3日目、夜、雨。
「あなたは、何に罰せられたいんですか」
名取がそう問うたのは三日目の晩で、外は大荒れの天気だった。
その日、昼過ぎには教務課の職員がやってきて、電車が止まる前に帰宅するようにと言った。それで、十八時には学生ともども撤収したものの、そのときすでに外は土砂降りで、傘は役に立たないほどだった。
帰り道にスーパーで三十円引きの豚肉を買い、生姜と小麦粉をまぶして焼いた。あとは冷蔵庫の中のもので適当に付け合せを作って、それを夕飯にした。
二人分作ったが、食べたのは片平だけだった。もうひと皿は、ラップをかけて冷蔵庫行きになった。
テーブルの上の携帯ラジオが、抑揚のない声で天気予報を読み上げていた。北緯、東経、気圧、風向きと風速。ときおり、海や河川に近づかないようにと、注意を促す言葉。
名取は変わらず椅子の上にいた。
片平は夕飯の片付けを終え、縁側に座って海を見ていた。
波は高く、景色は白く煙っていた。
「たとえば、さっき食べた豚とか?」
そう言うと、名取は、ああ、と、何か納得したような声を出した。
「あるいは、今日実験に使ったマウスとか」
「大学の先生でしたっけ」
「先生じゃないよ。ただの研究員。話したっけ?」
「いえ。その辺りに、今朝、大学の封筒を置いたままにしたでしょう?」
「それは、忘れていったんだ。教務課に出す書類だったんだけど。また明日持っていく」
その封筒は夕飯の前に片付けて、今は鞄の中だ。
そして、そういえばろくに互いを知らないのだと、今さらのように思った。
片平は、名取がどこで何をやっていた人間なのか、特に尋ねようとは思わなかった。そして名取も同様だった。意識して聞かないようにしていたわけではなく、ただ、そうする必要性を感じていなかっただけだ。
名前くらいだ。それくらいは知っておかないと、互いを呼ぶときに困る。
そうして名乗りあったのが、つい昨日のことだ。それが本名かどうかはこの際どうでもいい。呼べればいいのだから。
けれどこうして話をしてみれば、名前だけでは不十分だと気付いた。
言葉には背景がある。
言葉が、単独で生まれて発せられることはない。
その言葉が口から出るまでに、その人間が生まれてからその瞬間までの全てが、背景として存在するということを、彼らは次第に理解した。
(世界の半分を殺そうとした男、か)
ふと、昨日のやり取りを思い出す。
目的を果たそうと思ったなら、人間の半分は殺さないといけない、と。
名取は、そんな突拍子もないことを言っていた。
けれどもそこに、名取の冷静さが見えた。この男は、自分の殺意の行き先を、冷静に読み取ったのだ。
「……罰せられたいように見える?」
片平は、話を最初の名取の問いかけに戻した。
名取は、頷いた。
「あなたは、殺している人だ。だから、罰せられるのを待っている。俺と同類だ。最初に、そんな風に感じたんです。大きく間違ってはいないでしょう」
椅子取りゲームを、片平は思い浮かべていた。
目の前に椅子がある。
反対側には、もう一人いる。人間ではないかもしれない。さっき食べた豚かもしれないし、実験用のマウスかもしれない。一匹のハエかもしれない。あるいは、やっぱり人間かもしれない。
椅子は一つしかない。
そこに、自分が座るところを想像する。座れなかった何ものかは、死ぬことになる。
(罰とは何だ?)
「たとえば」
片平は、ひとつの例を挙げた。
「俺は毎日動物を殺している。主にマウスだけど、モルモットや鳥のこともある。猫もあった」
右手を、鋏を扱うように動かす。親指と中指を近づけ、離す。それだけで、蘇ってくる感覚がある。分厚い布を裁つような感覚だ。脊椎のところで、硬いものにつかえる。そこでわずかに力をかけ、一気に首を落とす。そうやって、手の中の命は不可逆的に壊される。
「一日に二、三匹。たぶん、千匹以上殺していると思う」
淡々と、思い出すままに話す。誰かに話したことは、なかったかもしれない。こんなことを聞きたいという人間もいない。
「こんな話は聞きたくないだろうけれど」
「でも、あなたは誰かに話したかったんでしょう?」
片平は煙草を取りだし、火を点けた。
「昨日の晩からずっと」
細く、煙を吐き出しながら、言う。
「俺と君の違いは何だろうと、考えていたんだ」
それは、この例に関していうならば、殺す対象が人間か、そうでないかの違いだ。
その違いに、どんな意味があるのかを、片平はずっと考えていた。
「三人の人間を殺したという君は、自らの意志で死んでいこうとしている。千を超えるマウスを殺した俺は、平然と生き続けている。もちろん君の言うように、マウス以外のものも殺している」
たとえば、―――。
頭を振り、言葉を呑み込む。
「でも、あなたのそれは、研究のためでしょう。目的がある。それも、役に立つ目的が」
「目的があればいいのか」
程度の低い返しだと、自分でも思う。
名取は笑った。
「ああ、やっぱり。そう返ってくると思っていたんです。でも、俺が言いたかったのはそうじゃなくて―――」
すっと、消え入るように言葉を閉ざした。
それから少しの間、名取は黙っていた。必死に言葉を探しているという風だった。
片平は、名取が再び口を開くまで待った。
煙草を吸い、煙を吐き出す。それを、何度か繰り返した。湿った風に、灰が散った。
「たぶん」
やっと聞き取れるくらいの声で、名取は言った。
「殺されたその命が、別の何ものかの命に、繋がるかどうか、ではないのですか」
そんなことを、名取は拙い言葉でどうにか表現しようとした。
それは、とても優しい答えだった。
正しさとは無関係の、純粋な優しさだった。
「君は、優しい」
片平は、ストレートにそう言葉にした。この上なく正直な感想だった。
名取は戸惑うように、顔を逸らした。
「いいえ、俺はただの、残酷な人間です」
「それは、人を殺したから?」
思わず、笑ってしまう。
短絡的だ。
「それもそうですが、本質的に俺は残酷なんです。だって―――」
「死のうとしているから?」
「そうです」
でもあなたは生きようとしている、と。
そう言外に伝えようとしているようだった。
片平は、もう一本煙草を取り出した。風が強く、何度かライターを点け直さなければならなかった。ラジオは相変わらず、淡々と天気を伝えていた。呪文のように、凹凸のない低い声がラジオから絶え間なく聞こえていた。こんな陰気なもの、誰が聴いているのだろうと思う。自分以外には、という意味で。
その低い声にそっと覆い被さるように、名取の声が聞こえた。
「俺が殺した人たちは、どこにも繋がりません。消滅しました。消滅すればいいと思って、やったんです」
細く糸を紡ぎ出すような声だった。
消滅という言葉が持つ、燃え尽きていくような視覚的イメージが、胸の奥の暗闇で小さな灯火のように揺れた。燃え落ち、黒い煤となってゆっくりと落ちていく。昨晩、彼の服と一緒に燃やした紙切れの、なれの果てを思い出した。一斗缶の底に積もっていった、柔らかな黒い煤のことを。
消滅していったという見知らぬ三人の命に、悲しさや同情はなかった。ただ底知れない寂しさだけを感じていた。彼らもまた、誰かにとっての何者かであったはずなのだ。ただ、名取にとっては何者でもなかったということだけで、殺される理由としては十分だった。
この男は、もう罰せられているのだ。少なくとも、自分の殺意を理解していた。羨望にも似た感情が、あった。
片平は、いつの間にか火の消えた煙草を、見下ろした。
まだ熱の残るそれを握りこんだ。
焼け付くような鋭い痛みを感じながら、静かに、言葉を探した。
けれども、先に口を開いたのは、名取だった。
「さっきの、本当にマウスの話ですか?」
その声は、笑っているにも聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます