第7話 つけ打ち、大詰です!
そしてついに顔見世千秋楽を迎えた。
初日と同じく千秋楽も慌ただしい。
歌舞伎は役者も長唄も常磐津も清元も自分の出番が終われば帰れる。
例えば夜の部の一つ目で出番が終われば、そのまま荷物をまとめて東京へ帰れるのだ。
もし夜の部に出ていなかったら、昼の部の出番が終われば帰れる。
だから千秋楽の楽屋には、各自海外旅行で使用するキャスター付きの鞄を持って現れる。
一方幹部役者は小さな鞄だけ持って帰る。
楽屋の荷物は、付き人が箱詰めして後で東京へ送る。
僕らつけ打ちが幹部役者への挨拶を済ませたあと、控室で雑談していた。
「とうとう一つも叩かずに楽日を迎えましたね」
僕は国宝さんのつけ打ちの事を云った。
「まあ予定通りだな」
堀川さんは、持論を述べた。
「お客さんは、折角高い観劇料金払って見に来ているんだから、三日に一回は叩いたらいいのに」
都座の顔見世一等料金は、一人二万三千円である。
江戸歌舞伎座の一等料金が大体一人一万八千円ぐらいだからかなりの強気の商売である。
東京から夫婦二人で顔見世観劇すれば、観劇料、交通費、宿泊費、食事代等で十万円以上はかかる。同等の金額で海外旅行出来る。
それでも毎回チケットは完売しているのだ。
「国宝さんは、計算高い女と同じなの」
「どう云う事ですか」
「観客は、どうしても国宝さんのつけを見たい。でもそう簡単に見せない。
計算高い女も、そう簡単にセックスさせない。あれ買って、これ買って。ねえパパ、私おいしいお寿司食べたい。美味しいフランス料理食べたいの。私、ブランド物のバッグ欲しいとあれこれおねだりする。流し目で、さももったいつけてね。もうすぐさせますって顔して、すんでの所で、(じゃあまたねえ)と食い逃げ図る。
ブランド物のバッグは複数の男に同じブランドものをねだるんだ」
「どうして同じブランド物なんですか」
「例えばつきあっている男が、五人いたとしよう。手に持つバッグは一つでいいんだ。後の四つは質屋に売るんだよ」
「なるほど、計算してますねえ」
「だろう。国宝さんもきっと計算しているんだよ」
体調の良い時は、国宝さんは大詰めのつけ打ちの打ち上げで出て行って座る。
しかし、実際につけを打つのは黒子に着替えた僕と堀川さんだった。
初日は堀川さんと丸太さんが担当していた。しかし途中で丸太さんが、
「私の仕事はつけ打ちです。人形遣いではありません」
と啖呵を切って、言葉を荒げて職場放棄した。
相手はつけ打ち初の人間国宝である。
まさに自分の首をかけての陳情、直訴だったと云える。
丸太さんの言葉を控室で聞いた国宝さんは、数秒黙った。
そしておもむろに、
「丸太さん、よう云うてくれた。おおきに、おおきに」
と国宝さんは、丸太さんの手を握りむせび泣いたらしい。
日頃あの不愛想な丸太さんが、国宝さんの泣きに、さらに輪をかけて涙の嵐を巻き起こしたらしい。
ぜひ一度僕はその場に立ち会いたかったと思う。
それ以来 右手は堀川さん、左手は僕の担当となった。
つまり国宝さんは文楽の人形で、僕と堀川さんは国宝さんを操る人形遣いだったのだ。
ある日、堀川さんは自嘲気味にこう云った。
「おい、俺達つけ打ちを首になっても明日から文楽の世界で生きていけるよな」
僕は、薄ら笑いを浮かべて頷いた。
国宝さんが上手舞台端に姿を見せただけでも場内を揺るがす拍手がいつまでも鳴り響く。
その反響は、主役の歌舞伎役者を凌駕していた。
僕が国宝さんの楽屋に行く。
国宝さんは利恵さんと話していた。
「何だかお二人楽しそうですね」
「あら、丁度いいところ。来年から国宝さんの芸談をホームページで連載を開始しようと思うのよ」
と利恵さんが説明した。
「もう、わしもお迎えが近いから云わば遺言や」
「そんな事云わないで下さいよ」
少し僕は悲しくなった。
とその時、文化庁長官の下鴨さんが顔を見せた。
「清水様、千秋楽おめでとうございます」
畳に頭をこすりつけて挨拶した。
「長官さん、お忙しいのにすんまへんなあ」
「無事千秋楽まで努められて何よりです。お身体お大事にして下さいよ」
「なあに、わしは舞台出るだけで、黒子のこの人らが実際につけを打つからなあ」
「その舞台に出るだけで大したもんです」
「それも休み休みしてた」
国宝さんは笑った。
毎日、いや昼夜毎公演ごとに、都座の正面玄関には、
(本日つけ打ちの人間国宝、清水元助舞台出ます)または、
(舞台出ません)の張り紙が出ていた。
熱心なファンがすぐにツイッター、ブログ、インスタグラム、フェイスブックでアップして、さらに情報が拡散される。
観客も国宝さんの気ままさを知っていたので、トラブルはなかった。
下鴨長官は夜の部だけを見るので、一旦都座を出るらしい。
昼の部が終わり、夜の部が始まる頃になると都座前は、観客はもちろん一般人も名残惜しいのか盛んにまねき看板を写真に収めていた。
どの芝居でも千秋楽ともなれば一種独特の雰囲気を醸し出す。
しかし顔見世は、さらに数倍その熱気、興奮が伝わる。
夜の部の開場の時、頭取が血相を変えて国宝さんの楽屋に飛び込んで来た。
「大変だ大変だ」
「頭取さんの大変だは、いつも芝居がかってますねえ」
と国宝さんが冷静に答えた。
「本当に大変。いや東山君にとっては大変なのかな」
「どうかしたんですか」
「ちょっと来て御覧」
上手舞台袖の緞帳の隙間から客席を見させてくれた。
「これだよ」
客席最前列を指さした。
盲導犬が一列ずらっと並んでいた。
正確には、お客様もいてそのそばに盲導犬がいたのだが、僕の目には盲導犬しか映らなった。
都座での犬でつけを失敗した事により、歌舞伎界での僕の犬嫌いは有名になった。
「なあ大変だろう」
何故か頭取は少し嬉しそうに呟いた。
「こりゃあ大変だわあ。盲導犬さらにパワーアップ!!盲導犬さんいらっしゃい!ワン」
いつものように堀川さんも駆け付けてこちらも満面の笑みを浮かべて異様にはしゃいでいる。
(他人の不幸は蜜の味がする)とよく云われているが、二人とも僕の不幸をまじかで見て、テンションがアップしていた。
二人とも何故か手のひらをくるくる回しながら即興で踊り始めた。
「それ、何の踊りですか」
煮えたぎる怒りを隠して努めて冷静に聞いた。
「それ、何の踊りですか」
「ワンワン踊りです、ワン」
「そうです、ワン」
「そんなに嬉しいのかよ!」
思わず怒鳴りたくなるほど、二人の踊りは続く。
黙って僕は二人の踊りを見続けた。
僕が何の反応も見せなくなると面白くなくなったのか、それとも飽きたのか二人の踊りは終わりを告げた。
「まあ盲導犬いないと思ってやるしかない」
これまた堀川さんが、いい加減なアドバイスをくれる。
「いやいや現実にはいるんだから」
すぐに僕は反論した。
事、犬に関しては何故か一歩も譲る気はない。
「お前ねえ犬を見るから怖さが湧き上がる。犬を見なければいいんだ」
無茶苦茶な論理が続く。
「僕だって犬を見たくないですよ。舞台に集中したい。でも視界の端に映るんです」
「じゃあこうしろ。一層の事、目を瞑ってつけを打つ」
「それじゃあ役者が見えないじゃないですか」
「もう手のかかる野郎だな。泣いても笑っても今日で終わり。一層の事犬に噛まれるぐらいの気迫で打ってみろ」
捨て台詞を残して堀川さんは、立ち去ろうとした。
「どこ行くんですか」
「ドッグフード買いに行って来る」
「それ買って来てどするんですか」
「俺達つけ打ちの部屋にばらまいて、盲導犬様が俺達控室でゆったりとくつろいで貰おうと思ってさ」
「それ面白いねえ。やろうやろう」
頭取までがはしゃいで、堀川さんの戯言につきあう。
(犬情報)は、頭取を通じてあっという間に楽屋中に広まった。いや、都座全体に広まった。
美香からライン来る。
「盲導犬襲来です。大丈夫ですか!」
すぐに返信した。
「大丈夫・・・かなあ」
「一匹で卒倒してたのに、大群ですよ!大丈夫じゃないでしょう」
「せいぜい飛び掛かるのを阻止するために、客席の上手の前でスタンバイお願いします」
「了解」
いよいよ、夜の部キリ狂言(最後の演目)開幕五分前となった。
エレベーターの扉が開き、蹴上と白梅さんが姿を現した。
「休演しなくて大丈夫なのか」
いつもにましてにやけながら蹴上が僕に声を掛けた。
「ワンちゃんが飛び掛かりやすいように、(犬まっしぐら)のドッグフードをこいつの懐に忍ばせておきました」
真顔で堀川さんは云った。
堀川さんならやりかねないと僕は慌てて自分と堀川さんの懐を確認した。
蹴上と白梅さんが笑った。
「笑ってごめんなさいね」
ひとしきり笑った後白梅さんが謝った。
蹴上は、手のひらでぽんと力強く僕の肩を叩いた。
そしてついに今年の顔見世千秋楽、夜の部キリ狂言(双龍寺)の幕が開いた。
つけ打ちは最初から舞台端にいるわけではない。
ほどよきタイミングで芝居を壊さないように、静かに出て行く。
僕は白梅さんの担当で、下手にいる堀川さんは蹴上の担当である。
上手袖から舞台端に出た僕は、視線を落としたまま出来るだけ客席を見ないように心掛けた。
しかし、僕が出た瞬間、数人の観客が大きく拍手した。
反射的に僕は見た。
最前列に鳥羽佳子、沙織親子がいた。
本来なら上手のつけは堀川さんだった。前売り券を購入した時点では、堀川さんのアクシデントは起きていなかった。
だから上手客席にいたのだ。
最前列の盲導犬は微動だにしなかったらしい。
これは終わってから堀川さんから聞いた。
僕の手のひらは、異様に汗が噴き出していた。
もちろんその原因は(盲導犬団体観賞)に起因していた。
つけを持つ直前まで、観客に気づかれないように何度も、手の汗を膝の袴の布に擦り付けた。
白梅さんの見得で今夜最初のつけを打つ。
「タン、タン、タン」
(一つ目無事クリア)僕のこころが叫んだ。
一つ目が打てたので、気分的に大分楽になった。
こころの余裕で、蹴上の見得で堀川さんのつけを観察出来た。
堀川さんの面構えは冗談を云う顔つきではなく、引き締まった精悍さに溢れていた。
僕はつけを打つ時の堀川さんの顔が一番好きだ。
それから僕は、さらに慎重につけを打つ。
いよいよ蹴上と白梅さんとの見得とつけの連打が来た。
緊張感が取れてないのは、吹き出す汗で自分自身が一番わかっていた。
つけの連打の中で汗を拭う事は、物理的に不可能だった。
「タン、タン、タン」
僕のつけの連打が始まる。
幾度目かのつけを打つ時だった。
右手のつけ析が、汗で滑り僕の手元を離れて空中を舞う。
一つのつけ析が僕の手元から半円形を描きながら舞台中央に飛んで行くのを茫然と見送っていた。
時間にしてどれぐらいだろうか。
一秒か、二秒か、三秒か。
つけ析が空中を舞った間、僕の耳には鳴り物の音も、観客のどよめきも、何も聞こえなかった。
唯々、僕はつけ析の放物線を目で追うだけだった。
それしか出来なかった。
観客席から、大きなどよめきが同時に起きた。
つけ析が空中を舞い、蹴上の足元に落ちた。
それを見た上手袖に控えていた後見が、舞台に出ようとした。
しかし蹴上が、それよりも一瞬早く身体を捻じ曲げて右足で舞台袖にいる僕目掛けて蹴った。
受けようと身体を伸ばした。
しかし、僅かに前に外れて客席下に落ちかけた。
瞬間、美香がダイレクトでキャッチしてすぐに僕のいるところにつけ析を戻した。
観客から拍手が起きる。
僕は、この時拍手の音が耳に入っていなかった。
つけの連打を打ち終えた。少しよたつきながら舞台袖に引き込む。
下手から堀川さんが走って戻って来た。
「堀川さんすみませんでした」
「それより黒子に着替えろ」
つけ打ちの正装は上は黒の着流しで、下は縦の縞模様のたっつけ袴である。
一方黒子は、その名の通り、上下黒で、黒の頭巾を被る。目の前に網目模様の隠しをする時もある。用事以外は、隠しは上にはね上げている。
歌舞伎で黒は見えないと云う約束事がある。
例えば、役者が舞台で死んでその場にうずくまる。
程なく黒子が、消し幕と云う黒の小さな幕を持って現る。
さっきの死んだ役者は、その消し幕の中に入り、黒子と一緒に歩いて退場する。
(死んだのに、何故歩いて移動しているんだ)
とリアリズム演劇に見慣れた客からしたら、おかしいかもしれない。
しかし、このシュールな演出も歌舞伎ならではである。
だから、これから僕と堀川さんは二人で、国宝さんを抱えて舞台に出すが、僕らは黒子なので、見えているが、見えないと云う約束事なのだ。
大詰めの「打ち上げ」は国宝さんが務める。
国宝さんは輝美さんとジェフに手を引かれたっつけ袴に着替えて椅子に座っていた。
「よろしくね」
いつものように輝美さんが云った。
「最後や、頼むで」
国宝さんがふっと小さく笑った。
僕と堀川さんが黒子に着替えて、国宝さんを後ろから支えながらゆっくりと舞台に出た。
観客席からひと際大きな拍手が起きる。
国宝さんを座らせて後ろで僕と堀川さんがそれぞれつけを持つ。
国宝さんが堀川さんの方を見て何か合図した。
堀川さんがつけ析を置いて立ち上がり、僕にも舞台袖に引っ込むよう催促した。
僕と堀川さんの黒子が引きあげると、客席から大きなどよめきと拍手が鳴り響いた。
今日の歌舞伎界で役者以外で、これだけの観客のこころを掴むのは、国宝さんを置いて誰も存在しない。
再び場内はしんと静まり返る。
僕も堀川さんも舞台袖から固唾をのんで見守る。
「いよいよ始まるかな」
舞台上手、下手袖には他の役者、大道具、照明、床山、衣裳さんら大勢詰め掛けた。
蹴上と白梅さんが、舞台中央で肩と肩をくっつけてお互いに見得を切る。
「タンタンタンタン」
国宝さんのつけの連打、打ち上げが始まった。
僕を始め、観客舞台袖にいた連中も初めて目にする国宝さんのつけ打ちだった。
その九四歳のつけ打ちとは、到底考えられない豪放磊落なつけ音だった。
生意気なようだけど、堀川さんの豪快さとは一味違うものだった。
表現しにくいが、豪快さの中の繊細さ、互いに矛盾する音が混在していた。
平たく云えば品格あるつけ音だった。
大きなつけ音を出すだけだったら、力いっぱい叩けばいいだけの話だ。しかし国宝さんのつけ音は、根本的に違っていた。
今、僕はやっとその違いがわかる耳を持った。
長年英語を勉強して来た人間が、ある日外人の話す言葉がわかる瞬間と同じくらいの、欣喜雀躍、こころが舞い上がっていた。
僕が「英語耳」ならぬ「つけ音耳」を持った瞬間でもあった。
国宝さんのつけを一つ聞けたら大儲け。大きな幸せが降りかかると云われた。
今宵一つどころか、連打打ち上げで、皆の一生分の幸せが渦巻いていたはずだ。
「タン」
最後のつけ析の音である。
蹴上も白梅さんも微動だにしなかった。
静かに定式幕が閉まる。
古典歌舞伎は、原則としてカーテンコールはない。
それでも拍手はなりやまない。
しかし定式幕が閉まると今日の芝居の終わりを告げる鳴り物(打ち上げ音楽)が演奏されて止め析が入る。
「本日の公演はこれで終了でございます。どなた様もお忘れ物なきよう、お出まし下さいませ。本日のご来場誠にありがとうございました。ありがとうございました」
場内アナウンスが流れる。しかしそれでも拍手は鳴りやまない。
それどころか、さらに勢いを増した拍手が客席を覆う。
観客は立ち上がり拍手を続けた。
上手エレベーターに乗り込もうとした蹴上は、いち早くこの異変に気付いた。
舞台袖の操作盤の客席モニターを見つめる。
「どうしますか」
蹴上は白梅さんに尋ねた。
「出ましょうか」
「よし、行こう」
二人は再び舞台中央に立った。
狂言作者が、
「定式幕開けます。大道具バラシ待って下さい」
と大きく叫んだ。
舞台装置をばらしかけた大道具は、急いで元に戻した。
照明ステージ係りの笠置は、トランレシーバーを持ち、
「開けるで、開けるで、開けるで!」
と都座二階客席後方にある照明調光室の係りに叫んだ。
「開ける?笠置さん、ドアを開けるんですか」
調光室にいた岩倉さんは、毎回笠置さんの主語を省く絶叫にいつも戸惑っていた。
「違う!出る、出るんや!」
「えええええええーーーー笠置さん舞台に出るんですか?」
「そう、俺が裃(かみしも)着て・・・そんなわけないやろう!」
トランシーバーの声だけのやり取りは、時としてとんだ間違いを犯す可能性があった。
「照明さんいいですか、開けますよ」
「幕、幕、幕や」
笠置も狂言作者にせっつかれて完全に舞い上がっていた。
そうなると一層、単語だけの絶叫となる。
「まく?まく?まくら?まくらぎ?まくらのそうし?」
岩倉さんは、完全に舞い上がっていた。
そばで二人のやり取りを聞いていた東京の狂言作者は、半場あきれ返っていた。
「幕を開けるから、明りを本明かりに戻せって云うてるんや」
「だったら最初からそう云って下さい!!」
これが固定電話でのやり取りだったら、ここで岩倉さんは、受話器を叩きつけていただろう。
「センターさん(センタースポット係り)も用意してや」
センタースポットとは、都座の三階客席後方のエリアにある。
この中に、スポットライトが三台ある。
舞台に出た役者を狙い定めて顔からすっと明りを出す。その明るさの強弱、光に色を加えるための、色シートの取り換えも全て、機械ではなくて、人間がやっていた。
このハイテク時代に人間がスポットを操作している。
「了解!」
照明も作業灯から、本明かり(本番用の明り)に戻した。
再び定式幕が開いた。
観客の退場のために後方の扉を開けていた案内係は、慌てて閉めた。
異例のカーテンコールの始まりだった。
蹴上と白梅さんは、客席中央、上手、下手の三方礼をした。
拍手の嵐はさらに勢いを増して、都座を覆う。
蹴上と白梅さんは上手袖にいた僕らを手招きした。
「おい行くぞ」
堀川さんが云った。
「国宝さんも行きますよ」
国宝さんは椅子に座り込んで、まだ荒い息をしていた。
「あんたらだけで行きなさい」
堀川さんは、僕に目で合図した。
次の瞬間僕と堀川さんは椅子事持ち上げて舞台に国宝さんを出させた。
僕らつけ打ちが出て来たので、客席の興奮は最高潮に達していた。
国宝さんを舞台中央に置いた。
少しはにかみながら国宝さんは手を挙げて笑った。
拍手と歓声がさらに増幅していた。
これが古典歌舞伎初めてのカーテンコール。
さらにつけ打ちがそのカーテンコールに出たのも歌舞伎四百年の長い歴史の中で初めての出来事だった。
その夜、祇園の「御池」でささやかな打ち上げが行われた。
それには鳥羽佳子、案内の美香も参加していた。
乾杯の挨拶で国宝さんは、
「都座の顔見世千秋楽でつけの打ち上げが出来た。こんな嬉しい事はおへんなあ。
東山はん、あんたよう頑張ったなあ。双龍寺での修行、それを生かせたつけやったな」
国宝さんが僕の顔を見ながら云った。
「おい何か云え」
と堀川さんに云われた。
「有難うございます。ここにいる皆さんのおかげです。有難うございます」
少し胸から熱いものがこみ上げて来た。
「おい泣くな」
と云った堀川さんの目も潤んでいた。
「はい。有難うございます」
それだけ云うのが精一杯だった。次に堀川さんにバトンタッチした。
堀川さんの乾杯の挨拶が続く。
「とにかく、皆さん顔見世千秋楽ご苦労様でした。乾杯」
楽しい宴が始まった。
「盲導犬には、これで慣れましたね」
沙織さんがくすっと笑った。
「いやあどうですかねえ。現につけ析飛ばしましたから」
「楽日に行くのは、大分前からわかっていました。でも東山さんに前もって云ったら動揺すると思って黙っていました。すみませんでした」
沙織さんが頭を下げた。
「とんでもない」
「沙織さん、今度は盲導犬だけの館内貸切公演しましょう」
堀川さんが僕らの会話に乱入した。
「そんなの無理です」
と僕は必死で抵抗した。
「いや俺、ドッグフードの会社に行って営業して来る」
堀川さんなら本当にやりそうで怖い。
「これ、ボスじゃなかった、ミライ君に差し上げて下さい」
堀川さんは鞄から、ドッグフードを取り出した。
「本当に買いに行ってたんですか!」
半場僕はあきれ返った。
あの顔見世千秋楽で忙しい中を堀川さんは本当に行ったんだ。
てっきり冗談かと思っていた。
「来年は、犬が主人公の新作歌舞伎やりますから、ぜひ団体貸切お願いします」
「犬が主人公の歌舞伎ってあるんですか」
「今、北野さんが書いてます」
よくもまあ、次から次へと口から出まかせが出て来るものだと僕は半場感心しながら黙って聞いていた。
店の玄関戸が開き、本当に北野さんが入って来たので驚いた。
「噂をすれば何とやら。北野先生の登場です」
「いやあ、遅れてすみません。千秋楽の挨拶回りが長引いてしまって」
「北野先生、本当に犬が主人公の歌舞伎書くんですか」
真顔で沙織さんが聞いた。
「えっ何ですか」
堀川さんは、北野さんの袖を引っ張り、ウインクした。
「ああ、まあ構想段階ですけど」
「どんなお芝居なんですか」
さらに沙織さんが突っ込んで来た。
「それは・・・」
北野さんは救いの目で堀川さんを見た。
「北野先生、この前云ってましたね、舞台に本物の犬が出るって」
「そうそう。十匹でしたかな」
「いやあ三十匹でしょう」
「そうそう、その三十匹で、宝塚歌劇団やOSKのロケットダンスに倣って、犬のロケットダンスやろうと。もちろん、この時、つけ打ち入ります。この時のつけ打ちは東山さんにお願いしようかなあ」
「なんたって、犬と来れば東山さんのつけ打ちに決まってますからねえ」
ますます堀川さんは調子に馬鹿乗りだった。
どこかで、歯止めかけないといけない。
「沙織さん、あのねえ」
僕が云いかけると、堀川さんが僕の足元を蹴りながら耳打ちした。
「少女の夢を壊さないの」
堀川さんらにとって、それが夢でも、もし万が一そんな新作歌舞伎が実現したら、僕にとっては夢ではなくて、悪夢である。
「東山さん、じゃあ来年は大変ですねえ」
「ええまあ」
沙織さんは、完全に信じ込んでいたようだ。
「東山君が、つけ析飛ばした時ほんまびっくりしました」
美香が話題を犬からつけ析に変えてくれてほっとした。
沙織さんはまだ、この犬歌舞伎の話を聞きたくて北野さんに何か質問していた。
ダイレクトキャッチした美香が感想を述べた。
「あの時、ラインで前にいててねと云っておいてよかった。有難う」
「あれは、たまたま。盲導犬のお客様の誘導のために、前で待機してただけ」
「助かりました」
戸が開き、今度は蹴上と白梅さんの二人が顔を覗かせた。付き人はいなかった。
「蹴上さん、白梅さん」
「やっぱりここだったんだ」
二人は座敷に入って来た。
「蹴上さん有難うございました」
「何が」
「僕が飛ばしたつけ析を蹴飛ばしてくれて」
「ああ、あれねえ一瞬迷ったんだ。だってつけ打ちにとってつけ析は大事な商売道具。つけ打ちの魂が入ったものだからねえ。そうですよねえ、清水師匠」
「まあわしのつけ析は確かに魂が入っとる。けどこの人のはまだ入ってないから大丈夫」
「それを聞いて安心した。でも直接届かずにごめん」
「そのつけ析、私がキャッチしました」
美香が手を挙げてアピールした。
「あの時の案内さんだったんだ」
蹴上は笑った。
「白梅さん、有難うございます」
「これからも頑張ってね。顔見世千秋楽おめでとうございます。それと双龍寺からのご帰還おめでとうございます」
「有難うございます」
「一時はあなたの死亡説や、出家説が東京で流れて本当に心配したのよ」
「そんなくだらい噂流すのは大体見当がつきますけど」
僕は堀川さんを睨んだ。
「噂話が出るって事は、まだ周囲から気に掛けられているって事なんだよ。もう噂にも上らなくなったら終わりだよ」
堀川さんは必至で自己弁護に努めていた。
楽しい宴の後、一同は再び都座の前に立った。
まねき看板がライトアップされていた。
明日の朝になれば、業者によってまねき看板降ろし、撤去作業が始まる。
行き交う通行人の何人かは立ち止まり、写真に撮っていた。
雪が降り出して来た。
暖冬の今年だったがここに来てぐっと冷え込み京都本来の寒さになって来た。
「おい見えるか」
堀川さんが声を掛けた。
「何がですか」
「俺達つけ打ちのまねき看板が」
「見えます」
僕は堀川さんが何を云いたいか充分わかった。
「俺のこころのまねきには、俺もお前も国宝さんのまねきが見えるんだ」
「僕も見えてますよ」
ふいに涙が出た。
見ると堀川さんも泣いていた。
「来年からつけ打ちのまねきも上げたいよね」
僕らのこころの中を察したのか蹴上が云った。
「本当。歌舞伎にはなくてはならない存在だから」
白梅さんが同調した。
僕の懐には白梅さんから貰った三匹の猿がいた。
「猿には、災難がさると云われて縁起いいのよ」
「はい、だからあのアクシデント乗り越えました」
「さあ皆さん写真撮ります」
大きな声で利恵さんが云った。
「そうねえ、もう明日の朝はまねきの撤去が行われるんやもんねえ」
輝美さんが云った。
「おお、いいねえ撮ろう」
蹴上が賛同した。
利恵さんは、スマホを通行人に託して自分も記念撮影に入った。
雪がさらに勢いを増して振り出す。
白梅さんは、僕の隣に立ち、僕の手を握った。
僕は迷う事なく握り返した。
白梅さんは、にっこり微笑んで僕の肩にもたれた。
反対側に立っていた美香も僕の手を握った。
それもすぐに握り返した。
「それでは行きますよ。一タス一は」
通行人が粋な声を僕らに掛けた。
「ニー」
僕ら皆の笑顔をきっと都座の劇場の神様は見守っていただろう。
僕はこれからもつけ打ちに精進したいと心底思った。
「ああ雪が口の中に入った」
堀川さんが呟いた。
国宝さんの車椅子に輝美さんがひざ掛けをした。
利恵さんは、さっそくホームページにアップしようとしていた。
素敵な仲間、これからもよろしくお願いします!
「タン、タン、タン!」
( 終わり )
舞台にいる男 京つけ打ち伝 林 のぶお @nh55
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