舞台にいる男 京つけ打ち伝

林 のぶお

第1話 つけ打ちって知ってますか?

「仕事は、つけ打ちやってます」

 と云うと十人中、九人までが、

「そうですか、それは大変ですね」とか「お若いのに、麵作り大変でしょう」とか云われる。

「いえ、麺作りではなくて歌舞伎のつけです」

 慌てて僕は、補足説明に入るが、相手は(つけ打ち)=(麺類の職人)から脱出出来ないでいる。

「ああ、歌舞伎座の食堂の職人さんね」と事態は、いよいよ混迷を深める。

 まだ一度も歌舞伎を見ていない人に(これが意外にも多いのだ)自分の仕事を説明するのは、大変な労力を要する。

「舞台の上手、客席から向かって、右端に座りまして、役者の動きに合わせて、つけ析と云うもので、音を出すんです」

 説明するが、中々反応が薄い場合が多々ある。

「殺陣の立ち回りで、バタバタと音を立てるでしょう」

「そうですか」これで終わりの場合が多い。

 あまり相手が気乗りしないので、僕もこれ以上説明するのをやめてしまう。


 僕は、九四歳のご老人を、兄弟子の堀川さんと二人で両側から抱えながら東京駅のコンコースを歩いていた。

 江戸歌舞伎座での仕事を終えて、京都の本宅へ送る任務だった。

 この老人こそ今日本で唯一のつけ打ちとしての人間国宝の方である。

 名前は、清水元助。九四歳だが、足腰はしっかりしている。

 今でも現役で、東京、名古屋、京都、大阪、博多の大劇場に出ている。

「もう少しゆっくりと」

 じろっと国宝さん(清水師匠のあだ名)は、僕の顔を睨む。

「あんたなあ、つけと一緒やで」

 僕は無言で国宝さんを見た。

「わからんかなあ」

 ここで国宝さんは、大きく息をついた。そして言葉を続けた。

「相手の動きとこころを読む。今あんたは、わしの手を引いてる。わしがどんな思いか、しんどいのか、そしたらもうちょっと遅めに歩こうとか、今日は体調がええなあ。少しいつもより早めに歩こうとか、そう云う相手のこころ空気を読むんや」

「つけ打ちも、役者との間合いが大切と云う事だ。そうでしょう親父さん」

 堀川さんが、僕らの会話に途中で無理やり、割り込んで来た。

「そうや。さすがは堀川や。東山トビオとは違うな」

「こんなヒヨコとは一緒にしないで下さい」

 堀川さんの目は真剣に怒っていた。

「お前は確かに親鳥。その証拠に頭がトサカになってるがな」

 国宝さん一人だけ、けたけた笑い出した。

 東山トビオとは、僕の本名。芸名ではない。

 新幹線に乗り込む前に、僕は三人分の弁当、飲み物、缶ビールを買い込む。

 窓際に堀川さん、真ん中に国宝さん、通路際に僕の席。

「お疲れ様です」

 堀川さんは、一人勝手に缶ビールを飲みだす。

 僕は、国宝さんの弁当の包みを開けてあげた。

「何年や」

「平成二九年です」

「違うがな、東山さん。あんたがうちとこに来て何年や」

 大学を卒業してから三年の歳月が流れていた。

「三年かあ」

 そこでだんまりが入る。

 新幹線が富士山を越えたぐらいで、

「ぼちぼち打ってみるか」

 時間を置いての、会話の続きは、頭がフル回転して気が疲れる。

「本当ですか」

 事のつじつまが解るのに、数秒要した。

「しー声が大きい。これが目を覚ましたら、またうるさいがな」

 国宝さんは涎を垂らして眠りこける堀川さんを見ながら小さく微笑んだ。

 国宝さんの本宅は、京都清水寺の産寧坂の近くにある。

 元々料理旅館だった所で、敷地三百坪、部屋数は十ある。

「お帰りなさい。大変でしたね」

 いつもの、甲高いお手伝いさんの烏丸京子さんの声がドアを開けるなり飛び込んで来た。遅れて妻の清水輝美さんが顔を覗かす。輝美さんはまだ四十四歳。

 国宝さんと輝美さんの年の差は五十歳。

 二人は昨年結婚した。輝美さんは初婚。国宝さんは三回目である。

 荷物を中へ運び入れて、一息つこうとしたら、

「おい、何ぼやっとしてるんだ。練習、練習」

 鶏を小屋に追い込む様に、手でせわしなく僕を追い立てる。

 一階リビングの後ろの勝手口を開けると二十坪くらいの庭がある。

 僕のつけ打ちの練習場がここなのだ。

 かと云って、本物のつけ板、つけ析があるわけでない。

 その代わりに、洗濯板と、紙芝居で使われるおもちゃの析頭が鎮座している。

 僕は、この修行に入るまで、洗濯板を知らなかった。

 洗濯板は、板の中央に凹凸の溝が並んでいる。その溝に洗濯物を擦り付けて洗うらしい。もちろん、僕は一度もやった事はない。

「変わったつけ板してますねえ」

 と云って堀川さんにどやされ、国宝さんに大笑いされた。

「そうかあ、今の若い人は洗濯板知らんのかあ」

 感慨深そうに国宝さんが呟いた。

 堀川さんから説明を受けても、洗濯と目の前の「板」がどうしても結びつかない。

「いつものようにやってみろよ」

 堀川さんが催促する。

「あのうちょっといいですか」

 叩こうとした僕は、析を持つ手を上げた状態からゆっくりと降ろした。

「何だよ、早くしろよ」

「本物で打たして下さい」

 意を決して僕は答えた。

 堀川さんは一瞬固まり、次に大笑いした。

「偉くなったねえ東山さん」

 堀川さんが初めて、僕の事をさんづけで呼んでくれた瞬間だった。

「有難うございます」 

 額面通り受け取り、率直に感謝のこころを述べたのがいけなかった。

「あんた、いつのまにそんなに偉くなったの。へえええ、すごいねえ。まるで近日本当に舞台で、析を打つ心構えじゃん」

「はあ、いやそのう」

 国宝さんとの約束を、ここで云うべきかどうか一瞬悩んだ。

 ぐいっと堀川さんは、顔を僕の耳元に近づけると、こう囁いた。

「あまりでしゃばるなよ。これ以上でしゃばると、本当にぶちのめすからな」

 いつのまに用意したのか堀川さんは思いっきり僕の耳元で析頭を打ち鳴らした。

「ギャー!」

 僕の断末魔の絶叫が、清水寺界隈にこだました。

 僕達「つけ打ち」グループは、全部で十人いる。

 江戸歌舞伎座は、劇場付きの大道具がやっている。

 歌舞伎役者が、個別につけ打ちを指名した時は江戸歌舞伎座に出向く事もある。

 基本的には東京国立劇場、有楽町演舞場、名古屋味噌座、京都都座、大阪道頓堀座、福岡座で歌舞伎が行われた時に出向く。

 これに巡業が入って来る。だから十名では少ないのだ。

 僕の今の仕事は、国宝さんの邸宅に出向いての雑用が主だった。

 まだ本舞台でのつけ打ちの仕事はやっていない。正確にはやらして貰わないでいる。

 翌日堀川さんは、都座での一か月公演のために出かけようとしていた。

「私は、どちらに行けばいいでしょうか。東京ですか、大阪ですか」

「何の事や。早よ堀川のあとついて行き」

 昨日の新幹線での会話をすっかり忘れている言動だった。

 僕は輝美さんにだけ愚痴った。

「ごめんなさいね。この頃時折ボケが入るみたいなのよ」

 輝美さんは、顔の前で手を合わせて僕を拝んでくれた。

 京都都座は、鴨川べりに建つ日本最古の芝居小屋である。

 建物自体は、昭和四年に完成したものを平成三年、二九年の二回大改装された。

 江戸歌舞伎座は毎月歌舞伎が行われているが、都座は多くて年に四回ぐらいだ。

 特に十二月の「顔見世興行」が有名である。

 この三月の歌舞伎公演は、若手歌舞伎役者も出演する。

 今日は、ロビー稽古だった。

「附け立ち」と云って振付入れての稽古で、明日の舞台稽古に備えての稽古だ。

 通常歌舞伎は、本読みから舞台稽古までわずか五日ぐらいで完成させる。

 演出家はいない。各々の主役を演じる役者が、演出を兼ねていた。

 稽古場の端に座る。つけは打たない。

「何だかお前浮ついているな」

 僕の横顔をじっと見ながら早速堀川さんが絡んで来る。

「そうですか」

「さっき、小さな声で鳴り物の音楽、鼻歌してただろう。彼女でも出来たのか」

「いいえ、とんでもない」

「色気よりも仕事だ。でも彼女出来たら紹介しろよ」

 僕らの会話の声が大きい過ぎたのか、いつのまにか僕らの後ろにいた頭取が仁王立ちで、

「うるさい」

 と叫んだ。

「頭取の声の方がうるさいんだよ」

 負けじと堀川さんが云い返した。

 興行界の(頭取)とは、一口に云うと役者行政を行う人である。

 毎日楽屋口の頭取部屋に居座り、役者が劇場入りするのを見守っている。

 頭取部屋の前には着到版が置かれている。

 着到版とは、板に、墨文字で出演する役者の名前が書かれてある。

 各々の役者の名前の上には、小さな穴が開いている。

 楽屋入りした役者は、着到棒と云う長さ三センチぐらいの棒を突き刺す。

 云わば、役者の出勤簿である。

 帰る時は、着到棒を外すのだ。

 これは、竹松系の劇場だけの風習で、西宝の劇場にはない。

 たまに、西宝所属の役者が、竹松系の劇場に出ると物珍しくこの着到版を眺め、

「これ、面白いねえ」

 と云う。

 西宝系列の劇場は、プラスチックの札を返すのが主流である。

「堀川さんに面会だよ」

「今立て込んでいるからと云っといてくれよ」

「若い女性だけど」

「今行きまーす」

 すくっと素早く立つ堀川さん。僕も後ろをついて行く。 

「何でついて来るのよ」

 顔だけ振り返り、口をとんがらす。

「国宝さんから、堀川さんの後ろに控えていろと云われてますので」

 楽屋口の前で一人の見知らぬ若い女性が立っていた。

「つけ打ちさんですね」

 たっつけ袴に黒足袋雪駄姿の僕らの姿を見つけると彼女の顔に笑みが浮かんだ。

「常盤利恵と云います。つけ打ちのホームページ見て来ました。

 私つけ打ち志願したいんです。つけ打ちになりたいんです」

「パソコン、ネット関係はお前の担当だろう。お前相手しろ。人募集するのに男子募集ってどうして書かなかったの」

 僕の完全な思い込みだった。

 てっきり歌舞伎のつけ打ちだから、当然男子だけ応募して来ると思った。

「あのう、つけ打ちは、男子限定なんです」

「どうして女子は駄目なんですか」

「理屈はないのよお嬢さん。歌舞伎は男子のみ。つけ打ちも男子のみ。そう云う世界なの」

 頭取が、こちらにやって来て説明してくれた。

「じゃあつけ打ちの付き人やらせて下さい」

「付き人?」

 僕と堀川さんは顔を見合わせた。

「そんな職種をも募集しているのかい」

 疑心の顔色を頭取が浮かべた。

 都座の東隣は、(満月庵)と云う和菓子屋がある。

 その奥に、蔵を改造した茶室がある。

 天井の高さは、ゆうに四メートルはある。

 中央に長方形の机があり、一度に十人は座れる。

 掘りごたつ式なので、足も楽だ。

 楽屋口での立ち話も、他の人の邪魔になるので、僕は常盤利恵さんを案内した。

「残念ながら、そう云う世界なんです。お引き取り願います」

「私、歌舞伎協会へ時期談判します」

「ええ、それは個人の自由ですからどうぞ。でも無理ですよ」

「私、つけ打ちが大好きなんです。もっと世間の皆様につけ打ちのよさを広めたいです。ついては、つけ打ちのホームページやらせて下さい」


 翌日は舞台稽古。

 僕は、輝美さんと二人で国宝さんを車に乗せた。

 普通なら大人の足で、十分もあれば行ける距離だが、さすがに九四歳の高齢者を急な下り坂を歩かすわけにはいかない。国宝さんは車に乗るのを嫌がる。

「私や、東山君にどこまで迷惑を掛ける気なの」

 ぴしゃりと輝美さんが云うと、幼子の様に急に率直になった。

 都座の楽屋は、車椅子のまま中へ入れるように、昨年改修された。

 国宝さんは、出来るだけ歩くようにしていた。

 今日は、ファンが入り待ちしていたので素早く中へ入るため車椅子を使用した。

 昨年、つけ打ち初の人間国宝になってからは、ファンが急増した。

 ファンの中に、常盤さんの姿を見つけた。

「清水さーん、キャー可愛い」

 云っておきますが、今回国宝さんもつけ打ちの欄に名前を連ねていたが、表向きであって、実際は堀川さんと、東京から来た丸太さんの二人が担当している。

 つまり、こう云うからくりだ。

 国宝さんが上手舞台端に陣取る。

 その後ろに黒子に扮した堀川さんと丸太さんが控える。

 芝居が始まりつけを打つ場面が来る。

 国宝さんの手は動くが実際に動かしているのは堀川さん、丸太さんだった。

 本当に国宝さんの手が動くのは、年に一回か二回である。

 ネット上では、国宝さんのつけ打ちの画像が毎日アップされていた。

 個人が立ち上げた、国宝さんに関するブログ、フェイスブック、インスタは、世界で一億を越えていた。

 いつしかネット上では、

「国宝さんのつけを聞いたら幸運が訪れる」

「無病息災」

「ガンが治った」

「一億円の宝くじが当たった」

「結婚相手が見つかった」

 等様々な発言、つぶやきが世界を駆け巡る。

 特に結婚相手が見つかった、今まで見向きもされなかった片思いの人から、結婚をプロポーズされた等の声が日増しに拡大すると、女性ファンが急増した。

 この人気に歌舞伎興行を一手に引き受ける、竹松は急遽、国宝さんのつけの音が入ったCDを発売。これが一千万枚売れる大ヒットとなった。

 でも冷静に考えれば、このつけ音が、国宝さんであると云う確証はどこにもない。

 一応ジャケットの裏側に、これは本物の国宝さんのつけ音と但し書きがある。

 しかし誰一人、それを検証した者はいない。

 これがまた、不思議な興行の世界でもあった。

 本番公演中のビデオ撮影は禁止されているのにもかかわらず、ユーチューブで検索すれば何万もの舞台で鎮座する姿がアップされている。

 しかし、残念な事に、本当につけを打つ姿は、誰もアップしていなかった。

 国宝さんの楽屋は一〇四号室である。

 ここなら、エレベーターに乗らず、楽屋口からそのまま車椅子で行ける。

 僕と輝美さんは、手際よく楽屋の設営に取り掛かる。

 一か月公演で過ごす楽屋には、大小様々な物が運び込まれる。

 冷蔵庫、テレビはもちろんの事、テーブル、椅子、ソファ、三月と云えども京都はまだまだ寒いからセラミックファンヒーター、加湿器、電気マット、ポット、毛布

 枕、布団、新聞、本棚、本、スタンド、机など。

 ほぼ出来上がった所で二人で国宝さんを舞台へ誘導する。

 女形歌舞伎役者、白梅泰蔵の芝居の稽古である。

 国宝さんが上手の舞台袖に顔を見せると、役者、裏方、劇場関係者が挨拶に顔を揃える。

「お早うございます」

 先陣を切って白梅さんが大きな声で挨拶した。

「うんうん。はいお早う。頑張ってね」

 国宝さんは、にこやかに微笑んだ。

 国宝さんの介護のお陰で、歌舞伎界の様々な重鎮の顔ぶれを知る事となった。

 稽古が始まる。

 出し物は、白梅一八番の狂言(演目)の一つでもある「出世魚酔酒」である。

 漁師の親分が、大詰で酒に酔いながら釣りに興じる場面が一番の見せ場である。

 豪快なつけと、繊細で小刻みなつけが交互に絡み合う、人気狂言だった。

 今回のつけは堀川さんだった。

 舞台上手袖で、僕は国宝さんの後ろで見守った。

 この狂言は、メリハリの利いたつけが、芝居の出来を左右するものだった。

 劇中、漁師が鯛を三匹同時に釣り上げて、小躍りして俗に云う「鯛踊り」を披露するのが、最大の見せ場でもある。

 ここは上方役者と、江戸役者では、微妙にやり方が異なる。

 江戸式では、舞台、花道を思う存分使って派手に激しく動き回る。

 一方上方式では、喜びのこころの内面をはんなりと情緒豊かに、身体で表現する。

 白梅さんは、東京の役者なので、当然江戸式で演じる。

 喜びの場面での豪快なつけのはずが・・・・。

「駄目駄目、堀川さん」

 演技を中断して、白梅さんが叫び舞台の上手端にいる堀川さんに詰め寄った。

「どうしたの、もっと力強くやってよ」

「すみませんでした」

 堀川さんは、視線を合わさず俯いたまま小さな声で答えた。

「もう一度踊り出すところから」

 白梅さんは、つけが入る直前から稽古をやり直した。

 鳴り物と、つけ音、白梅さんのユーモラスでいて豪壮な踊りの三つが掛け合わさって舞台の相乗効果が生まれる。

 つけが入る。堀川さんは必死でつけを打っているが、その音はどこか散逸で、気が抜けた酒の様に、こころの隙間にだらりとだらしなく、滴り落ちた。

「おい、堀川!いい加減にしろ」

 白梅さんが恫喝した。

「あきまへんなあ」

 国宝さんが呟いた。

 舞台稽古が終わると、僕と堀川さん、輝美さん、国宝さんでタクシーで清水の本宅に戻る。輝美さんは、お手伝いの京子さんに、

「旦那をお願いします」

 と云って、乗って来たタクシーで、祇園に戻った。

 車中で、三人は一言も話さなかった。重苦しい嫌な空気に耐えかねて、

「あのう、僕、帰りましょうか」

 恐る恐る声掛けした。

 しかし二人とも押し黙ったままだった。

 さらに無言の重圧が僕の身体を、こころをじわじわと包み込んだ。

 タクシーが止まったのは、祇園花見小路から一つ東側の辻だった。

 輝美さんと堀川さんは、無言でずんずんと大股で歩く。一軒の民家に着く。

 輝美さんは、呼び鈴も押さず、格子戸を少々荒っぽく開けてさらに歩を進める。

 S字型の小径の両側には、苔と低木が茂る。母屋の玄関の戸を開ける。

「お母はん」

 少々間延びした声が輝美さんの口から洩れた。

 すぐに薄緑の春の色の着物に、柔らかな鼻孔をくすぐるお香を身に着けた女将さんが顔を覗かせた。

「えらい早よ着きましたな」

「小さな桶に、ぎっしり氷入れて持って来て」

 輝美さんは、勝手知ったる我が家の様にさらに進み、一番奥の部屋に入る。

「早よ入って」

 もじもじする僕にけしかけた。襖を閉めて座るやいなや、

「何で黙ってたん」

 いきなり、大声で輝美さんは叫んだ。

「えっ黙ってたと云われましても」

 言葉に詰まりながら返事すると、

「東山くんと違う。堀川さんや」

 輝美さんは、顎で堀川さんの方をしゃくって見せた。

「すみませんでした」

 ぺこりと堀川さんは頭を下げた。

「謝るのはあと。早よ出し」

「出すんですか」

「つべこべ云わんと、早よ出して」

 二人の会話はまるで万引き犯と刑事の会話だ。

 一体何を出せと云っているのか、僕には全く見当がつかなかった。

 僕は交互に輝美さんと堀川さんを見る。堀川さんはゆっくりと両手を差し出す。

 両手は紫色に腫れあがっていた。

「何でここまで黙ってたん。阿保、ほんまにあんたは阿保やなあ」

 輝美さんは、腫れあがった堀川さんの手を優しく包み込む様に持ち上げた。

「お邪魔します」

 女将が自ら小さな桶にぎっしりと氷を詰め込んで持って来た。

「おそらく、これも必要かと思いまして」

 女将は普通の木桶を見せた。

「堀川さん、早よつけて」

 輝美さんは、腫れあがった手に容赦なく氷を突っ込んだ。

 堀川さんは、低く唸り、顔を歪ませた。

「お兄さん大丈夫どすか。紫色に腫れあがって。どないしはったんどすか。暴漢に襲われたんどすか」

「そうだよ、歌舞伎界の暴漢に襲われた」

 幾分か芝居かかった台詞を堀川さんは、発した。

「余計なしょうもない事云わんでよろしい」

 輝美さんが釘を刺した。

「こんな状態なら満足なつけを打てません。どうして今まで黙っていたんですか」

「うるせえ、ひよっこは黙ってろ」

「うるさい事ないです。東山くんの云う事は正論です。中途半端な治療は、後々手首に重大な影響を与えます」

「すみません」

「謝ってばっかし。本心は云わない。堀川さんの悪い癖どす」

「白梅さんに事の真相伝えます」

「この手首ではまともなつけの音、出ないに決まってます」

「あのなあ東山よ、よく聞け。俺達つけ打ちは役者と同じで、一旦舞台に出たらどんな理由があるにせよ最高のつけの音を出すのがプロの仕事なんだ。わかったか」

「私にはわかりません。その最高のつけをやるには、日頃のケアも大切でしょう」

 今度は輝美さんが吠えた。

 後日、ここが料亭「御池」と云って祇園では最高のクラスの料理屋だと知った。

「こんな状態で一か月公演無理でしょう」

「あいにく、東西の小屋で歌舞伎が行われていて、代わりの人間がいないんだ」

「いるでしょう、目の前に」

 輝美さんの言葉に、反応して堀川さんは僕の顔を見た。

「冗談じゃねえよ。こいつに俺の代役が務まるわけがねえでしょう」

「務まるかどうか、やらせてみないとわからないでしょう」

「それは俺が決める事じゃないんで。まずは白梅のお嬢にお伺いたてないと」

「とにかく、今日の一件国宝さんに云っておくから」

 翌日、国宝・白梅巨頭会談で、まず堀川さんをつけから外す事が決まった。

 そして僕の技量を見るために、他の狂言の稽古の後、つけがある部分だけの稽古、いわゆる「抜き稽古」が行われた。

 歌舞伎の台本には、つけが入る印はない。

 古典物だと今では、DVDを見て大体のきっかけがわかる。

 しかし、歌舞伎は演じる役者や、上方式、江戸式などで微妙に変わって来る。

 その都度、役者との打ち合わせ、駄目出しで決まる。

 堀川さんが後ろに立ち、きっかけをくれた。

 国宝さんは、客席の一番前でじっと見守っていた。

 本来ならば、鳴り物の生演奏に合わせるが抜き稽古まで付き合わせるのは忍びない

 白梅さんの決断で、テープ演奏となった。

 稽古のかかり(始まり)が、午後十時を回っていた。

 揚幕係がチャリンと音を立てて、揚幕を威勢よく一気に開く。

 花道から白梅さんが駈けて来る。

 僕は、白梅さんの足元を見ながら慎重につけを打つ。

「もっと早く」

「もっと軽快に」

「もっとテンポよく」

「キレ出せよ」

 背後から堀川さんの細かい駄目出しの声が突き刺さる。

 僕は堀川さんの声を聞き分ける程の余裕はなかった。

 目の前のつけ板、今両手に持つつけ析、白梅さんの手足、身振りを見るのに必死だった。

 僕が打つつけの音が、関係者数人だけのがらんとした客席に鳴り響く。

 都座は、舞台の上に破風と呼ばれる、優雅な曲線を描く屋根が突き出ている。

 これは、能舞台の名残りでもある。

 これがある事によって、つけ音が響き、広がるのである。

 難しいのは、見栄を切る時のタイミングだった。

 ほんの一秒、いやもっと短い時間だ。そのずれで変わる。

 つけを打ち降ろす時間、役者の呼吸、これも重要だ。

 以前堀川さんは、

「叩く音よりも、間、まが大切なんだよ」

 と云っていたのが一瞬脳裡をかすめた。

 稽古が終わり、舞台の白梅さんに僕と堀川さんが近づく。

「お嬢、とんだ粗相、お見苦しいところを見せてすみません。やはりこいつでは駄目です。御覧の通り、手首の腫れも引きましたので、明日の初日から、私が予定通り務めます」

 いつになく饒舌に堀川さんが一気に喋った。

 輝美さんに付き添われて、遅れて国宝さんも来た。

 見ると騒ぎを聞きつけて東京本社演劇担当重役の白川さんもやって来た。

 白梅さんは、ちらっと堀川さんの手首を一瞥した後、

「明日からお願いよ」

 その台詞は堀川さんに云っていると思った僕は下を向いたままだった。

「これ、東山返事せんかい」

 国宝さんの声に、僕は慌てて顔を上げて、幾分戸惑いながら、

「はい、お願いします」

 と小さく呟いた。

「これでいいよね」

 白梅さんは、白川重役、国宝さん、輝美さんを見据えて云った。一同は頷いた。


(つけ打ちニュース)

「ついにつけ打ちグループ最後の秘密兵器姿を現す!」

「東山トビオつけ打ちやっとデビュー」

 これらの見出しは新聞でも、テレビでもない。

 つけ打ち志願でやって来た常盤利恵が発信しているブログ、フェイスブック、つけ打ちホームページでもあった。

 昨日は国宝さんを家まで見送ってそのまま泊まった。

 堀川さんも泊まったが、ショックが大きいのか誰とも口を聞かなかった。

 自分のポジションをたった三年しかしていない若造に盗られたのである。

「東山君は何も悪い事してないんだから。ビックチャンスを生かさないと駄目」

 輝美さんが慰めてくれたのが、唯一の励ましだった。

 いつものように、国宝さんを車で送ろうとした。

「俺、ちょっと用事があるんで歩いて行くよ」

 と堀川さんは車に乗らなかった。

 劇場の初日は慌ただしい。

 自分のつけを打たせて貰う役者の楽屋に挨拶に伺う。

 エレベーターの中で、丸太さんと会った。

「お早うございます」

 しかし丸太さんは、いつものようにむすっと黙ったままである。

 出会って最初の頃、挨拶しても返事がないので、聞こえていないのかと思って、さらに大きな声で挨拶すると、

「挨拶は一回でよろしい」

 むすっとした声で云われた。

(何だ、聞こえているじゃないか)と思った。

 白梅さんの楽屋は、大勢の劇場関係者でごった返していた。

 廊下で待っていると、今出川都座支配人が挨拶を済ませて出て来た。

「初日おめでとうございます」

「有難うございます」

 いきなり丸太さんが大きな声で今出川支配人に向かって深々とお辞儀をした。

(何だ、大きな声が出るではないか)

 白川重役もいた。

「東山さん、頼みましたよ」

 白梅さんは、すでに「拵え(こしらえ)」に入っていた。

 拵えとは芝居の化粧や衣装の準備をする事である。

「初日おめでとうございます」

「おめでとう」

 白梅さんは、化粧前の鏡に映る僕らを見ながら化粧を始めていた。

 部屋を出ようとすると、白梅さんはくるっと向き直って、

「堀川さんどうしてる」

 と聞いて来た。

「はい、今日は初日なので劇場入りしてます」

「そう元気なのね。東山君ちょっと」

 白梅さんが手招きした。丸太さんは出て行こうとした。

「あなたにこれあげる」

 化粧前の引き出しから小さな包みを出して渡した。

「これは何ですか」

「今ここで開けないで」

「はいわかりました」

 振り返ると、丸太さんが暖簾越しに今までの僕と白梅さんとのやり取りを盗み聞きしていたらしく、慌てて出て行った。

 つけ打ちの楽屋に戻ると一同が待ち構えていた。

 その表情は、獲物を狙う鷹の如く、各自爪をといでいた。

「何貰ったのよ」

 皆の思いを代表して輝美さんが聞いた。

「まだ開けてないです」

「出世しましたねえ東山さん。初日いきなり白梅さんからプレゼントですか」

「本当に。昔なら考えられない」

 ぽつりと丸太さんが呟く。

 薄い和紙を広げると、桜模様の便せんの手紙が入っていた。

「恋文かあ」

 堀川さんがぐいっと顔を覗き込ませた。

「初日お願いします。午後七時。都蹴上ホテルロビーで」

「おいおい、まだつけ打つ前からお誘いかい」

「東山君、やるじゃない」

 輝美さんは笑いながら、ぽんと僕の肩を叩いた。

「どうしたらいいでしょうか」

「どうしたこうしたもないでしょう。行くしかないでしょう」

「何事も勉強。白梅さんのお誘いなら行くべきや。行きなさい。これは命令や」

 国宝さんが真顔で答えた。

「わかりました」

「事前に白梅さんから打診あってな。即オーケーの返事しといた」

 今度は幾分にやつきながら国宝さんが言葉を追加した。

「やるねえ、いよっ女たらし」

「白梅さんは五十歳の中年男です」

「馬鹿野郎、あの人は気持ち、こころは女だよ」

 堀川さんは、右手で僕の胸を叩いて云った。

「そうよ東山君、今世紀最大の女形捕まえといて中年男のフレーズはご法度です」

「やるねえスケコマシ」

 普段むっつりの丸太さんまで調子に乗っていた。

 二丁の析頭とブザーが楽屋モニターから響いて来る。

 二丁とは開演十五分前の事である。

 狂言方(舞台監督)が析頭を二つ打つのである。

 僕はたっつけ袴に着替えて舞台へ向かう。

 堀川さんは、僕の事心配して、上手の舞台袖までついて来た。

「全てのキュー出しは、俺が出すから心配するな」

「大丈夫ですよ、子供じゃないんだから」

 やがて回りのブザーが鳴る。

 回りとは開演五分前の事で、ブザーと析頭の音が三度鳴る。

 上手袖のエレベーターから白梅さんが出て来た。

 白粉、朱色の口紅、華やかな衣装に身を包んだ白梅さんはどこから見ても女そのものだった。白梅さんは、僕に近づくと、

「待っているわよ」

 と僕の耳元で囁いた。

 析頭が鳴り響き、定式幕がゆっくりと、下手から上手に向かって開いた。

 最初の出番は約十五分後である。

 つけ打ちは、開いてからずっと舞台端にいるのではない。

 よきタイミングで出て行くのである。

 つけ板はあらかじめ置いておく。

「緊張のあまり、客席に落ちるなよ。落ちるって初日から縁起悪いからな」

 相変わらず毒舌絶好調である。

「落ちません」

 後ろで狂言方が肩を震わせて笑っている。

 やがて花道出となる。万雷の拍手とそして僕のつけの音が観客を歌舞伎の世界へと誘う。

「富士屋!」

 早速大向こうがかかる。

 大向こうとは、三階客席の一番奥から、掛け声をかける集団である。

 元々、客がかけていたが、戦後一時期歌舞伎が衰退した事があった。

 それに伴い、掛け声をかける客が減少した。

 歌舞伎芝居を盛り上げるために、作られた集団で、東京、名古屋、京都、大阪を始め各劇場に存在する。

 大阪と京都は、「上方析の音(ね)」が、取り仕切っている。

「富士屋」とは、白梅さんの屋号である。

 歌舞伎役者には、それぞれ、屋号を持っている。大向こうは原則、屋号の名前をかけるのである。

 しかし白梅さんの場合、当代きっての絶世の美しい女形役者とあり、もう一つの特別の大向こうが存在する。それは、

「何て美しいんでしょう!」

 ここで客席がどっと沸く。

 しかし、白梅さんはこの特別の大向こうを嫌っていた。

「だって私が一番美しいだなんて、そんなおこがましい事いやなの」

 白梅さんが舞台中央で見得を切る。

「よし今だ」

 小さな声で堀川さんがキュー出しした。

 その合図を待つでなく、僕はつけ析を打ち降ろす。

「タンタンタン」

 僕が都座でやった初の見得のつけだ。

 堀川さんが大きく息を吐きながら、

「その調子」

 小さく呟く。

 ひとまず僕は、袖の中へ引っ込む。

「まずまず。可もなく不可もなく」

「はい」

 堀川さんの感想を舞台袖で聞ける余裕が僕にも生まれた。

 次まで二十分近くある。

 慣れて来ると控室まで戻るが、「出とちり」を恐れてそのまま舞台袖に待機した。

「出とちり」とは出番を間違える事で、主に役者が舞台に出る事をさす。

 昔は役者が「出とちり」すると、舞台に出ている全ての役者、裏方全員に、「とちりそば」なるものを振舞ったそうだ。

 昨今はそばの代わりに、弁当を振舞う事があった。

「次の二つ目は、稽古の時より今日はあと一秒待って打った方がいいな」

 堀川さんがアドバイスした。

「どうして、今日は一秒遅いとわかるんですか」

「俺の勘。まあいいから云われた通りしろ」

「はい、わかりました」

 やがて、二回目の僕の出番となる。再び僕は舞台袖から上手端のつけ板の前に正座する。

 白梅さんは一つ目の僕の析頭できりっと正面を向いて見得を切る。

 二つ目は、顔をぶるっと振ってまた見得を切る。

 堀川さんの忠告通り、一秒遅めにつけを打つ。

 ばっちり白梅さんの所作と僕のつけ音が一体化した。

 大きな拍手が起きる。つけ打ちとして最高の瞬間、快感が身体を突き抜ける。

 花道の七・三で見得を切り、その後花道を駈けて行く。

 花道七・三とは、舞台のつけ祭から三分、揚幕から七分の位置で、役者は大抵ここで立ち止まるのである。

「よし行け」

 今度は少し余裕が出て来たのだろうか。ちらっと客席を見た。

 何と最前列に利恵がいた。膝の上に小さなボードを立てていた。

 それには、「東山トビオファイト」と書かれてあった。

 正座して次のつけ打ちまで待つ。利恵は笑いながらボードを揺らす。

 あまりにも激しく揺らすから、後ろにいた案内係が注意をしに来た。

 とその時だった。一匹の蠅が僕の視界を横切った。

 やがてつけの出番である。

 つけを打とうと、つけ析を振り下ろそうとすると蠅が再び横切る。

 思わずつけ析を持ったまま蠅を追い払った。

 はっとしてすぐにつけを打つが完全に出遅れて白梅さんの見得とつけ打ち音がずれた。もう後はぐだぐだだった。

 花道を駈ける音も、後で堀川さんに云われたが、

「お前のこころの中を現していたよ。早く終われと。気ぜわしい事この上なし」

 全てのつけが終わるまで、堀川さんさんは何も云わなかった。

 幕が引かれると堀川さんが、

「おい行くぞ」

 と叫ぶ。

「どこへ行くんですか」

「決まっているだろう、お嬢の楽屋だよ」

 楽屋の畳の部屋には上がらず、下ばきを脱ぐ所で、僕らは土下座した。

 白梅さんは次の拵えに忙しいのか、

「気をつけてね」

 とだけ鏡に映る僕を見つめながら云った。

 楽屋を出てから、

「これで、白梅お嬢とのデートはおじゃんだな」

 ひとしきりにやつきながら、堀川さんが云った。

「そんなもんですかね。さっき何も云わなかったですよ。中止なら云うでしょう」

「お前、女心が全然わかってないみたいだな」

「どう云う事ですか」

「待たせて待たせて、男心をもてあそぶ」

「陰険ですねえ」

「それが、恋と云うもんだろう」

「あのう先ほども云いましたけど、相手は五十男です」

「あのう東山さん、先程も云いましたけど相手は女と見て貰わないと駄目です」

 歌舞伎役者は、自分の出番が終わればすぐに楽屋を出る。商業演劇だと、カーテンコールがあるから、最後まで残っていないと駄目だが、歌舞伎にはそれがない。

 白梅さんは、最後の演目は出ていないので六時には都座を出た。

 僕もそれぐらいに出ようとした。

「おい、パンツ履き替えたか」

 また堀川さんが笑いながら云う。

「少々痛くても我慢しろよ。何しろ俺達つけ打ちグループの浮沈がかかっている」

「ふるちんで浮沈」

 丸太さんが真顔で呟くと、居合わせた一同が大笑いした。

「もう皆からかって。東山君我慢しなくてもいいから。逃げてもいいのよ」

 そう云う輝美さんも笑っている。

「おい云っておくが食い逃げは駄目だぞ。それとパンツはやはり新しいのにしろ」

「履き替えのパンツなんか持ってないです」

「コンビニにパンツ売ってる」

 丸太さんの呟きに一同は再び大笑いの大波を作った。

 白梅さんが宿泊する蹴上けあげホテルは、地下鉄東西線「蹴上」駅の前にある。都座からは、京阪祇園四条から、三条まで出てそこで乗り換える。

 ここは、明治に建てられた由緒ある老舗のホテルだ。

 約束の七時より十五分前に着いた。

 ロビーのソファに座り弟子、付き人と談笑していた白梅さんは僕の姿を見つけて

「こっち、こっち」

 と手招きした。

 白梅さんは、目で合図すると取り巻きは散って行く。

「お話は食べながらしましょう」

 すたすたと、日本料理の店の中に入って行く。

 すでにコース料理が決められているようだった。

「まずはビールで乾杯ね」

 僕が白梅さんのコップにビールを注ぐ。

「今月の舞台が千秋楽まで無事にお互いに勤められるように、それから東山君のつけ打ちデビューを祝して乾杯」

 白梅さんは、一口口をつけたあとはワインにしていた。

「今日は、すみませんでした」

「最初はうまくいったじゃないの。一体何があったの」

「実は、蠅が僕の前を通り過ぎまして」

「蠅?やっぱり出たの?」

「やっぱりってどう云う事ですか」

 白梅さんは、ゆっくりと時間をかけて話してくれた。

「先代の白梅。私の父。と云っても本当の父親じゃないわよ。

 知っていると思うけど、私は中学生の時に、白梅の芸養子になったの。亡くなる時に枕元に私を呼んで云ったの。

 俺はお前の舞台を見続けてやる。死んでも見るからな。例え蠅になってでも劇場に出てやるからなって」

「へえそうでしたか」

「だからね、今度出たらつけ析や雪駄で叩いて殺すのだけはやめてね」

「はい、わかりました」

 じっと僕の顔を見つめてから、

「可愛い。その愚直な所がいいわねえ」

「毎回出る訳じゃないの。大事な芝居の時に出るの。だから先代もよっぽど東山君の事が気になって、見守ってやりたかった事ね」

「でもその蠅さん、見守るわりには結果的には僕のつけを邪魔したわけでしょう」

「それはねえ、先代はちょっと茶目っ気ある人で、悪戯心起こしたのよ。あなた、節穴竹の棒事件って知ってる?」

「いえ知りません。教えて下さい」

「大阪道頓堀座に出てる時だった。あそこの舞台は、昔大きな節穴が所々開いていたの。先代が舞台の下、奈落を通る時に、下から竹の棒で突くのよ。

 舞台に立つ役者の足が丁度その下にあれば、竹が突き刺さって痛いって云うの。でも客席のお客さんにはわからないの。共演者は笑いを堪えるのに必死だったわあ」

「面白いなあ」

 白梅さんは話がうまかった。

 まるでその場に居合わせたかの様に話した。

「まだ、あなたとお話がしたいと思うの。私の部屋で飲み直しましょういいわね」

「はい」(ついに来たか)僕は下腹に力が入った。

(食い逃げは駄目だぞ)堀川さんの言葉が脳裏にリフレインする。

 白梅さんはスイートルームに泊まっていた。

 僕は生まれて初めて、ホテルの部屋の中にバーカウンターがあるのを見た。

「東山君は、何を召し上がる?」

「何でもいいです」

「お任せね」

 何やら作り出す。

「東山君は、どうしてつけ打ちを目指す様になったの」

「僕は学生時代ドラムをやってまして。心地よいリズムに目覚めました。だから他の人の様に歌舞伎が好きだったとか、そんな理由じゃないんです。すみません」

「何も知らない方がいいわよ」

 ソファに座る僕の所へ、トレイに飲み物を二つ持って来た。

「再び乾杯ね」

 白梅さんがぐっと身体を倒して来たので密着度は、さらに増す。

「東山君、恋人は」

「いません」

「あら、もったいない。イケメンなのに」

 白梅さんの白い手がすっと僕の顎を撫でた。

 不覚にもぞくっとするほど気持ちよかった。

 下から僕を見上げているのは、五十男ではなくて年齢不詳の妖艶なおんなだった。

「白梅さんは、悩みなんかないでしょうねえ」

「あらっ、私ってそんなにノー天気に見えるかしら」

「いえ、そんな意味じゃなくて」

「私の最大の悩みは、これは女形役者に共通するかもしれないけど、年よ」

「年?」云っている意味がわからなくて思わず聞き返した。

「正確には老い。老化って事よ」

「老いですか」

「悲しい事に人間は老いる。それに必死で抵抗するのが女形なの」

 ぐったりと、さらに白梅さんは僕に身体を預けて来た。

「もうこれ以上年を取りたくないわ」

「わかります」

「これは個人の問題。東山君が理解しても私の美貌が二十歳に戻るわけないもの」

 僕はどう反応していいのか、戸惑っていた。

「抱いて頂戴。抱くだけでいいから」

 僕はぎゅっと力強く抱きしめた。

 しかしその数倍の力で、白梅さんは抱き返して来て唇を重ね舌を侵入させて来た。

 元気に泳ぎ回る金魚の様に、白梅さんの舌は、僕の口中を泳ぎ回り翻弄させた。

 何分たったのだろうか。

 僕を抱く白梅さんの手の力が弱まったので見ると、静かに泣いていた。

「御免なさい。とんだ醜態を見せてしまって」

「疲れているんですよ」

「お願いがあるの」

「何ですか」

「お姫様抱っこしてベッドまで運んで頂戴」

「わかりました」

 腰に力を入れて、抱っこしてベッドに降ろすと再びぎゅっと抱きついて来た。

 しばしの沈黙。しかしそれ以上事態は進まなかった。

 白梅さんは、ポチ袋を手渡し、

「今夜は有難う。これは二人だけの秘密よ」

 僕の家は嵐山にある。

 一晩の贅沢。タクシーで帰った。

 先程白梅さんから貰ったポチ袋を取り出す。

 表には、「松の葉」と書かれていた。

「松の葉」とは、心ばかりの、少ない金額を現す。

 中を開けて見ると、五万円新札で入っていた。

 白梅さんにとって五万円は心ばかりの少ない金額かもしれないが、僕にとって、一か月の生活費に相当する。

 

 翌日皆からあれこれ聞かれたが、白梅さんとの約束で何も話さなかった。

 ここでまた堀川さんさんが自分で脚色して吹聴した。

(白梅と東山は出来ている)

(一晩の契りを交わした)

(白梅の専用のつけ打ちになった)

(まもなく東京へ行かされる)

(東京でマンションを買って貰った)

 話の真偽はどうでもよかった。楽屋雀はぴーちく話しては大笑いしたかったのだ。

「いよっ身体張って頑張ってる東山君」

 堀川さんは、ぽんと僕のお尻を軽く叩きながら話しかけて来た。

「その云い方嫌ですねえ」

「何が嫌なの。身体張ってつけ打ちやっているんでしょう」

「まあそうですけど」

「何だか羽振りよさそうじゃないの」

「そんな事ないです」

「たまには、つけ打ち仕事を干された寂しいおじさんにも奢って貰えますか」

「いいですよ。今晩行きますか」

「嘘だよ。そんな事お嬢の耳に入ってみろ。永久に干されてしまう」

 堀川さんは、つけ打ちの担当から外されても毎日、都座に顔を覗かせていた。

「堀川さん、いつまでいるんですか」

「あっ嫌な云い方するねえ。まるで邪魔者扱い。はいはいあんたは偉くなりましたよ。ねえ、丸太さんもそう思うだろう」

「確かに。虎の衣を来たじゃなくて、白梅の衣を来た何とやら」

「楽屋雀ども、お前の事何て云っているか知ってるか?」

「いえ知りません。教えて下さい」

「小白梅。略して(しょうばい)商売がうまいって。こりゃあうまく出来ている」

「中々洒落てますねえ」

「いよっ余裕の発言だねえ」

 確かに周りの僕の事を見る目が違った。

 最大の変身は丸太さんだった。

 入門してから、僕の挨拶に一度も返さなかったのに、あの日以降、返すどころか率先して自ら挨拶するようになった。

 千秋楽が近づいたある日・・・

「おい、今日は大丈夫か東山君」

 珍しく頭取が、つけ打ちの控室に顔を出した。

「何が大丈夫なんですか」

「確か東山君は、大の犬嫌いだったよね」

「まあ、好きじゃないんですけど」

「こっちへおいで」

 頭取は上手の舞台袖へ僕と堀川さんを招いた。緞帳の隙間から客席が見渡せた。

「あれだよ」

 頭取が顎でしゃくった。僕らは続いて見た。

 一番前の席に盲導犬を連れた若い女性が座っていた。

「何だ、盲導犬じゃないか」

 と堀川さんは興味を失った素振りを見せた。

「でも犬に違いないだろう」

 頭取は僕の方を見た。僕は冷静さ失っていた。

「おいおい、ちょっと顔色がよくないぞ」

「だ、大丈夫です」

「声が震えているぞ」

 犬嫌いは生まれついてのものだ。

 三歳の時に、犬が、歩いている僕に飛び掛かり上に乗って来た。

 トイレに駆け込む。

(落ち着け)そう云い聞かせる。

 出番前の役者は、手のひらに「人」つまり観客の事。その人の文字を書いて呑み込む。それに習って、「犬」の文字を手のひらに書いて一気に呑み込む。

 でも全然効かない。

「おい代わってやろうか」

 堀川さんが声を掛けて来た。

「大丈夫です。やります」本心は代わって欲しかった。

 そう答えるのが精一杯だった。じっとりと汗が噴き出していた。

 もし蛇嫌いの人がいるとしよう。

 まじかで蛇がかま首して睨む。そんな中で平常心でつけが打てるだろうか。

 それぐらいの気持ちと一緒なのだ。

 僕の身体と視線は、確かに白梅さんとつけ板を見ているが、こころは舞台ではなくて客席の犬に集中していた。

 左側の身体が麻痺したかの様に硬直しているのがわかった。

 右手は辛うじて動いていた。左手は硬直して震えている。

 最初は、つけ音がやや小さいぐらいですんでいた。

 しかし段々とテンポが落ちて間合いを外すようになった。

「蛇に睨まれた蛙」と云う言葉がある。今まさしく犬に睨まれた僕だった。

 白梅さんが、花道入りで駈ける場面でつけを連打する所だった。

 盲導犬が一瞬立ち上がった。

 それが我慢の限界だった。

 ちぐはぐなつけの連打が場内に響く。

 左手に持つつけ析がぽろりと客席に落ちた。

 一つのつけ音は、素人が聞いても何とも間抜けな音となった。

 案内の藤森美香が駆けつけて、落ちたつけ析を舞台に投げ入れた。

 しかし、その時にはもう白梅さんは揚幕の中に入っていた。

 堀川さんと白梅さんの楽屋に行くと、国宝さんと輝美さんがすでにいた。

 何も云わず堀川さんが土下座した。

「お前さん犬嫌いだったの」

 白梅さんが静かに口を開く。無言で頷く。

「だったらしょうがないわねえ」

「東山君、盲導犬はねえ滅多に吠えないものなのよ」

 今度は輝美さんが云った。

「盲導犬が一瞬立ち上がったのが見えて、もう後はぐだぐだでした」

「私の監督不十分でした。責任はこの私にあります」

 堀川さんは頭を下げたまま云った。

「どうやって責任取るのさあ」

「暫く、この二人謹慎処分させます」

 国宝さんが即答した。

「それ面白くない。私に考えさせて。少し時間を下さい」

 白梅さんは眉間に皺を寄せて答えた。

 僕らの処分が下されたのは千秋楽の日だった。

 都座の会議室に竹松東京本社演劇担当重役白川さん、今出川都座支配人、国宝さん、堀川さん、僕の五人が出席した。

「白川重役よりお伝えします」

 重い重厚な声で今出川支配人が口火を切る。

 白川さんが僕と堀川さんを交互に見つめる。

 嫌な間。白川さんも云いにくいのだろう。

「堀川さんは京都に居残り。清水師匠の身の回りの世話をして下さい。大阪、京都で歌舞伎公演がある時は出て下さい」

「はいわかりました」

「続いて東山君」

 ここで白川重役が息を継いだ。

「東山君は、京都嵐山の双龍寺で無期限の修行」

 この処分を聞いた時は、余りにも想定外だったので、最初意味がわからなかった。

「今回の二人の処分は白梅さん、清水師匠、私の三人で決めました。詳細は後で清水師匠から聞いて下さい」

「わかりました」

 僕は日頃国宝さんの世話をしている。その代わりを堀川さんが担当するのだ。

 双龍寺は京都嵐山にある禅宗の由緒ある寺で、世界遺産京都を代表する古刹である。

 そこに住み込んでいち修行僧として生活を送るのだった。

 つけ打ちの失敗で、くびを覚悟した僕だったが双龍寺での修行は意外だった。

(何故双龍寺なのか)理解に苦しんだ。

 でも言い訳無用。これが嫌だったらやめないといけない。

 物は考えようで、首が繋がっただけでも良しとしないといけない。

 剃髪は、国宝さん行きつけの祇園八坂神社前の散髪屋「パリ」でやった。

「この頃のつけ打ちさんは、坊主にしないといけないんですか」

 散髪屋の主人が尋ねた。

「いや、流行りでなあ」

 後ろのソファに座り見守っていた国宝さんが笑った。

「そう云やあ、人気歌舞伎役者、蹴上も坊主ですなあ」

 バリカンで剃られて自分の髪の毛が瞬く間に両肩に落ちて行くのを漠然と見つめた。

 四月。京都の桜の名所は多々あり、嵐山もそのうちの一つである。

 僕が双龍寺に入山する前日、ささやかな宴が国宝さんの家で行われた。

 出席の顔ぶれにいつものメンバーに加えて案内の藤森美香、つけ打ちのホームページを作成している常盤利恵さんがいた。

「まあ、東山君も双龍寺で新しい風に吹かれるのもええやろう」

 国宝さんの呟きとも取れる乾杯の挨拶だった。

「その前にちょっといいですか」

 日頃は寡黙な丸太さんが席を立った。

「東山君の一件で、堀川さんが東京でつけが打てなくなりました。この穴は大きい。前から師匠から人材育成の話が出てました。そこでですね、後は利恵さんお願いします」

「はい、ネットで募集してます。順次面接をやります」

「誰か有望な人いるんですか」

「出家するお前には関係ない」堀川さんが即答えた。

「出家じゃなくて修行です」

 堀川さんの暴言に僕はすぐ云い直した。

「しかし、無期限の修行だろう。出家と同じじゃないか」

「でも一年で終わる場合もあるでしょう」

「いやあ上昇志向の東山君」

 わざとらしく、堀川さんは手を叩いた。

「でも十年、二十年、いや修行に出された事さえ忘れられる時もある」

 真顔で丸山さんが呟く。

「あと事後報告があります」

 今度は輝美さんが立った。

「堀川さんが、主人の世話をする事になりましたが、京都、大阪で歌舞伎公演があるとどうしても抜けてしまいます。

 そこで常盤利恵さんに通いで手伝って貰います」

「はい皆さんよろしくね。新企画(双龍寺つけ打ち日記)をアップして行きます」

「ちょっと待ってくれよ。僕は何も聞いてないよ」

「ですから今云ってます。よろしくね」

「よろしくって。そんな余裕ないよ」

「いいや毎日更新しなはれ。ほな食べまひょか」

 国宝さんが宣言した。

 だらだらと僕の送別会が始まった。

 皆は誰も僕の事なんか、気にも留めてない様子でにこやかに談笑し始めた。

 トイレ行こうと席を立つ。

 用を済ませてドアを開けると案内係の美香が立っていた。

「はいこれ」

 美香が目の前に紙袋を差し出した。

「匂い袋と木彫りのお人形さん。単なる木彫りじゃない。都座の舞台の木で作ったんよ」

「君が作ったのか」

「舞台張替えの記念に作ったんやけど、東山さんが世をはかなんで、お坊さんになるって云うから、その記念にどうぞ」

「誰がはかなんでだよ。修行だよ。つけ打ちやめないって」

「でもお坊さんになるって本当なんでしょう」

 美香が刈られてスースーしている僕の頭を見ながら云った。

「これは儀式だよ」

 僕は青々とした坊主頭を撫でながら、ひとりごちた。












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