第4話 つけ打ち、罠にはまる

 九月。京都都座。

 九月と云えど、暑い太陽の光と、べっとりと身体を包み込む湿気たっぷりの京都特有の暑さは、秋の出番を遮るかのように、どっぷりと腰を下ろしていた。

 そして僕の出番もなかった。

 相変わらず双龍寺で朝のお勤めした後は、都座に通い、堀川さんのお手伝いをした。

 具体的に云えば、つけ打ちの衣装に着替える手伝いをした。

 つけ打ちの衣装は、上が黒の着流し、下は仙台平縞模様の裁着け(たっつけ)袴、角帯、黒足袋、雪駄と云う格好だ。

 昼の開演前に頭取の今宮さんが、僕達の控室に顔を見せた。

「えらいねえ、東山君は」

「頭取さん、お早うございます」

「時間ないから、あっち行った、行った」

 と堀川さんは邪険に追い払う。

「出番ないのに、こうして嫌な先輩の支度をする。大したもんだよ」

「いえ、そんな事ないです」

「わしだったら、一日として持たないなあ」

「朝から、嫌みの応酬かよ」

 口をとんがらせて頭取を睨み付けた。

 頭取は、堀川さんの仕草を全く気にせず、

「もう少しの辛抱だからな、東山君。ふてくされるんじゃないぞ」

 と言葉を続けた。

「うるせえなあ、あっち行ってくれる。本番前のつけ打ちは役者と同じで、忙しいんだから」

「あんたに、お客さんなんだよ」

 頭取が振り向くと、小柄な男が緊張の面持ちで立っていた。

 何か重要な話がある雰囲気だった。

「すまねえけど俺達、時間ないから、この屋上でお話聞きましょうか」

 堀川さんは、人差し指で天井を指さして、まだ相手の名前を聞かない内に控室を出た。

「お前も来いよ」

 くるっと振り返り、堀川さんが云った。

 慌てて僕は二人の後を追った。

 楽屋の廊下のモニタースピーカーから、二丁(開演十五分前)を知らせる析頭とブザーが二つ鳴り響いていた。

 都座の屋上からは、鴨川、四条大橋が見えた。

 鴨川に沿って今は川端通りと云う道路が見えるが、今は地下を走る京阪電車が、昔は鴨川と並走していた。

 線路の両側には、桜の樹木が電車の窓をかすめるくらい、迫っていた。

 その桜の木も、道路に変わる時、地元の人たちの反対の声も無視して全て伐採された。

 屋上にはお社が鎮座している。

 舞台初日には、役者の名前が書かれたのし紙を巻いたお酒が奉納されている。

 毎月八日には、月参りと称して祇園八坂神社から宮司が来て、芝居の大入りと舞台の安全を祈願する。

 まだ夏の日差しを思わせる強い光と屋上に設置されたダクトからの熱風が僕ら三人の身体にまとわりついていた。

「申し遅れました、私、鳥羽順一と云います」

 男は名刺を取り出して、堀川さんと僕にくれた。

「俺は堀川。こっちは後輩の東山です」

 改めて僕は、鳥羽さんに頭をぺこりと下げた。

「先日の双龍寺でのつけ打ち、おめでとうございます」

「ごめんよ、鳥羽さん。俺らこれから出番控えているんだ。簡潔に話しましょう。おたく鳥羽佳子さんのご主人ですよね」

 間髪入れずに堀川さんは、話が横道に入るのを阻止した。

「はい。いえ、正確には元亭主です」

「俺が見合いしたんで、未練が出て見合いやめてくれと云いに来たんだろう。よくある話だな」

 そばで聞いていて僕は、ドギマギした。

 いつ二人が取っ組み合いの喧嘩をするのかと冷や冷やした。

「いえ、その反対です。ぜひ佳子、いや鳥羽佳子さんと結婚してやって下さい。

 あなたのような、一芸に秀でた優秀なつけ打ち職人さんと一緒になれるのを祈願しております」

 ここで鳥羽さんは、僕ら二人に深々とお辞儀した。

 それに釣られて、僕も深くお辞儀を返した。

「俺が佳子さんと結婚するかどうかは、俺が決める事なんだ。すまないけど、あんたがとやかく云う権利はないと思うよ」

 じっと鳥羽さんの目を凝視しながら堀川さんは答えた。

「もちろんわかってます。あくまで私からのお願いです」

「じゃあ次は俺からの質問。あんたどうして離婚したの。娘の沙織さんが、重大な目の病気を患っている事を知っているの」

「ええ、知ってます」

 やや間を置いて鳥羽さんは目を伏せて答えた。

「知っていただと。じゃあどうして別れたりしたんだ」

 怒気を含んだ言葉を投げた堀川さんは、一歩鳥羽さんの前に詰め寄った。

「すみません、すみません」

 お詫びの言葉を連呼しながら鳥羽さんは走って屋上から階段を使って逃げて行った。

 僕と堀川さんは、呆然とその場に立ち尽くした。

「一体あいつは、何なんだ」

 僕も同じ気持ちだった。


 堀川さんがつけを打つ時は、僕は上手袖でずっと見つめている。

(一体僕と堀川さんが打つ、つけは何が違うのか)

 根本的な命題を、自分自身にぶつけていた。

 ふと背後に人の気配を感じた。

(また頭取が冷やかしに来た)と思った。

 ゆっくり振り返ると、ジェフと利恵さんの二人が微笑んで立っていた。

 つけ打ちの昼飯は、基本的に劇場の中で食べる。

 と云うのも、何があるかわからない世界であるからだ。

 今月の都座は、堀川さんと丸太さんの二人がつけ打ちを担当していた。

 それぞれ、別々の演目でつけ打ちを担当している。

 例えば、丸太さんが何らかのアクシデント、急病や怪我でつけを打てなくなる。

 そんなアクシデントに備えて、堀川さんも朝楽屋入りすると、終演まで一歩たりとも劇場を離れないポリシーを持っていた。

 大詰の狂言(演目)で、丸太さんがつけを打つのを見届けてから都座を離れた。

 ホテルには戻らず、最後の狂言が終わるまで都座近辺、つまり祇園界隈をうろつく。

 いつでもすぐに丸太さんの代わりに駈けつけられる様にと云う配慮だった。

 だから今日も、僕と、ジェフ、利恵さんを連れて祇園「御池」に出没していた。

「あれから、鳥羽さんとはどうどすか」

 女将さんが尋ねた。

 僕らは店の奥の座敷に座っていた。

 堀川さんの隣に僕は座り、向かい側の席にジェフと利恵さんが座った。

「進展なし。でも報告あり」

 堀川さんは、元夫の鳥羽順一が都座に来た事を喋った。

「へえ、そうどすか。えらいすんまへんどした」

「女将が頭を下げる必要はないよ」

 少し笑いながら、堀川さんはビールを一口飲んだ。

「へい。今夜は偉い方々、お揃いでおますなあ」

「偉いのはこの俺だけ。こいつら三人は雑魚。面倒見るのに身体もえらいのよ」

 いつもの毒舌が炸裂した。

 女中が料理とお酒、ビールを持って来た。

「ほなら、ごゆっくりと」

 障子を閉めて二人が去った。

「今日は、何のご用ですか」

 堀川さんがジェフと利恵さんを交互に見ながら尋ねた。

「ズバリ云わせていただきます。東山さんの完全復帰をお願いに来ました」

 今まで見た事がなかった利恵さんの気迫ある目つきに僕も堀川さんも一瞬のけ反った。

「これ、お前が仕組んだのか」

 じろっと堀川さんの目が僕に突き刺さる。

 僕が何か喋ろうとすると、

「いえ、東山さんは全然関係ありません。僕と利恵さんの二人の発案です」

 ジェフが慌てて説明した。

「で、お前の気持ちはどうなんだ」

 堀川さんは、ビールから酒に切り替えて手酌で吞み始めた。

「今の僕の技量では、とてもつけを打てる身分ではありません」

「そんな事、百年前からわかってる」

 掃き捨てる様に、堀川さんは云った。

「東山君、やせ我慢しないで正直に、この際云ってみれば」

 今度は利恵さんが助言した。

「一日も早くこちらに戻って来て、一緒に劇場でつけの練習しましょう」

 ジェフが加勢した。

「仲良しお友達の方々がこう云ってます。で、どうするんですか東山さん」

「正直に云います」

 ぐっと僕は背筋を伸ばした。

 ジェフと利恵さんの身体も固まっていた。

「はいどうぞ」

 堀川さんは、ぐいっと酒を呑みほした。

「双龍寺で修行を続けます」

 ジェフは目と口を大きく開けて、さらに固まった。

 一番深いため息をついたのが利恵さんだった。

「あなたねえ、これからもずっと双龍寺で修行する気なの。

 ひょっとして本気でお坊さんになる気なの。つけ打ちとしての矜持を持ちなさいよ。

 このまま劇場を離れていたら、全く駄目になるの、わからないの!」

 一気に利恵さんは身を乗り出して喋った。

「それぐらいわかってます。わかったうえでの答えです」

「日本人はどうして本心を云わずに、そんなに遠慮するんですか。一体誰に遠慮しているのか、全然理解出来ません。わかりません」

 ジェフは大げさに両手で顔を覆う。

「わかった。じゃあ十年でも二十年でも好きなだけ双龍寺で修行してろ」

 利恵とジェフが今度は同時に深いため息をついた。

「お二人さんに誤解のないように云っておくが、こいつの復帰を決めるとかの権限は俺にはないから」

「そうですか」

 利恵が疑いの眼差しを送った。

「お前さんらが思うほど、俺は偉くないの」

「さっきは、あれほど偉い偉いとおっしゃってましたけど」

 皮肉たっぷりに利恵は切り返した。

「じゃあ誰がその権限を持っているんですか」

 ジェフが聞き返した。

「そうだな、白梅お嬢に、竹松株式会社演劇担当重役の白川さんだな」

「でも堀川さんが後押しすれば、かなりの影響力があるんでしょう」

 利恵が再び身を乗り出して来た。

「それはどうかなあ。俺は御覧の通り、口が悪くて上にはごますりしないから」

 ここで、間が生まれて、各自の飲み食いが始まった。

「おこしやす」

 店の戸を開く音と、女将の声が耳に入って来た。

 この店では、二つの挨拶で客を選別していた。

「おこしやす」は、常連客に向けた挨拶。さらにもう一つの言葉がある。

「おいでやす」

 これは、一見さんの客向けの挨拶だ。

「御池」は、表に店の看板も出てないし、料理の陳列ディスプレーもない。

 だから、滅多に一見の客は来ない。殆ど常連客である。

 さらに若い女性の嬌声と、何だかどこかで聞いた事のある男の声が続いて入って来た。

 その思いは堀川さんも同じだったらしく、すぐに障子戸を薄めに開いて声の主を探した。

「嫌な奴が来た」

 再び注意深く障子戸を静かに閉めて堀川さんが云った。

「誰ですか」

 小声で僕は聞いた。

「蹴上易蔵だよ」

 蹴上易蔵は、今月都座で堀川さんがつけを打つ担当の歌舞伎役者である。

(蹴上屋)の屋号である。

 最近、江戸の荒事を復活させてめきめき人気を博して、頭角を現した東京の若手歌舞伎役者である。まだ三十歳そこそこである。

 数年前に祇園で、地回りのヤクザと派手な喧嘩をやり、その年の都座の顔見世出演が取りやめになったのである。

 すでに劇場前には、まねき看板が上がっていた。

 公演初日を迎えて数日後の深夜、ひそかに、前代未聞の「まねきおろし」が行われた。もちろん史上初である。

「暫く、静かにしていろ」

 僕らは同時に頷いた。

 しかし、蹴上の動物的感覚なのだろうか。

「あっそこはお客様いてはります」

 女将の声を無視して、やや乱暴に障子戸を開けた。

 蹴上と堀川さんと目が合った。

「ああ、見つけた」

 すでにどこかで呑んで来たのだろう。

 蹴上の顔はやや赤かった。

 蹴上は、二人の舞妓を携えていた。

「どうも若旦那」

 決まり悪そうに堀川さんは、頭をかいた。

「堀川さん、隠れてないで出て来なさい」

 蹴上は、そう云いながら次に僕らを見た。

「おやおや、つけ打ち初の外人のジェフ君に、犬乗りされておしっこをもらした東山君まで。それにつけ打ちのホームページを担当の利恵さんまで。これはこれは、つけ打ち集団勢ぞろいですねえ」

 蹴上は、僕らつけ打ち集団のそれぞれの名前と役割をすらすらと云った。

 蹴上は、舞妓を連れて二階へ上がろうとした。

 やれやれと堀川さんが障子戸を閉めようとした。

「君らも来なさい」

 蹴上の言葉に誰も逆らえない。

「行きましょうか」

 堀川さんの声に他の三人は立ち上がった。

 やや遅れて女将さんも二階に上がって来た。

 二階は、八畳くらいで床の間がついていた。

 蹴上の両脇に舞妓が座り、対面に僕らは座った。

 蹴上は、女将に何やら耳打ちしていた。

 女将は、一旦座を抜けた。

「さあ気軽に飲んで」

 と蹴上は云うけれど、今の歌舞伎界で白梅と並ぶ人気、実力ともナンバーワンである。

 気軽には行けなかった。

 その思いは堀川さんも同じようだった。

 蹴上は僕らの存在なんか忘れたかの様に、二人の舞妓とじゃれあって遊んでいた。

 やがて女将が、三味線と何やらお盆に布巾を被せて持って来た。

 蹴上は、それを受け取ると布巾を取った。

 中からまな板と二十センチ程の長さに切った二つの寸角の棒が現れた。

「おい豆千代、花千代踊れ」

「はい」

「そこの若手、これでつけを打ってみろ」

 蹴上は僕を睨んで云った。

「早く行けよ」

 堀川さんがけつを叩く。

 何だか事情がわからぬまま立ち上がり前へ行った。

「本物のつけ板とつけ析ないから、これ代用で打ってみろ」

「まな板に寸角ですか」

 国宝さんの邸宅の庭での稽古を思い出していた。

 僕は何とも思わなかった。

 蹴上は、僕があまり驚かないので、意外な表情を見せた。

「すんまへんなあ。急な事でそれぐらいしか用意できしまへんどした」

 女将さんがすまなさそうに謝った。

「お兄さん何踊りまひょ」

「花見小路小唄でいいよ」

「へえおおきに」

 女将さんが三味線を弾き、歌い出す。

 毎年四月の一か月間、祇園座で京の春の風物詩「平安京をどり」が開催される。

 必ず幕開きとフィナーレは「花見小路小唄」が唄われ、祇園甲部の芸妓、舞妓の総踊りが披露される。

 世間一般にも今から三十年ほど前、祇園ちどりと云う若手女演歌歌手が、歌い一世を風靡した。


 ~~~~~「花見小路小唄」~~~~~

  恋の花見小路

  一つ二つと    明りが灯る

  私のこころにも  明かりが欲しい

  今あの人     どこへやら。

  祇園さんへの   お願い

  あの人を私に   振り向かせておくれやす

  二人で見た祇園祭 祭の笛太鼓

  音の調べが二人の こころを一つに

  ああ恋しや    花見小路

  ああ嬉しや    花見小路

 ~~~~  ~~~~ ~~~~ ~~~~


 僕は戸惑いを通り越して茫然となった。

 もちろん、小唄につけなど入る曲ではない。

 それをわざわざ持って来るのは、蹴上の魂胆だ。

 おそらく僕の困った所を見たいのだろう。

(くそっやってやろうじゃないか)

 久し振りに僕の闘争心に火がついた。

 曲目は舞踊会で何度か聞いた事がある。

 その時はつけは入らず、析頭だけだった。

 曲全体が柔和で雅びである。

 座敷舞いだから、走り回る事もない。

 座敷舞いとは、上方舞の一つで、お茶屋等の宴席で踊るものである。畳一畳あれば踊れるものだ。

 優雅な舞いは、技量はもちろん、踊り手の醸し出す情緒、感性が大きい。

 仕草の大きな踊りよりも数倍難しいものである。

 だからつけの連打もない。

(さて、どうする)

 短い前奏曲の間、僕の頭はフル回転していた。

 利恵がスマホを取り出して撮影準備していた。

 おそらく、つけ打ちのホームページにアップするのだろう。

 踊りの重要さは、扇子と顔と手の動き。

 僕は舞妓が顔や手の動きを一瞬止めるところでつけを打つ事にした。

「タンタン」

 本物のつけ音とは、比べ物にならない、はるかに小さく音が広がらない。

 一言で云えばくすんだ音だった。

 蹴上はそれでも陽気に手酌で酒を呑みながら、じっとつけを打つ僕を見つめていた。

 途中でおやっと思った。

 通常の花見小路小唄よりも、アップテンポになっているからだ。

 そのため舞妓の所作も早くなる。

 しかもそのテンポはどんどん早くなる。

(女将さんの遊び心だ)とピンと来た。

 瞬時に僕はつけを打つ箇所を追加した。

 やや慌てたかのように舞妓二人が踊る所。

 二人が交差する所などを、三味線伴奏よりさらに早くつけを打つ。

 それを聞いて女将さんの三味線伴奏ももっと速くなる。

 最後の方は、舞妓の踊りは無視して僕のつけと女将さんの三味線とのコラボだった。

「ああ、もう堪忍どす」

 舞妓が悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。

 これが終わりだった。

 すかさず、つけの連打、打ち上げのつけを打つ。

「ああ愉快、愉快」

 蹴上が一人大きく拍手した。

 それに引きずられる感じでやや遅れて、他の者が拍手した。

 僕は拍手せず一礼して自分の席に戻った。

「あのさあ、堀川さん」

 蹴上の目は、今まで舞妓とじゃれあってたものとは全然違うもので、恐ろしいほど座っていた。

「はい何でしょう」

 と答える堀川さんの眼力も蹴上に負けない迫力があった。

「今のつけをどう思う」

「どうって云われても」

 明らかに堀川さんは、慎重に次に云うべき言葉を探していた。

「確かにまな板に寸角じゃあ、比較にならない。つけだなんておこがましいよな」

「そんな事ないです」

 堀川さんの顔に照れ笑いが浮かぶが、目は決して笑っていなかた。

「無理しなくていいよ。そう顔に書いてある。それを踏まえて今のつけはどう思う」

「邪道の極みです」

 堀川さんが力強く云い切った。

「そうだな、その通り。でもさあ歌舞伎ってもともと邪道の極みじゃないのか」

 蹴上の言葉に、堀川さんは黙った。

「一体いつから、歌舞伎は芸術面し始めたんだろうねえ」

「さあいつからでしょうねえ」

「江戸時代は、庶民の最大の娯楽だったんだよ。もっと楽しめなきゃあ嘘だろう。

 演じる方も見る方も、しかめっ面するなんてナンセンスだと思う」

 舞妓は手を膝の上に置き、女将さんも三味線を自分の前に置いて神妙に蹴上の話に耳を傾けていた。

「今のつけは、確かにナンセンスの極みだ。でも新しい何かを吹き込んでくれて愉快にしてくれた。つけの効果ってそれもありなんじゃない?」

「かもしれませんね」

 堀川さんが辛うじて返事した。

「東山君、あんた面白いよ、よくあの踊りにつけを打ってくれたよ」

「有難うございます」

 僕は深々と頭を下げた。

「堀川さん、あんたのつけもいいけど、若い人に活躍の場を与えてやらないと」

「どう云う事でしょうか」

「二つ担当しているつけの内、一つはこの若手にやらしてみてはどうかな」

 突然の蹴上の提案に堀川さんも僕も戸惑った。

「しかしここで決めても奥役の許可がいるかと」

 僕の前ではいつも威勢の良いライオン丸堀川さんでも、蹴上の前では小さな猫に成り下がっている。

 奥役とは歌舞伎プロデューサーの事である。

「奥役は、俺の方から云っておくから、さあ呑み直そうか」

「あのう今のつけ、つけ打ちのホームページに掲載してもいいですか」

 少し遠慮がちに利恵が聞いた。

「どんどん載せて、拡散して」

 上機嫌に蹴上が答えた。

 堀川さんから僕につけが代わる狂言は、所作事(踊り)で、昼の部のキリ狂言(最後の演目)でもあった。

「酔酒江戸及男達(よいのさけえどのだておとこ)」と云う狂言でこれは、蹴上屋の十八番でもある。

 十八番とは、江戸時代七代目蹴上易蔵が選定したと云われている。

 蹴上屋が得意とした、云わば、おはこ(十八番)芸である。

 それは代々引き継がれて今日に至っている。

 元々、蹴上屋は代々所作事、芝居で足の蹴り上げを得意としている。

 中でも「江戸湯舟蹴上三番叟」は湯屋の中での激しい殺陣と湯屋の戸を豪快に蹴り上げる所作が大人気である。

 もし他の歌舞伎役者が、この十八番の狂言(演目)を演じる時は、蹴上屋への挨拶と許可がいった。

 今で云う芸の専売特許である。

 最大の見どころは、酔った男が、踊るところである。

 酔ったための千鳥足と、本当の踊りの使い分けが難しい。

 同じくつけも難しい。

 本番まで三日の猶予が下された。


「いいか、若旦那の振りは、毎日違うんだ」

 翌朝、いつもより早く出勤した僕と堀川さんは都座の舞台にいた。

「どうすればいいんですか」

「お前なあ、これだけは云っておく」

「何でしょうか」

「役者とつけ打ちは、毎日毎日、毎回毎回が真剣勝負なんだよ。相手がどんな変化球を投げて来ても、打ち返さないといけない。

 イチローを見ろ。奴はやっているだろうが」

 いきなりイチローと比較された。

「天才打者と凡人の僕とを一緒にして貰っても意味ないし」

「うるせえ。お前は双龍寺で修行した初のつけ打ちなんだ。その誇りと矜持を持て」

 僕より数倍興奮して舞い上がる堀川さんだった。

「よし打ってみろ」

 と堀川さんは云うけれど、舞台にはもちろん蹴上屋はいない。

 僕は、空の舞台を見ながら、イマジネーションを駆使して蹴上屋がいると思ってつけを打つ。

 もちろん、どの場面かは自分だけの世界だ。

「その酔いの最初のつけは、もう少し弱く打った方がいいな」

 僕は心臓が破裂しそうだった。

 僕の想像の世界に、的確に堀川さんが乱入したからだ。

「どうしてわかったんですか」

「いいから弱く打ってみろ」

 僕の質問には答えてくれなかった。

 一口に「弱い」と云う表現は、人によってとらえ方は、千差万別である。

 さらに「つけの音」となれば、なおさらである。

 堀川さんの云う「弱い」は、僕の感覚が持つ「弱い」とは、全然違う。

 そこをどう軌道修正するかは、僕の個人の感覚しかなかった。

「タン、タン」

「違う。もう一辺」

「タン、タン」

「違う」

 堀川さんは、僕が打ったつけ音が果たして強いのか、それとも弱いのか何も云ってくれなかった。

 光のない道をひたすら歩き続けるようなものだった。

 三十分ほど経過しただろうか。

「それだよ。何だ出来るじゃないか」

 と云われた時、嬉しさよりも安堵感がこころの中を駆け抜けた。

(今までのつけとどう違うんだ)

 まぐれ当たりのつけだと思った。

「じゃあ今朝はこれで終わり」

 一方的に云うと堀川さんは出て行った。

 開場前の場内の掃除をしていた案内の美香が、舞台前に来た。

「復帰おめでとう」

「有難う」

「木彫りのお猿さんのおかげね」

 と美香が云ったとき、一瞬何を云っているのかわからなかった。

「ああ、あれね」

「もうどこかに捨てたん」

「そんな事しませんよ」

「でも目が泳いでた」

「いえ本当です。有難うございます」

 逃げるようにその場を離れた。

 いつもより、さらに切羽詰まった感じで、僕は舞台袖で堀川さんのつけを見続けたのを思い出していた。

 確かに堀川さんの云う通り、蹴上屋の振りは、毎日微妙に違っていた。

 僅か三日だけなので、細かく分析出来ない。

 堀川さんに云われるまで、この違いに気づかなかった。

(一体僕は、今まで何を見ていたんだ)

 その日の夜。

 双龍寺で考え事をしていた。

「また悩んでいますか」

 いつの間にか北野さんがそばにいた。

「つけの事ですね。聞きましたよ。蹴上屋が大抜擢したって」

「もうやる前から、かなり緊張してます」

 僕は、蹴上屋が踊りの振りを毎回変える事を話した。

「自由奔放な彼らしいですね」

 笑いながら北野さんが答えた。

「だから悩んでます。この目もあてにならないし」

「私にはつけの事はよくわかりませんが、目だけに頼るとどうしてもつけの音が、遅れますね」

「まさにそこなんですよ」

 北野さんは僕の悩みをピンポイントで当ててくれた。

「じゃあ一層の事、それをやめたらどうですか。ちょっと飛躍しすぎた乱暴な意見ですが」

「でも見て、つけを打つのは基本でしょう」

「イマジネーション。心の目。目の不自由な人は、我々健常者より他の感覚、例えば聴覚とかが、より鋭いとか聞きますねえ。あれですよ。では失礼」

 北野さんは自分の意見を云うと、僕の意見の答えを待たずに去って行った。

 答えを見いだせないまま当日を迎えた。

 当日の朝、堀川さんと二人で蹴上屋の楽屋を訪れた。

「今日から、つけを交代します」

「よろしくお願いします」

 蹴上屋は無言で頷く。

 僕らが楽屋を出ようとすると、蹴上屋は化粧鏡に映った僕らを見ながら、

「あくまで今日は、試験だから。続けるかどうかは、終わってから決めるからな」

 本公演が始まる。

 朝からそわそわし通しで、昼飯も食べられない緊張である。

 そしてついにキリ狂言「酔酒江戸及男達」の本番を迎えた。

「よし、行ってらっしゃい。早よお帰り」

 コギャグで堀川さんは、僕を励ましたがそれに応える余裕はなかった。

 正座する。

 足が、太腿が小刻みに痙攣しているのがわかった。

 人間てこんなに震えるんだ。妙に感心していた。

 最初のつけは、正面で見得を切る。

 ここは定石通り。

 慎重に二つ目のつけ析を振り下ろした。

 二回目は、酔ったていでゆっくりと舞台を動き回る。

 千鳥足につけを打つ。

 毎回、ここは蹴上屋は酔い加減を微妙に変えていた。

 ある時は小刻みに、ある時は大股で、またそれをミックスしたもので、堀川さんはそれに振り回される事なく、また動じる事なく落ち着きはらって冷静につけを打っていた。

 千鳥足の変化にもついて来た。

 異変は次の瞬間に起きた。

 酔った踊りの中で、蹴上屋が横投げで扇子を投げる。

 普段なら僕の座っている位置よりかなり手前に落ちるのだが、今回は投げる時の力加減が強すぎたのか、丁度僕のつけを打つ前に滑り落ちた。

 一瞬、僕は扇子を拾おうとした。

「拾うな」

 小声で叫ぶ堀川さんの声。

 扇子を拾おうと僕が手を伸ばす。

 上手幕だまりから、後見が出て来て素早く扇子を拾い上げる。

 僕は扇子を持たないまま、前のめりになった。

 態勢を立て直したために、これで一拍次のつけが遅れた。

 遅れを取り戻そうとすればするほど、どんどん錯乱の世界にはまり込んでいく。

 もう後はぐだぐだの世界だった。

 つけを終えて舞台袖に戻ると、

「あんな簡単な仕掛けに引っ掛かりやがって」

 堀川さんはそう云って軽く僕の頭をぽんと叩いた。

「仕掛けって何ですか」

「いいから蹴上屋の楽屋が先だ」

 楽屋に着くと、

「若旦那、申し訳ありませんでした」

 いきなり堀川さんは、頭を畳にこすりつけた。

「引っ掛かりましたね」

 笑いながら蹴上屋は、笑顔を僕に向けた。

「あなたの役職はつけ打ちです。演者が扇子を落とす位置を間違えるのはよくある話です。それを拾うのは後見の仕事です。

 よそ様の仕事を横取りして、自分の仕事をないがしろにするのはいけません。

 例え俺が舞台で倒れてもつけを打ち続けないといけません」

 蹴上屋の声は落ち着き払って、深みのある説得力のある云い方だった。

(あれは、わざとやったんだ)

(僕を試していたんだ)

 僕の馬鹿正直さ加減にようやく気付いた。

「もっとも演者の俺が倒れたら、つけの続きは出来ないけど」

 と蹴上屋は言葉を付け加えた。

 後見の仕事もわかっていた。

 一瞬の判断を誤った僕を責めた。

「舞台には魔物がいるよ。怖いよ。さあ俺は次の支度あるから」

 蹴上屋は後ろに控えていた衣装、床山を目で呼んだ。

 付き人も続いて入って来た。

 僕らは彼らに追い出される形で、蹴上屋の楽屋をあとにした。

「まあこれも苦い経験の一つ。時間が経てば笑い話の一つになるよ」

「ええ、まあ」

「あいつは曲者。まあお前さんの純粋無垢の性格が災いしたかな」

「すみませんでした」

「今謝っても遅いよ。これも勉強の一つ」

 ここで堀川さんは深いため息をついた。それに釣られて僕も同じ仕草をした。

 この様子を客席後方の監事室で、輝美さん、利恵さん、国宝さんが見ていたそうだ。

 監事室とは、一階客席後方にある。ガラス張りの小部屋である。

 ここで毎日監事室係りが、役者、大道具、照明等が、稽古通り行われているかチェックする部屋である。

 都座の監事室は、昔は、芸ウラ(花道を挟んで、下手側「舞台に向かって左側」)後方にあったが、平成三年の大改装の時に、今の上手側後方に移った。

 当初竹松系列の劇場にしかなかったシステムだが、最近は他の劇場もこのシステムを取り入れるようになった。

 僕が扇子を拾おうとした時、国宝さんも

「拾うな!罠だ!」

 と叫んだそうだ。

 打ちひしがれて僕は国宝さんの家へ向かった。

 お手伝いの京子さんがいた。

「輝美さんと国宝さんは?」

「輝美さんと国宝さんは一度お戻りになりましたが、すぐに出ていかれました」

「どこへ行ったんですか」

「ちょっと出かけて来ると云われました。行先はおっしゃいませんでした」

「そうですか」

「都座で何かあったんですか。国宝さんは帰って来るなり、相当悔しがってました。蹴上屋の罠の話を東山さんにしておけばよかったと」

「と云う事は、過去に何度かあったと云う事ですね」

「さあ、詳しくはわかりません」

 国宝さんの帰宅を待つほど、僕にはこころの余裕がなかった。

 邸宅を出て、再び祇園に向かっていると、携帯電話が鳴った。

 堀川さんからだった。

「さっき、お前の処遇が決まった」

「はい」

 僕は立ち止まり、携帯電話を持つ手を握り直した。

「明日から再び俺がつけを打つ。蹴上屋のつけは俺が打つ。お前では駄目だって」

「はい」

「はいじゃないだろう。悔しくはないのか」

「悔しいです」

 こころの底から振り絞って声を出した。

「ざまあ見ろ。そうたやすく俺の領域を渡すもんか。悔しかったら実力で取り返せ」

 僕を激励するつもりで、わざと憎まれ口を叩く堀川さんだと云う事は、百も承知だった。

 でもこの時は、心底憎くて会話の途中で電話を切った。

 すると今度はラインでメールが来た。

「やったね」

 の文の後にどこに、こんなイラストがあるのか、富士山の頂上でつけを持ちながら万歳を三唱する堀川さんのイラスト絵がついていた。

 負けじと僕は、パンチを連打する歌舞伎役者のスタンプを送信した。

 瞬く間に今月も中日が過ぎて、千秋楽も過ぎ去る。

 一か月事にサイクルが回るつけ打ちの世界だけど、今の僕はそのサイクルを遠目に見るだけで、決してその中に入れなかった。入れて貰えなかった。






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