難しているわけでもなく、かといって羨ましがるわけでもない。ただ、それが自分との違いなのだということを、淡々と述べたに過ぎなかった。

 名取は今、河原で拾った石を並べていくように、思考を言葉に変えて置いていくという、一つの作業をしているのだ。石自体に意味はなくとも、並べるという行為には意味があるとでも言うかのように。

 死とは、思考の消滅である。

 思考は消滅するが、思考の痕跡は残る。それを、誰かの思考の痕跡だと認めることができる人間がいれば、という条件の下で。


「たとえば誰かが君を大切に思っていようと、あるいは君に何かを強く求めようと、それは君という人間とは全然別のところで起こっていることだろう」

 片平は、そんなことを言った。

「人の心は見えないですしね」

「うん。存在しているのかどうかさえ、俺には分からないけどね。だから、ルールを作るんだ。こういうときは、こう感じるものだ、っていうルールをね。好きな人といれば楽しいとか、生き物が死ねば悲しいとか、すごく単純なたとえだけれど」

「ああ、そうです、うん、そういうことかもしれない」

 何かとても良いことがあったというように、名取は何度も頷いた。


 それから名取は、恋人だった女性の話をした。

 だった、と、過去形で言ったのは、たぶん、名取の中ではもう終わったことだからなのだろう。

 彼は一人目の被害者を殺害した晩、そのほんの一時間ほど前まで、恋人のアパートにいたのだ。矢野という名前の、背の高い女性だったという。

「実を言うと、殺そうと思ったんです」

 そう言った。

「会社の同期なんですけどね。とてもしっかりした人で、とても優しい人だった」

「その人と、何かあったの」

「いえ」

「そう」

「何も。仕事が終わってから待ち合わせをして、スーパーに寄って、彼女のアパートで夕飯を二人で作って食べて。それから、電車がなくなる前に、彼女のアパートを出ました」

 片平は、黙っていた。

 名取の顔をじっと見たり、思案するように虚空に目をやったりした。

 名取は続けた。

「いつもどおりでした。いつもどおりに食事をして、いつもどおりにテレビを見て、いくらか仕事の話をして」

 片平はただ、頷きながら聞いていた。

「でも、今ならいくらか冷静に考えられるんですが、結局のところあの時、俺は一度に色々なことを考えすぎたんです。あなたの言葉を借りるなら、彼女は俺が、ルールから外れることを許さないだろうと思ったんです。強く、とても強く。彼女にとっては、それが間違ったことだったんでしょうね。そしてそれは、別に彼女に限ったことじゃなかった。何ていうか――」

 そこで、名取は言葉を切った。

 続ける言葉を探そうとして、どうしてもしっくりくるものが見つからないという風だった。

「うまく言えないのですが、俺は――たぶん、ここでは生きていけないだろうと思ったんです。それだけです」

 そして、言うことは言ったとばかりに、名取は満足そうな顔をした。

「うん」

 片平は頷いた。

「世界の半分、と言っていた意味が、ようやく分かったよ」

 片平はソファから立ち上がり、名取が座る椅子の前に、あぐらをかいた。手を延ばしてガラスの灰皿を引き寄せ、煙草に火を点けた。

「君が大切に思う人は、あるいは君を取り巻く世界は、君がどんな人間であるかということとは無関係に――君が彼女らの世界に良好な形で属することを、要求したということでいいのかな」

「言葉が難しいんですが、多分そんなところだと思います。なんて、こうして冷静に肯定してみせるのもおかしな話ですけど」


 結局、名取は矢野を殺すことなく、自分の部屋に帰ることにした。持ち帰りの仕事があるからと、まだ電車が動いている時間に帰り支度をした。

 そうして名取は彼女の家をあとにするとき、胸中で一方的に別れを告げていた。

 恐らく無理をしていたのだ。何かがすり減っていくのを、見ないようにしていた。そのことに、偶然その夜、気付いてしまった。ただ、それだけのことだ。

 靴を履き、玄関のドアを開けた。そして外に出てドアを閉めたそのときに、これでおしまいと、口の中で呟いた。

 それが、一人目を殺した晩の、一人目を殺す直前の彼だった。


「そのまま、大人しく帰ればよかったんですけどね」

 そう言う名取は、まだ微かに口元に笑みを浮かべていた。

 それから、

「好きでしたよ、とても」

 と、過去形で言った。

「今日は、よく笑うんだね」

 片平は、顔を覗き込んで、そう言った。

 わざわざ言うことでもないとは思ったが、言わずにはいられなかったのだ。

「そうですか? うん、まあ、何だか愉快な気持ちでは、ありますけどね」

 そしてもう一度、「愉快だ」と繰り返した。

 それから目を閉じて、それきり黙ってしまったので、片平は居間の明かりを消して、寝室にさがった。

 そのときにはすでに日付は変わっていたが、ともかくそうして三日目の夜が終わった。


 翌日は土曜だった。片平は昼前に目を覚ますと、居間は通らず、寝室のガラス戸から外に出た。

 もう十年以上も着ているカーキの上着を羽織り、庭先に放ってあったサンダルを履いて、時間をかけて煙草を一本吸った。それから、縁側に転がっていた一斗缶を起こして吸い殻を入れると、駅に向かって歩いた。

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