第6話 つけ打ち、顔見世に登場!
「顔見世歌舞伎興行」と銘打つ興行は、現在三つの劇場で行われていた。
「江戸歌舞伎座」「名古屋味噌座」「京都都座」
この三つの中で、伝統と歴史と圧倒的人気を誇るのが、都座の十二月吉例顔見世歌舞伎興行だった。
人気の理由が幾つか挙げられる。
日本有数の観光地京都と云う場所の有利さがまず挙げられる。
さらに京都オール一丸となって応援している事だ。
京都府、京都市、京都市観光協会、京都市商工会議所など、あらゆる団体がこぞって協賛していた。
その証拠に、番附(筋書)(パンフレット)の冒頭には、京都市長、京都府知事のご挨拶文が掲載されている。
もちろん地元の祇園商店街も全面協力していた。
顔見世が近づくと、四条通、祇園界隈の歩道には、「吉例顔見世歌舞伎興行」と書かれたぼんぼりが等間隔に並べられる。
また祇園界隈のお茶屋の玄関には、顔見世のポスターが貼られる。
そのポスターも二種類あり、早刷りは赤の下地に、黒の文字の縦長のもの。
次に、演目と役者が入った正規のものがあった。
京都のホテルでは、京都観光と顔見世観劇を抱き合わせた宿泊プランをお客様に提供していた。
京都五花街(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)のお茶屋では、顔見世チケットと特製弁当、時には舞妓と一緒に観劇するものを御贔屓筋に売り出していた。
都座の顔見世は、京都の冬の風物詩でもあった。
また俳句の世界では、「顔見世」は冬の季語で有名であった。
「京都の祭」なる本では、冬の項目に顔見世が掲出されている。
京都には、三大祭なるものがある。
五月の「葵祭」、七月の「祇園祭」、十月の「時代祭」である。
もし四つ目の祭を追加するとなれば、僕は間違いなく都座の顔見世を推挙する。
だって都座の顔見世は、単なる劇場の歌舞伎公演を超越したものだから。
「京の顔見世」は、一か月の長きにわたる祇園祭と同じ期間で、そこには芝居とは別に様々な準備、儀式が存在していた。
最初は「梵天」(ぼんてん)作りから始まる。
梵天とは、劇場の正面の上の櫓の左右に設置され、毎年まねきあげの日に新調される。
大きな竹の先に、和紙で細長い円錐形に丸めたものを五千枚近く作り上げる。
出来上がると先はタンポポの先のようになる。
都座の機関室で、約二週間かけて、二人の職人が作り上げる。
梵天は、劇場の神様が降臨されると云われている。
江戸時代から続く長い歴史と伝統がある都座の舞台に立った役者の何人かは、
「劇場の神様を見た」
と公言する。
だいたい、その神様は美しい女性だとか。
本当か嘘か僕はまだ一度も見たことがないから、何とも云えない。
それで思い出した事が一つある。
以前、堀川さんが、
「都座には、本当に劇場の神様がいるからな」
と云った。何でも国宝さんも何回か見たらしい。
「それと、都座には、幸せの結婚鳥が舞い降りる時があるんだ」
「何ですか、その幸せの結婚鳥って」
「何年かに一度、都座の梵天に巣を作りに舞い降りるんだ。するとその年は、都座で社内恋愛が流行って結婚するカップルが続出するんだ」
「本当ですか。何か怪しいなあ」
「本当だって。あの都座照明の笠置も大道具の茶山も、案内さんと結婚しただろう」
「そう云えばそうですねえ」
「お前もその幸せの結婚鳥が来たら結婚出来るかもな」
「で、今度はいつ飛来するんですか」
最初は眉唾物として聞いていた僕も次第に堀川さんの話術に乗せられて思わず質問してしまった。
「不定期で、顔見世の時にやって来るらしい」
「じゃあ今度来たらよそへ行かないよう捕まえといて下さい」
「そんな罰当たりな事出来ない。まあお前のような、鈍感な人間は目の前で羽休めていても気づかないだろうなあ」
「もういいです。自分で捕まえます」
「捕まえるのは、鳥じゃなくて、さきに女だろう」
豪快に堀川さんは笑っていた・・・。
「まねきあげ」とは、毎年都座の劇場の正面に掲げられる。
高さ百八十センチぐらいの檜板に勘亭流の文字で、出演する役者の名前が書かれてある。
勘亭流の文字の特徴は、隙間なく、文字の端が入り込む。
これは、沢山のお客さんが隙間なく、入り込むに引っかけた縁起良い文字だった。
東京からの役者は東側、関西の役者は西側に設置される。
作業は前日の十一月二十四日夕刻から始まる。
都座の右側は、京阪電車祇園四条駅に通じる地下の階段がある。
その階段の上に、利用者の安全を考慮して、簡易式の屋根が作られる。
次に劇場前に、まねき看板を上げるために、まずイントレが組まれる。
このイントレは、今ではどこの建設工事現場で見られるものだが、昔は、細長い丸太の棒を縦横に建てていた。
職人の安全を図るために、十数年前から今のイントレに変わった。
次に、竹矢来が組まれ、松の枝付きの葉が所々置かれる。
竹矢来とは、江戸時代の芝居の名残りで、竹を左右斜めに組んでひし形の格子状の模様に仕上げる。
明朝のまねきあげ儀式用に、あえて数枚のまねきを残して後は、全て並べられる。その数は、その年の出演する役者によって変わるが、三十枚前後である。
今は、玄関ドアの上に絵看板、さらにその上にまねきが掲げられる。
作業は深夜までかかる。
大方のまねきが上がると、微調整に入る。
一人の現場監督が都座の四条通りを隔てたレストラン「菊水」から見て、左右の調整をする。まねき看板を西側に(劇場に向かって右側)ずらす時は、
「もうちょい、高島屋!」
と叫ぶ。都座から四条通りを西方向に進み、河原町交差点に高島屋が見えるからだ。
まねき看板を東側に(劇場に向かって左側)ずらす時は、
「もうちょい、八坂さん」
又は、
「もうちょい、祇園さん」
とハンドレシーバーで云う。
都座の前の四条通りを東に進むと八坂神社の西楼門に突き当たる。
平安京時代、八坂神社は祇園社と呼ばれていた。
今でも祇園のお茶屋の女将さんの中には、
「祇園さんにお参りして来る」
と云う人もいる。
京都人で歌舞伎に興味がない人でも、このまねき上げ儀式は知っている。
まねき上げを見ながら、
「まねき、上がりましたなあ」
「そろそろ、師走どすなあ」
等の挨拶を交わす。
関西人は、京の顔見世のまねき上げで師走が迫った事を実感して、奈良東大寺のお水取りの行事で、春が近い事を知るのだ。
同じくまねきあげ前日には、都座前の左右にある大提灯の新調の入れ替えが、照明部の人間によって行われる。
この大提灯は、東京浅草の雷門の大提灯を作った同じ業者による。
十一月二十五日のまねき上げ当日は、数枚のまねき上げを残して行われる。
まねき上げ当日、皆で見に行く事にした。
儀式は、朝九時スタートである。
役者の名前もいいけど、せめてつけ打ちの代表者の名前も掲げられると嬉しい。
だから幾ら人間国宝であっても、国宝さん(清水元助)の名前はない。
これは江戸時代から連綿と続く行事で、戦時中も行われた。
京都は太平洋戦争の戦火に合わなかったので、焼けなかった。
現在の建物は、昭和四年に出来たものを、平成三年、二九年に改修工事したもので、建物の外観や、内装は基本的には変わっていない。
変わったのは、その儀式を行う人間である。
十一月二十五日。朝の九時。
まねき上げが始まる。
「ではまねき板を上げて貰いましょう」
宣伝部の合図で、蹴上のまねき板が挙げられる。
「蹴上のまねきが上がるのは、久し振りやな」
国宝さんが呟いた。
イントレに上がったとび職の人が慎重にまねき板を上げて行く。
三年前まねき板が上がり、出演も決まっていたが、祇園で暴力事件を起こして出れなくなってしまった。
「今度こそ千秋楽までお願いしますよ」
堀川さんが云った。
今年の顔見世では、白梅と共演で新作歌舞伎の双龍寺の芝居に出ている。
続いて塩まきの儀式がある。
まず今出川支配人、衣笠副支配人両者による、劇場正面左右と、中央に設置されたおおまねき看板に塩をまく。
二人ともスーツ姿ではなく、古式ゆかしき、裃装束に身を固めていた。着慣れない装束のせいか、顔も身体もがちがちに固まっていた。
まねき看板と云っても総檜板で出来ている。
その間に女子職員は、見物衆にも塩を配る。
いつのまにか、都座前は、沢山の見物衆で埋め尽くされていた。
「おい、前へ行けよ」
堀川さんが後ろから僕を押した。
「どうして前へ行くんですか」
「若い人は前へ行くの」
何だか分からない周りの台詞に立ち向かう程パワーがなかった。
と云うか、それを圧倒する民衆オーラが完璧に立ち上っていた。
「ああ、あんさんは前へ行かなあきまへんで」
国宝さんも輝美さんも笑いながら云った。
皆が云うので、僕は見物人をかき分けて前へ進んだ。
「では顔見世の成功を祈願して、一、二、の三、塩巻きどうぞ」
司会者の合図で、塩を手に持った見物人が劇場正面に向かって、一斉に投げられた。
一番前にいた僕は、当然の事ながら後方からの投げられた塩で頭から塩まみれになった。
「そう云う事だったんですね」
頭に降り注いだ塩を、頭を振り、手で払いのけながら僕は云った。
「これでしおれると、ナメクジと云われるぞ」
大声で笑いながら堀川さんが云った。
「お塩で清められてよかったじゃない」
「東山君、ちょっとこっち向いて」
「はい」
「塩は払いのけないで」
利恵さんの声に反応して顔を上げたら、スマホで写真を撮られた。
「まさかホームページにアップするんじゃないでしょうねえ」
「します。て云うか、今アップしました」
利恵さんの両手高速打ちで、すぐに塩まみれの僕の顔が全世界に公開された。
歌舞伎公演では、舞台稽古の前に稽古場での本読み、立ち稽古がある。
都座では、稽古場がないので、一階東側ロビーに上敷が敷かれてそこで稽古が行われる。
今回新作歌舞伎「双龍寺」では、演出として北野さんが担当していた。
基本的に歌舞伎に演出家はいない。
その代わりに主役を務める役者が演出をやる。
今回新作とあって北野さんが担当していた。
まねき上げの翌日、ロビーでの稽古が始まった。
晋作とあって通常より二日多くの稽古が行われていた。
稽古場につけを担当する堀川さん、ジェフと僕が顔を出した。
「いよっ、お塩大臣」
北野さんが叫んだ。
「何ですか」
「皆そう云っているよ」
ホームページの影響はすごいと痛感した。
ホームページ最大の強みは、リアルタイムで日本はおろか、世界中の人が記事や写真を見て、都座での出来事を共有出来る事だった。
稽古を後方で見る事にした。
蹴上と白梅さんは仲良く話し込んでいた。
僕らの姿を見ると二人はやって来た。
「おやおや、髪の毛、塩で真っ白じゃないんだ」
僕の髪の毛をいきなり引っ張りながら蹴上は云った。
「染めているんじゃないの」
蹴上の戯言に乗って、白梅さんが近づいて優しく髪の毛に触れた。
僕は、一瞬あのホテルでのデートを思い出した。
「さあ、そろそろ始めましょうか」
北野さんの掛け声で稽古が始まった。
基本的に役者とつけについての打ち合わせはするが、ロビー稽古ではつけを打たない。
前半の山場で、蹴上と白梅さんとの舞踊劇があった。
「ここのつけは、上手下手からつけ打ちが出て来て、同時につけを打つ趣向なんです」
と北野さんが云った。
「じゃあ堀川さんと東山さんでやってよ」
白梅さんが僕を見つめながら云った。
「私はよくてもこいつの謹慎処分が解けていません」
「あらっ、あなたまだ双龍寺でつけ打ちやっているの」
「双龍寺ではつけ打ちの練習もやってますが修行が、主です」
「せっかく双龍寺で修行してるんだから、監修補助か何かの名目で、参加させてあげたら」
蹴上が少しぶっきらぼうに助言した。
「いいですね。一時期同じ釜の飯を食い、双龍寺の縁側で座禅しましたから。
今でもあの早朝のあなたのつけの音色は、あの広大な庭園と共に鮮やかに浮かび上がります」
静かに、そして重厚な声で北野さんは云った。
「早くこっちに戻りなよ」
蹴上さんが、ぽんと力強く僕の肩を叩いた。
「双龍寺」の芝居の二つつけ打ちは、堀川さんとジェフが担当する事になった。
初の外人つけ打ちの誕生でもあった。
これは悔しかった。
手元に詳しい資料がないので断言出来ないけど、おそらく都座の顔見世で二人同時のつけ打ちが行われるのは、今回が初めてだと思う。
その歴史的瞬間に立ち会えなかった自分が、悔しくて仕方なかった。
「人生上手くいかないよなあ」
深夜、双龍寺での寝床で僕は何度もそう呟いた。
初日前日。
都座で「双龍寺」の通し舞台稽古が行われた。
この芝居でのつけは、本来三人で行われる。
最後の打ち上げと云われるつけの連打は、国宝さんが担当していた。
しかし、これは名前だけで実際は堀川さんが担当していた。
上手に堀川さん、下手にジェフが遷座する正座する。
堀川さんは白梅さんを、ジェフは蹴上をそれぞれ担当する。
それぞれの役者のつけを打つ。
本来一人で行っていたのを分業させる形になった。
顔見世初日。
僕は堀川さんの正装である、黒の着流し、たっつけ袴を着込むのを手伝っていた。
「おい俺の事はいいから、お前も着替えて行くぞ」
「どこ行くんですか」
「今日はどう云う日なんだ」
「もちろん都座顔見世初日ですけど」
「だろう。だから役者への挨拶だ」
北野さんの計らいで、番付(筋書)にも、「双龍寺」の芝居に、監修補助の名目で僕の名前があった。
噂ではこの件で、竹松演劇部は最初は難色を示したらしい。
しかし演出家の北野さん、白梅さん、蹴上の二人の歌舞伎役者の強い推挙で実現したのだった。
名目が載ると、それ相当のギャラが発生する。
それに大手を振って毎日都座に行ける。
これが一番嬉しかった。
楽屋口の靴箱にも自分の名前の名びら(名札)が貼られる。
(いいなあ)
名びらのついた靴箱に靴を入れて雪駄に履き替えながらつくづく思った。
本当は、これで自分がつけを打てたら大万歳なのだが。
初日の楽屋はごった返している。
楽屋見舞いのおびただしい数にランの花、その他贈り物の搬入に加えて、顔見世初日とあり、役者の付き人、番頭、支配人、副支配人、竹松東京本社、祇園界隈など多数の関係者の初日挨拶で人が溢れていた。
だから僕らは、楽屋の中は入らず、入り口の暖簾をかき分けて、ひざまづく。
「初日おめでとうございます」
と一言云って退出する。
蹴上、白梅さんの楽屋は特に黒山の人だかりである。
蹴上は拵えの化粧鏡越しに、
「うむ」
と頷くのみ。
ひっきりなしに押し寄せる者に、いちいち愛想をしていては身体が持たない。
白梅さんの楽屋に行った時だった。
「初日おめでとうございます」
僕とジェフを代表する形で、堀川さんが挨拶した。すぐに退出しようとすると、
「東山君」
と呼び止められた。
「一日でも早い復帰を願っています」
思わず涙がこぼれそうになった。
「はい」
と返事するだけが精一杯だった。
「国宝さんの楽屋に行って介護やれ。俺とジェフはまだ幹部役者の楽屋を回るから」
国宝さんの楽屋は「一〇二」の地下の楽屋の一人部屋だった。
本来楽屋への挨拶は、つけ打ちが役者の楽屋へ向かうのが通例である。
しかし、国宝さんの場合は正反対だった。
「初のつけ打ちとしての人間国宝、清水元助」
この看板は、とてつもなく大きかった。
国宝さんの楽屋に駆けつけると、輝美さん、利恵さんの二人がてんてこ舞いだった。
「いいところへ来てくれた。国宝さんのそばにいて」
と利恵さんに云われた。
国宝さんの生活ぶりを一年に渡って追いかける事になった、NHKのカメラクルーがそばでカメラを回している。
このスタッフだけで十人近くいた。
さらにプレス関係者が二十人近くいた。
「初日おめでとうございます」
にこやかに笑みを浮かべて、下鴨文化庁長官がやって来た。
東京から京都御所近くに文化庁の移転地が正式に決まったのが、今年の八月だった。
だから移転地正式決定して、初めての顔見世である。
下鴨長官の周りには、眼光鋭い三人のSPが周囲を威圧させる目つきで警護していた。
「初日祝いのランのお花有難うございます」
顔見世初日は、どこの楽屋も色鮮やかなランの鉢植えの花が、楽屋、そして楽屋に収めきれなかったものが廊下に溢れている。
その多数あるランの中でも、下鴨長官から贈られたランは、白、淡いピンクのひと際目立つものだ。おそらく三十万円近くするに違いない。
「有難うございます」
国宝さんは、車椅子に座ったまま答えた。
「今日はあいにく所用で見られませんが、楽日は必ず見させて貰いますから」
下鴨長官はそう云って、国宝さんと固い握手を交わした。
一斉に待機していたプレス記者のカメラのフラッシュがたかれ、ビデオカメラも回った。
「こりゃあ光の世界だ」
幾分芝居かかった通る声を発しながら蹴上が入って来た。
「私、眩しくて目を開けられません」
蹴上の後ろにいた白梅さんが手で顔を覆いながら後に続いた。
「清水元助さんを真ん中に立っていただけませんか」
NHKのプロデューサーがお願いした。
「ああいいよ」
蹴上が軽く答えた。
当代二大人気歌舞伎役者と下鴨文化庁長官、人間国宝清水師匠の取り合わせは、マスコミにとっては、垂涎の絵図だった。
「すごいわねえ、まさに光の世界ね」
僕の隣にいた輝美さんは呟いた。
「はい、まさに変身するときのウルトラマンの世界です」
二人ともカメラのフラッシュが眩しくて下を向いたまま会話を続けた。
「ウルトラマンなら三分しか持たないわねえ」
「いえいえ、国宝さんなら三分どころか、三十分持ちます」
「もうちょっと持たせてあげてよ」
僕と輝美さんは顔を見合わせて笑った。
「清水さん、あなたのつけの音を待っています」
下鴨長官が云った。
「いい加減、今年中に打たないと人間国宝の称号を取り上げますよ」
自由奔放な蹴上が云った。
途端に周りに詰めかけたマスコミ陣から笑いが起きた。
「確かに。それは審議するに値します」
下鴨長官が蹴上の言葉に同調したので、さらに笑いのさざ波が続いた。
堀川さんとジェフの二人つけ打ちは、夜の部のキリ狂言(最後の演目)「双龍寺」で行われる。
そして最後のつけの打ち上げ、つけ打ちの連打は国宝さんが担当している。
昼の部で、つけを打ち終わった堀川さんは、舞台袖に引き込むと何故かそのまま舞台奥に行ったらしい。
ここから先は、僕の目撃談ではなく関係者の証言を元にした「伝聞」になる。
何故舞台奥に行ったのか。
都座の上手奥に、奈落、つけ打ちの控室に通じる階段がある。
そこへ行きたかったのか。しかしそうではなかった。
堀川さんは舞台奥の丁度セリが下がっている所に向かっていた。
セリの下に落下する事故は、全国で年々増加している。
その対策として長方形のセリのそれぞれの淵に舞台操作盤が立って監視している。
堀川さんはその隙間をぬってセリに落ちた。都座のセリは、一番深いもので五メートルばかりである。
これが江戸歌舞伎座なら十メートルはゆうに越える。
「あっ」
舞台操作盤は、一斉に声を上げたと云う。
堀川さんは、セリの中に落ちた・・・。
すぐに救急車がやって来た。僕が同乗した。
「着いて何かわかったら連絡して」
「わかりました」
落下した時、堀川さんは身体をかばうために右手を床につけてぐねったようだ。
「痛みますか」
救急隊員が手を持った。
「いっ、痛い」
「折れているかもしれませんね。頭を打ちましたか」
「いや、多分大丈夫かと」
東大路病院に着くまでに救急隊員は僕と堀川さんの名前、生年月日、連絡先を聞いた。
「ああ、もうろくしたかな」
ふっと顔に笑みを浮かべて、ぺろっと舌を出して堀川さんは僕の方を見て笑った。
病院で、早速頭に異常がないかCTスキャンが取られた。
結果は異状なしだった。手も骨折してなくて軽い捻挫で済んだ。しかし堀川さんは、
「頭がぼうっとする」
と訴えた。
刻一刻と夜の出番が迫っていた。
竹松演劇部の白川重役も駆け付けた。
「CTスキャンに異常なくても、後日異常が見られる場合があります。今夜は経過入院ですね」
と医者は断言した。
医者と看護婦が病室を出て、僕と堀川さんと白川重役の三人となった。
「白川さん、俺夜の部駄目です。無理です」
「そうみたいだね。だとすると代わりのつけは、誰がやるんだね」
「この馬鹿しか残ってないでしょう」
ゆっくりと僕の顔を指さして云った。
「東山君・・・」
白川重役が堀川さんが指さした方向に視線を移した。
僕と白川さんと目が合った。
「出来るか」
言葉短く白川さんが尋ねた。
突然の問いかけに僕は、言葉を失った。
「馬鹿野郎、緊急事態だ。お前のこころの問いかけは後に回して答えろ」
堀川さんの恫喝に、
「出来ます」
と小さく答えた。
「声が小さいぞ」
「はい出来ます」
今度は病室に響き渡る声で答えた。
そんな理由で、僕は急遽堀川さんの代わりにつけを打つ事になった。
顔見世初日、おそらく都座では、初の上手下手二人の同時つけ打ち、頭の中はめまぐるしく回転を始めた。
稽古からずっとそばで堀川さんのつけを見て来た。
しかし「見る」のと「やる」のとでは、雲泥の差がある。
例えれば車の運転を助手席でじっと見守るのと、実際に運転するのとの違いぐらいだ。
さらに気がかりなのは、実践から遠ざかっている事だった。
幾ら双龍寺でつけを打ったとは云え、そこはお寺の本堂であり劇場ではない。
同じ力でつけを打っても音の広がりと、共鳴音は全然違う。
野外劇場と都座でやるのと全然違うと云う事だった。
例え一日でも間があれば、早朝都座で練習が出来る。
しかしすでに顔見世は始まっている。
いたたまれなくなって僕は、都座の屋上に上がった。
西側にはお社が鎮座していて、初日祝いで幹部役者からのお酒の奉納が置いてある。
僕は屋上のへりまで近づいた。鴨川と四条大橋が見えた。
四条大橋の歩道にある街灯に白いユリカモメが留まり羽を休めていた。
鴨川の川面にも、数羽いた。
京都の冬の風物詩でもある顔見世とユリカモメ。
鴨川を眺めている間にも、時間は流れて夜の部のキリ狂言「双龍寺」の開幕が近づいた。
双龍寺にいる時、あれ程都座でのつけ打ちを待ち望んでいたのに、いざそれに直面して怖気づいてしまう自分がいた。
風が僕を取り囲む。暖冬のせいか寒さは感じなかった。
「こんなところにいてたん」
振り返ると輝美さんがにこやかに微笑んで立っていた。
「怖気づいて蒸発したのかと思って探しに来ました。皆待っているわよ」
「あと数秒輝美さんが来るのが遅かったらそうしようと思っていました」
「嘘ばっかり。本当は嬉しくてしょうがないんでしょう」
「だといいんですけど」
「国宝さんがお呼びよ」
控室で国宝さんは夕食を取っていた。
都座の隣にある松葉のにしんそばを食べていた。
「屋上から見て、ユリカモメはようけいてたか」
僕の顔を見るなり、聞いた。
「どうして屋上にいるのがわかったんですか」
「わしも若い頃都座で考え事したくなると、よう屋上へ行って考え事しとったわあ」
「国宝さんでも、悩める時期があったのよね」
輝美さんは意外そうに云った。
「そらあ若い頃は、誰しも答えのない疑問で悩むもんや」
「例えばどんな悩みがありましたか」
「どうしたら人より上手くつけが打てるかとか」
「それは練習でしょう」
「それがな人より三倍稽古、練習しても一向に上手くならへん時がおましてなあ」
「いわゆるスランプってやつよね」
「どう切り抜けたんですか」
一番聞きたかった事を口にした。
「悩むのをやめた」
「たったそれだけですか」
「そうや。けどそこまで達観できる自分を見つけるまでが苦労したな」
「そんなもんですかねえ」
「お前さん、もう悩むのはやめて腹くくりなはれ。と云うてすぐ出来るわけないか」
国宝さんは再びそばをすすり出した。
予定より昼の部は、初日と云う事もあり、予定よりも終演が大幅に遅れてしまった。
夜の部の開演十五分前に終わった。
昼夜の入れ替えの掃除は、案内さんだけでなく今出川支配人、衣笠副支配人もほうきを持って掃除をした。
一方裏方も大変である。昼の部の大詰めで敷かれていた所作台を片付ける作業がある。
花道に敷かれている所作台を片付けるには、緞帳を飛ばさないといけない。
昼の部のお客様が完全にはけてからでないと緞帳は飛ばないのだ。
掃除開始して五分後には開場して、さらに十分後には夜の部の開演五分前を告げるブザーが場内に鳴り響く。
「ええ、もう幕開けるてせわしないなあ」
観客のぼやきがあちこちで聞こえる。
ぼやきながらも客は、まもなく始まる歌舞伎を心待ちにしていたので、怒りまでは上昇しない。
お手洗いに行く人、案内所で番附(筋書)を買う人、お弁当を買う人、イヤホンガイドを借りる人、西側ロビーの各役者の受付へ行き、番頭さんに挨拶する人、楽屋に向かう人、楽屋から戻って来た人、等、ロビーも大混乱である。
幕を開ける驚異的速さで行われた。
ついに夜の部のキリ狂言(最後の演目)の開幕五分前となった。
僕とジェフはたっつけ袴に着替えて舞台袖に待機していた。
その時、ひょっこりと堀川さんが顔を出した。
「堀川さん」
右手に包帯を巻いていた。
「何だ何だ、お化けか宇宙人に遭遇したかのような顔つきしやがって」
「検査入院で、今夜は病院にいないといけないでしょう」
「お前は病院の看護婦か」
「今は看護婦じゃなくて看護師です」
「俺らの時代は看護婦。白衣の天使」
「じゃあ一刻も早く白衣の天使の所に戻らないと」
「あの病院に白衣の天使がいると思うか」
「じゃあ、何がいるんですか」
「吐気するばばあ看護婦」
「今頃、病院は大騒ぎじゃないですか」
「一応、書置きしておいた」
「何て書いたんですか」
「これ以上私を探さないで下さい」
僕はふっと笑った。
上手袖のエレベーターが開いて、蹴上、白梅さんが出て来た。
「堀川さん大丈夫なの」
「ええまあ、頭に異常はないです」
「それはよかった。皆で心配してたのよ」
白梅は堀川さんにそっと寄り添って手を握った。
「それ以上頭はおかしくならない」
蹴上が太鼓判を押した。
「頼んだわよ」
白梅さんは今度は僕の手をそっと握りしめた。
「よっしゃあ頑張って行こうぜ」
堀川さんは、ぽんと僕とジェフの肩を叩いた。
ジェフが下手袖に向かった。
つけの担当は、僕が白梅さんを、ジェフが蹴上だった。
「双龍寺」では、蹴上が修行僧、白梅さんが町娘、花魁、鬼女へと場面ごとに変わっていく。
修行僧が酒を呑むうちに、異界の世界へと足を運んで行く。
前半は蹴上の酔いの様をユーモラスに描く劇中劇舞踊である。
後半は鬼女に変身した白梅さんと修行僧の蹴上との激しい舞踊劇である。
芝居の形を取っているが、舞踊をふんだんに使っている。
ここで二人の見得の応酬、つけの連打がある。
「二人つけ」で一番苦労するのは、一人つけなら、相手の役者との間合い、だけで済む。それプラス相手のつけ打ちとの間合いを考えないといけない。
ジェフが蹴上のつけを打つ。僕が白梅さんのつけを打つ。
両者が同時に見得を切る時は、つけも同時に入る。
同じ間合いで打たないといけない。
時間差でずらしてのつけも当然ある。
「タン」
まず僕のつけの音が都座に響く。
この時、この瞬間を僕は待ち焦がれていたのだ。
まるで長い間会えなかった恋人同士が、久々の再会を果たしたかのような感じだった。
今、この場で振り向けないが、上手袖で堀川さんは立って聞いているだろう。
楽屋モニターを通して国宝さん、輝美さんも聞いたはずだ。
当然下手袖で正座しているジェフにも届いたはずだ。
一つ無事に打てた事で僕の緊張は、かなり解けた。
見得も顔を三度振るくせも蘇る。
つけは左手で打ち始めて右手で終える。これは鉄則である。
頭であれこれ考えるよりも、身体で覚えて来た感覚が勝っていた。
大詰では、鬼女の白梅さんと修行僧の蹴上とのつけの連打が待っていた。
白梅さんの視線が僕に一瞬突き刺さる。
その視線は、先程の舞台袖で手を握ってくれた柔和なものではなくて、目から血が噴き出さんばかりの鬼女そのものだった。瞬間身震いがした。
修行僧に襲い掛かる鬼女、赤い舌を出して何度も見得を切る。
一方の蹴上も、呪文を唱えて見得を切る。
二人が舞台を回る。花道七・三で見得を切る。
ここから僕とジェフのつけの連打が始まる。
さらにラストで「打ち上げ」と称するつけの連打があった。
「タンタンタン」
本来ならここで国宝さんが出て来るはずだが、出ずに僕が代打の形で打ち続けた。
二人の見得が決まる。僕とジェフとのつけの連打も決まった。
場内から割れんばかりの拍手が鳴り響く。
僕の身体は上気していた。
先程の身震いが嘘のように熱かった。
定式幕が閉まる前に、上手袖に引っ込む。
「おい、初日無事に開いたな」
堀川さんがそう云ってぽんと肩を叩いた。
ジェフが下手から駆け付けて来た。
ジェフが僕と握手した。それから国宝さんの控室に行った。
「今日も打ちませんでしたね」
密着取材するデレクターが聞いた。
「まだ初日でっせ。これからこれから。いつ打つか自分もわからしまへん。
しやから毎日顔見世を見に来ておくれやす」
国宝さんの天然ボケが始まっていた。
「よかった、明日からも頑張りや」
白梅さんの楽屋に行った。
「お疲れ様でした」
「あなた、ブランクあったのによく頑張ったわねえ。はいこれあげる」
「何ですか」
小さな手のひらに乗る箱だった。
「鬼女からの怖い贈り物。今開けちゃあ駄目よ」
暖簾をかき分けて北野さんが入って来た。
「東山さんもいましたか。よかったです。双龍寺での修行が実を結びましたね」
「いえいえこれからです」
「そうだな。初日開いたばかりだな」
僕はつけ打ちとしての技量がこれからなのに、堀川さんと北野さんは顔見世で使ってくれた。
「少し呑みに行かないかい」
二人だけのつもりが、控室でその話をすると
「じゃあ俺も行くか」
堀川さんが勝手に名乗り挙げた。
「でも堀川さんは早く病院に戻らないといけないでしょう」
「俺が行ったら駄目なの」
「いえ大歓迎です」
「じゃあ黙ってろ。ジェフも行くぞ」
「喜んで」
「なあ、こう云う返事が君には出来ないのか」
「はい、喜んで」
「もう遅いよ」
少しはにかんで堀川さんが云った。
北野さんが連れて行ってくれたお店は、川端通りを下がったおでん屋「やすなり」だった。
店の奥の小さな座敷で僕ら四人は、まずビールで乾杯した。
「ああ一日の仕事終えた後のビールはうまい」
堀川さんは一気に飲み干した。
「今日は堀川さんも大変でしたね。大丈夫ですか」
北野さんは、空っぽになった堀川さんのグラスにビールを注ぎながら尋ねた。
「でも何でセリに落ちたんですか。普通、つけ打ちは通らないですよね」
と僕は素朴な疑問を呈した。
「お前も嫌な云い方するなあ。俺が舞台の真ん中を歩いたらいけないのか」
「まあまあ、今夜は目出度い初日祝い。争い事なしです」
と北野さんは取り直してくれた。
ここのおでんは、京風の薄味だった。
でも疲れた身体はには、丁度よかった。
「僕はねえ、双龍寺で毎朝東山君が本堂の縁側でつけを打つ音を聞きながら、思いついたんだ。双龍寺を舞台にした歌舞伎脚本を書こうとね」
北野さんは小説家として有名だった。
色々なしがらみから逃げるために、京都に来たらしい。
「あの双龍寺でのお二人のつけ打ちで確定したんだ。でも堀川さんのつけが聞けなくて残念でした」
「落ちなければこいつのつけはなかった。まあ人生、そううまくいかないよな」
「捻挫でしょう。中日までには治るでしょう」
「さあどうかなあ。年寄りは傷の治りも遅いからな」
堀川さんは包帯に巻かれた右手を見つめていた。
一時間ほど呑んで店を出た。
堀川さんはタクシーで病院に戻った。
ジェフは自転車で、出町柳のアパートに戻った。
僕と北野さんは四条河原町のホテルに向かった。
僕は顔見世期間中は、双龍寺からの通いからホテル住まいが許された。
偶然北野さんとは同じホテルだった。
「きみは、本当のところどう思うんだ」
「やはりまだまだ自分としては未完成であると思います」
「そうじゃなくて堀川さんの転落事故の事」
「事故だと思いますが」
「事故ねえ・・・。まあ君がそう思うんならそれでよしとしよう」
「北野さんは違う意見なんですか」
「きみは、堀川さんにすごく好かれているねえ」
北野さんは僕の質問には答えずに違う角度から話した。
「そうでしたかねえ。いつも毒舌の集中砲火を浴びてますけど」
「まあそれは彼特有の言葉遊びみたいなもんだ」
「そうなんですか」
私から見ると手あかのついた表現で、申し訳ないが(美しい師弟愛)と云うんだろうなあ」
「よして下さいよ、気持ち悪いですから」
僕は、少し大げさに身をよじった。ホテルに戻って僕は思った。
(北野さんは、一体何を云いたかったのだろうか)
堀川さんのセリ事故に何があったと云うのか。
舞台でセリに落ちる事故は、よくある事故のナンバーワンである。
役者、スタッフが事故に遭う。
薄暗い中での移動は危険がつきものである。
特に都座は盆(回り舞台)機構でセリと複雑に絡み合う。
しかし堀川さんの落下は明るい中での転落事故だった。
(事故でないとすると、わざとなのか)
ここで僕は思考をわざと中断した。
明日から十二月。千秋楽までの二六日間を楽しく過ごしたいと思ったからだ。
寝る前に白梅さんから手渡された小箱の中身を開けた。
三匹の猿の小さな彫り物が、三角形に張り付いていた。
小箱の底には小さく折りたたんだ手紙があった。
慎重に広げて読んだ。
「世の中見ザル、聞かザル、云わザル。千秋楽までお互い頑張りましょう」
何とも意味深な言葉だった。
北野さんの予言通り、堀川さんは中日を境に現場に復帰した。
国宝さんの楽屋に僕とジェフと堀川さんが呼ばれた。
「幸い堀川の怪我が順調に回復して今日から復帰する」
国宝さんは、ここで言葉を区切り僕ら三人を順番にゆっくりと凝視した。
「それでや。順番から云うたら東山さんが退くはずやけど、今日から堀川さんと東山さんの二人でやる。ジェフは控えや」
意外な展開に僕は、今まで顔を伏せていたが国宝さんを見た。
「今回の決定は、東山さんの鞄を奪った事に対するペナルティや。わかってくれるな」
「はい」
と云ってジェフは目を伏せた。
堀川さんが復帰しても僕は上手でそのままだった。
上手でつけを打つのは正規の場所で、下手より数段格が上である。
「堀川さん、上手に戻って下さい」
と云っても頑として受け付けてくれなかった。
「どうしてなんですか」
「どうしたもこうしたもないの。俺が決めた事に従え」
さらに反論しようとしたが、白梅さんから貰った三匹の猿が僕の頭の中を力強く行進を始めたので、口をつぐんだ。
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