第5話 つけ打ち、糺(ただす)の森へ行く

 千秋楽の翌日、堀川さんは福岡座に向かった。

 一方の僕は、再び双龍寺と国宝さんの邸宅を往復する単調な生活が戻った。

 さすがに十月になると、暑い京都も朝夕はめっきりと涼しくなった。

 リビングで国宝さんとお茶を飲んでいた。

「仕掛けられた罠にわざと入るのもええもんじゃよ」

 この頃国宝さんは、何の前触れも説明もなく語る事が多くなった。

「わざとじゃないです」

「わざととか、そうでないとか自分しか知らない。

 あの歌舞伎界の風雲児の蹴上もお前さんの真意はわからない。それがお前さんの強みじゃ」

「それが強みになりますかね」

 僕は国宝さんの言葉が信じられなかった。

「なる。後は舞台でどんな事が起ころうと、慌てたら駄目」

 それだけ云うと国宝さんは、お茶を飲むのをやめて目を閉じた。

「この頃、居眠りが多くなったのよ」

 台所で炊事していた輝美さんがやって来て云った。

「この前なんか、私に話しかけている最中に、眠り出したのよ」

 苦笑しながら輝美さんが云った。

 「それって何かの病気の前触れかも。一度病院へ連れて行った方がいいと思います」

「もちろん連れて行ったわよ。でもどこも異常なし。高齢になるとそうなるらしいの」

「九四歳ですからねえ」

 ふと自分の九四歳を想像した。

 でも何も想像出来ない。

 六十歳でも僕にとっては四十年近い、はるか先の未来である。

 世間では、若いうちから、老後の事を考えましょうと云われるが、せいぜいよく考えて四十歳ぐらいだろう。

 僕は国宝さんの寝顔を見ながら、そう考えていた。

 案内の美香と会ったのは、国宝さんのお宅からの帰りだった。

 東山のねねの道から、石塀小路に入った所だった。

 路面は石畳、両側の家の塀は竹や木で出来ている。

 塀からは樹木の葉っぱがそこかしこから出ている。

 景観を台無しにする電線類は、地下に埋設され、見上げる空が広く感じる。

 通りに面した玄関に長い暖簾が掛けられて、格子戸から石畳の小径が覗く家もある。緩やかな坂道がまた情緒を醸し出す。京都らしい風情が漂う。

 テレビドラマやCMで度々使われる有名な場所で観光客は盛んに写真を撮っていた。

「美香さんどうしたんですか」

 いきなり目の前に案内の美香が姿を見せたので驚いた。

「うちが、石塀小路歩いたらあかんの」

 挑戦的な眼差しの美香だった。

「いえ、そんな事ないです」

 石塀小路にある喫茶店に入った。

 二人はレスカを頼んだ。

 店の中央に楕円形のカウンターがあり、奥に坪庭がある。

 小さなボックス席に座った。

 椅子が全て庭に向けてあった。

「一日だけの復帰やったねえ」

「仕方ないです。僕の責任ですから」

 美香の言葉は、色々な人から掛けられたものだった。

 頭取、国宝さん、堀川さん、輝美さん、利恵さん・・・

「けど、蹴上も意地の悪い仕掛けしはるなあ。あんな事本番の舞台でやりはるやなんて、相当のイケズ。男のくせに。うちすかん」

「好きとか嫌いとかより、如何に舞台を無事に遂げられるかが僕らの仕事やから」

 今は冷静な自己分析が出来る。

「東山君は正直やから、あの時扇子取ろうとするわなあ」

「色んな人から、同じ事云われました」

「舞台遠ざかってた人にするやなんて、蹴上て卑怯な男や」

「さっきから、えらく蹴上をぼろくそに云いますね」

「うち、さっきから云うてたでしょう。あいつ嫌いどす。東山君も嫌いやろう」

「今は好きとか嫌いとかの対象じゃないです」

「そしたら、何やの」

 美香が僕の顔を覗き込んだ。

「しいて云えば、よき舞台の先輩」

「はい可もなく不可もないコメントおおきに」

「美香さん、好きな人は誰ですか」

 突然僕は聞いた。

「いきなりなんやのん。歌舞伎役者で、それとも一般で」

「両方です」

「歌舞伎役者はおれへんなあ。一般人は東山君」

「えっ」

「嘘、嘘、冗談」

「ああびっくりした」

 突拍子もない美香の言葉に本当に驚いた。

「そないにびっくりせんでもええのに」

 少し膨れた顔を見せた美香だった。

「なあ、今年顔見世の発表遅いなあ」

 都座で毎年十二月に行われる「吉例顔見世興行」は、京の年中行事、京の冬の風物詩として名高い。

 毎年演目は九月上旬に発表される。

 今年はそれから一か月が過ぎたが何も発表されない。

「そうですねえ」

「何や他人事みたいな発言」

「他人事ですから」

「そんな萎縮した、妬んだ東山君、うち嫌い」

「でも事実ですから」

 妙に我を張ってしまった。

 あまり盛り上がらない会話だった。

 特別な用事がない限り、僕は午後五時までに双龍寺に戻らないといけなかった。

 美香とラインの交換をした後、別れた。


 朝のお勤めの座禅と、つけ打ちの練習は欠かさずにやった。

 これは国宝さんの自宅の庭でやっていた。

 つけ析とつけ板は大事なものなので、特製のジュラルミンケースに入れて持ち運ぶ。

 それは傍から見ると、現金を大量に入れた鞄のイメージがしたのだろう。

 都座を通り過ぎて、四条大橋を渡り、河原町交差点高島屋前まで来た時だった。

 一人の外人が近づいて来た。

「スミマセン、キヨミズテンプル、ドコデスカ」

「歩いて行くんですか」

「ワッツ?」

 慌てて僕は英語モードに切り替える。

「バイ、ウオーク?」

「ヤー」

「この道を真っすぐね。ディスロード、ゴーストレート。八坂神社見えます。ヤサカ・・・神社って英語でなんて云うのかなあ」

 僕はジュラルミンケースを足元に置いて説明し始めた。

「ドノロードデスカ」

 今から思えば、外人は僕の手を取ってジュラルミンケースからわざと数メートル離れさせた。

 ほんの一瞬だった。

 一秒か二秒目を離したすきだった。

 別の外人が、ジュラルミンケースを奪って烏丸方面に走って逃げた。

「あっない」

 大事なつけ析とつけ板が収められたジュラルミンケースが視界から消えていた。

「ドウシマシタ、ヤサカジンジャカラドコイキマスカ」

 なおも外人は僕の手を持ったまま聞く。

 その手を振りほどくのに時間を要した。わざと追跡を遅らすための手段だった。

 逃げる外国人を追いかけたが、雑踏に紛れて見失う。

 戻ると道を聞いて来た外国人もいなくなっていた。

 きつく手を握っていたのは、今から思えばわざと追跡を遅らすための手段で、彼らは最初からグルだった。

 すぐに都座の斜め前にある、縄手交番に出向き事情を話した。

「そしたら被害届出してもらいましょか」

 こちらは幾分か事件に巻き込まれて興奮していたが、警官はいたって冷静だった。

「で、具体的にそのジュラルミンケースの中身は何ですか。現金ですよね。幾らぐらい入っていたんですか」

 やはり警官は、一般人と同じ様にジュラルミンケース=現金と連想したのだろう。

「いえ、現金じゃなくて、つけ析とつけ板です」

「つけ析?つけ板?何それ」

 やれやれと思いながら、僕は説明をし始めた。

 警官は一度も歌舞伎を見た事がない人だったから余計に時間を要した。

 解放されるのに、一時間を要した。

 双龍寺にも事前に連絡した。

 帰ると北野さんが、

「お怪我がなくてよかったです」

 部屋に入り堀川さんにも電話で報告した。

「全く何やっているんだよ。ぼーと女のお尻でも見てるからそうなるんだよ」

「ですから、お尻じゃなくて、外人に道を聞かれてそれに対応してたんです」

「今頃、その外人ら中開けてびっくりしてるんじゃないのか」

「おそらくそうだと思います」

「国宝さんの家に、俺のお古のつけ板があるからそれ使え」

「どこにあるんですか」

「輝美さんか、お手伝いの京子さんに聞けばわかるよ」

「有難うございます」

「あと一つ、そっちの双龍寺にも送ってやるよ。もう持ち運びはやめろ。あのジュラルミンケースは一般人から見たら、現金持ってまーすのオーラ出てるからな。でも不思議だな」

「何が不思議なんですか」

「お前みたいに貧乏神の親友のような面構えしているのに、何で狙われたんだろうなあ」

「知りませんよ」

「俺が狙われるのなら、わかるけど」

「はいはい、堀川さんはお金持ちの顔をなさってますもんね」

 堀川さんは笑った。

「あと、質問があります」

「何だ云ってみろ」

「都座の顔見世の発表遅れてますね。どうしてですか」

 「また配役と狂言(演目)で揉めているんだろう。でも心配するな。お前には全然関係ない話だからな」

「ぐさっと心臓に突き刺さるような事、よく平気で云いますね」

「お前は打たれ強いから大丈夫だよ」

「いえ、大事なつけ析とつけ板盗まれたんで、もうこころはズタズタですよ」

「慰めて欲しいのか」

「いえ、それは彼女にしてもらいます」

「云うねえ。出来たのか」

「いるわけないでしょう」

「だろうなあ貧乏神さん。まあ頑張れ」

 と云って堀川さんは、一方的に電話を切った。

 翌朝、国宝さんの宅へ行くとすでに坪庭につけ板とつけ析が置いてあり、国宝さんも輝美さんも京子さんもつけ板・つけ析ひったくり事件を知っていた。

「京都も物騒な街になりましたなあ」

 しみじみと国宝さんが云った。

「つけ析とつけ板やったら、どこからか出て来ると思うんやけど」

 と輝美さんが云った。

「そうだといいんですが、今のところまだです」

「けど人の親切を逆手にとって嫌な外人の事」

 今度は京子さんが口を開いた。

「外国ではよくある犯罪の手口やそうです」

 昨日、警官に云われた事を思い出した。

 坪庭に座る。

 今日は、居眠りもせずに珍しく椅子に座って国宝さんが見守っている。

 まず、音を確かめるように僕は軽く叩いた。

 昨日まで自分のつけ析とつけ板を使っていたが、明らかに音色が違っていた。

 こちらの方がクリアな音だ。

 一つ、二つ打ち降ろしてみる。

「タン、タン」

 乾いた音が坪庭に響く。

 音の音域と云うのだろうか。

 全然違う。

 自分の技量があがったのか。

 そんなわけない。

 このつけ析とつけ板のせいだ。

「ええつけの音や」

 国宝さんが云ってくれた。

「それは堀川が先月まで使ってたやつやろう」

「わかるんですか」

「わしを誰やと思うてるんや」

 国宝さんは笑いながら云った。

「すみませんでした。じゃあ今、堀川さんはどのつけ板を使っているんですか」

「あいつは、いつも予備のもん用意してた。毎公演、最低四つのつけ析とつけ板用意しよる」

「そんなにいつも持って行っていたんですか」

 知らなかった。一体僕は今まで堀川さんの何を見ていたのだろうか。

「同じ劇場でも、晴れの日もあれば雨の日もある。つけ析もつけ板も木で出来てるから、湿気にはかなり敏感なんや」

「はい、そうですね」

 僕は正座したまま、国宝さんの話を聞いた。

「役者のその日の体調も毎日違う。それに対応しとるんや、あいつは」

「そうでしたか」

「がらっぱちな性格やけど、ことつけ打ちに関してはかなり神経質やで」

「全然知りませんでした」

 一瞬福岡座でつけを打つ堀川さんを、瞼に思い浮かべた。

「僕のつけ板は、同じ時期に確か堀川さんと、同じ材木を切り出したものだから、同じ音がするはずですけど。何故違うんですか」

 僕は素朴な疑問を国宝さんにぶつけた。

「出発点は同じでも、そのつけ板を叩く回数も、叩く強さも違う。それになあ、それを保管する場所も違う」

 堀川さんは、使わないつけ板をどこに保管しているのだろうか。

 今まで聞いた事もなかった。

「確かに違います」

 僕は使わないつけ析とつけ板は、ジュラルミンケースに入れて自分の部屋の押し入れにしまっていた。

「それとつけ打ちにとって、つけ析とつけ板は、我が子のようなもんや。

 わしが若い頃は、同じ布団の中でつけ析とつけ板を抱いて寝たもんや。

 それぐらい愛おしいもんやった。

 あんたは結婚もしてないし子供もおらんから、この感覚は理解出来んかもしれんけど」

 初めて耳にする国宝さんの隠れたエピソードだった。

 不覚にも涙が頬を伝う。

「何もつけ析とつけ板を盗まれたのを、責めはせえへん。そのつけ析とつけ板を大事にしいな」

「はい、今夜から抱いて寝ます」

「そこまでせんでよろしい」

「けど師匠も」

「双龍寺でそんな事やってみいな。また怒られるで。やるんやったら、自分の家に戻った時にやりなはれ」

「はい」

 涙を拭いて正面を見ると、輝美さんも京子さんも泣いていた。

「お邪魔します」

 元気な声で利恵さんが入って来た。

「どうしたん、えらくしんみりしちゃって。つけ板盗難が引きずっているのかなあ」

「そうです」

「くよくよせえへん事。それよりこれ見て」

 利恵はアイパッドを立ち上げて画面を我々に見せた。

「今度ね、インターネットのつけ打ちショップ立ち上げたの」

「いつの間に」

「誤解せんといてね。ちゃんと国宝さんには許可取ってるからね」

「色々品数あるわねえ。このつけチョップスティックって何なの」

 輝美さんが聞いた。

「ああそれね、つけ析の形をしたお箸」

「使いにくそう」

 思わず僕は感想を漏らした。

「でも外国人からかなり、オーダー来ているんよ」

「僕らと感覚違うんや」

 箸を毎日食事で使う日本人と、箸を何かアクセサリー感覚で選ぶ外国人とは、感覚が全然違うのだろう。

「ゆくゆくは祇園にもお店出したいんよ。でも家賃高いでしょう」

「そしたらここでやってみたら」

 あっさり輝美さんが提案した。

「ガレージの横、空いているでしょう」

「やってもいいんですか。でも店番雇うと人件費かさむし」

「取り合えず、土日の昼間限定でやったら。東山君もいてるし。

 現役のつけ打ちさんが、接客してくれたら女性客も喜ぶと思うし」

「輝美さん、ええアイデア云うてくれる。ほんで、坪庭でつけ打ち見せたら、余計喜ぶわあ」

「あのう、僕はいつまでもここにいるわけと違うし」

 少し遠慮気味に二人の会話に入った。

「でも年内は復帰出来ないんでしょう」

 利恵にもばっさり云われた。

 確かに、店番でもやっていないと、どうにかなりそうな精神状態だった。

 と云うのも、劇場で働いていないのに、毎月、「休み金」と称して竹松から、僕の口座に給料が振り込まれていた。

 その状態が返って僕のこころにどす黒い雑念の汁がひたひたと侵入していた。

「わかりました。やります」

「やってもええけど、つけ打ちの練習はさぼったらあかんで」

 国宝さんが釘を刺した。

 インターネット商品カタログを見た。

 一番の売れ筋は、Tシャツ、ハンカチ、がま口財布、スマホケース等であった。

 柄、デザインはつけ析とつけ板に統一していた。

 今の季節一番京都観光客が多い。

 取り合えず仮店舗の形で、来週オープンする事になった。

 場所柄清水寺参拝の後の観光客が圧倒的に多かった。

 時間は十二時からから四時までの限定にした。

 宣伝は、ホームページ、インスタグラム、フェイスブックだけにした。

 宣伝をかけるお金がないからだ。

 でも口コミ、つけ打ちファンがそれぞれサイトの拡散をしてくれた。


 忙しく開店したある日、国宝さんに呼ばれた。

「明日、洛中ホテルへ一緒についていってくれ」

「何かあるんですか」

「都座の顔見世発表や」

「ついに発表ですか」

 この時、僕は軽い気持ちでいた。

 国宝さんを介助する形で、発表会場に向かう。ただ単純に国宝さんは顔見世記者会見を見たかった。僕はそう思い込んでいた。

 例年顔見世の発表は、大阪で行われている。

 何故か今年は、京都だった。

 洛中ホテルは、JR京都駅の中にある。

 これなら東京から来る人達にも便利である。

 秋の観光シーズンで市内の道路はどこも交通停滞で、移動に時間を要していたからだ。

 当日、記者会見場のひな壇に、国宝さんが座ると聞いて僕はぎょっとした。

 単なる見学だと思っていたからだ。

 もう一人、意外な人がひな壇にいた。

「ご無沙汰・・・でもないか」

 そこには、にこやかに笑う北野さんの姿があった。

「何で北野さんがそこにいるんですか」

「まあ記者会見見ていたらわかるよ」

「まあそうですけど」

 定刻通りに始まる。

 五百人収容の会場は、ぎっしりと満席だった。

 後方にはテレビカメラ、ビデオカメラの放列。

 白川演劇担当重役が、演目と役者を読み上げた。

 マスコミ陣には、すでにレジメが渡されていた。

「ではここで質疑応答に移ります」

 司会者が云った。

「今年の顔見世の最大の見どころを教えて下さい」

 一番前に座っていた記者が云った。

「何と申しましても、顔見世で新作の双龍寺のお芝居を上演する事です。

 これは、先だって双龍寺で一夜限りの舞踊公演がありまして、幸いにして大変ご好評をいただきました。それを元に劇化したものです。詳しくは、作者の北野先生にお聞き下さい」

「作者だって!」

 袖で見ていた僕は思わず口走った。

「双龍寺での白梅さんの舞踊は、圧巻で非常に面白かったです。

 ぜひこれを芝居にしたいと思いまして、竹松の演劇部に申しましたら、まさかの顔見世上演でして、身に余る光栄です」

「顔見世で新作の歌舞伎が上演されるのは、何年ぶりでしょうか」

「八十年ぶりです。昔は懸賞で一等になったものを上演したりしていました。これを機に、攻める顔見世といいましょうか。新作もどんどんやって行きたいと思います」

 白川重役が説明した。

「北野さんにお伺いします。何か新しい演出プランがあるんでしょうか」

「ええ色々と考えていますが、まだ固まっていません」

「あとこちらに、つけ打ちの人間国宝の清水元助師匠が控えておりますが」

「今回、顔見世にご出演をお願いしました。 どこで出るのかまだ決まっておりませんが」

 ちらっと一瞬、白川重役は国宝さんと目を合わせた。

 その後、再び視線を正面に向けた。

 居並ぶ報道陣を前に白川重役は、どこまでも冷静だった。

「では清水元助師匠、一言お願いします」

 司会者に促されて挨拶した。

「私も久し振りの都座の顔見世のつけ打ちに、今からいささか興奮しております。

 まだどの狂言(演目)に出るのかわかりません。

 けどどうせ出るんやったら、新作の双龍寺の芝居に出たいなあ」

 国宝さんが北野さんを見ながら云った。

「出てもいいですけど、師匠、毎回つけは打たないと駄目ですよ」

「ほなら遠慮しときます」

 会場から失笑と苦笑いが巻き起こった。

「清水元助師匠にお伺いいたします。

 巷では、清水さんのつけを聞くと幸せになれる。金持ちになれる。

 宝くじを懐にしのばせて、つけを聞けば当たると云われております。

 で、今度の顔見世で初日から必ず、ご自身の手でつけの音が出るのでしょうか」

 若い女性記者が聞いた。

「それは、今云うたように、ほんまわかりまへんなあ」

 再び会場は、笑いに包まれた。

「いつ、つけの音が出るかわかりまへん。そやから毎日都座に足繫く通うて下さい」

 前よりさらに大きな笑いの波が押し寄せた。

 この後、細かい質疑応答があり、無事記者会見が終了した。

 僕や国宝さんのいる控室に北野さんがやって来た。

「修行とか云いながら、最初から取材目的だったんですね」

「それは少し違うなあ。元々竹松さんから新作歌舞伎を書いてくれと云われていたんだけど、スランプに陥ってしまってねえ。少し東京を離れる事にしたんだ」

「本当ですか」

 僕はまだ疑心暗鬼の気分で北野さんを見ていた。

「本当だとも。だって双龍寺で舞踊をやるなんて、その時はわからなかった。そうだろう」

 云われてみれば確かにそうだ。

 あれは、元々堀川さんと佳子さんのデートを双龍寺でやって、その時に僕のつけ打ちを見せてはどうかと云う話が出発点だった。

 これに国宝さん、白梅さんが乗って来たのだ。

「何事も縁だよ。私が東山君や堀川さんのつけと出会ったのも縁があったからだよ」

「縁ですか」

 改めて僕は聞き返した。

「若い時は、さほど感じないけどね。この年になるとさすがに出会いは縁だと思う」

 ドアをノックして白川重役が入って来た。

「北野先生もおられましたか」

「ええ、今東山君と双龍寺でのご縁のお話してました」

「確かにご縁がありましたね」

 白川重役は僕と、北野さんの顔を交互に見ながら云った。

「有難うございます」

「本日はお疲れ様でした」

 ここで白川重役は、身体を国宝さんに向けて深々とお辞儀をした。

 次にくるっと身体を僕の方に向けた。

「修行はどうですか」

 と声を掛けてくれた。

「ええ今まで北野さんが一緒だったんで何とかやれました」

「君ならやれる。夜明けのつけ打ち。私の心の中に沁みました」

「北野さんは、もう双龍寺へは戻らないんですね」

「これから原稿を書かないとね」

「また来て下さい。お待ちしてます」

 僕は北野さんと固い握手を交わした。

 白川重役は、優しい視線を投げかけて来た。


 十月下旬、うるさい堀川さんが再び戻って来た。

 国宝さんの家でお茶を飲んでいた。

「何だか落ち着かない家になったなあ」

 ガレージ横のつけ打ちショップ店のざわめきを聞きながら堀川さんが云った。

「でもこれで、つけ打ちの事を知る人が増えればいいでしょう」

「海外公演でアメリカに行った時に、現地の通訳の奴に、つけ打ちは、(クラッパー)て云われたんだ」

「クラッパーって、つまり音を出す人の意味ですね」

「そう。確かに音を出すんだけど、ちょっと違うと思わないか」

「ええ思います」

「歌舞伎は、英語でもカブキだろう。つけ打ちも、英語でもツケウチだろう。そう思わないか」

「その国際派つけ打ちの堀川さんが店頭に立ったら、売り上げ倍増でおます」

 京子さんが出町柳の(ふたばの豆餅)を持って来て云った。

 京都人なら誰でも知っている名店である。

 外側の柔らかなお餅と中にある餡子、表面に幾つか飛び出している豆の風味がまた、香ばしくて美味しい。

 いつ行っても七、八人は並んでいる超有名人気和菓子店である。

「俺がいらっしゃいませと、揉み手しながら云うのか。勘弁してよ」

「いやあ案外人気だったりして」

「よしてくれよ。ところで今年の顔見世、新作やるって驚いたねえ。昔はやってたみたいだけど」

「八十年ぶりだそうです」

「じゃあ現存している役者、スタッフで知っているのは国宝さんぐらいか」

「僕もびっくりしました」

「うちもどす」

「劇作家の北野さんが、双龍寺にいたなんて、人は頭を丸めると人相が変わるねえ。双龍寺公演で、顔を合わせていたのになあ」

「確かに」

「確かにじゃないよ。毎日一緒にいたら気づけよ。本当に鈍感なんだから。だから女に持てないんだよ」

「はいはい持てません。堀川さんこそ、鳥羽さんとはどうなったんですか」

「そろそろ、きちんとしないとな」

「きちんととは、ついに愛の告白ですか」

「ねえねえ、愛の告白はどこでやるんですか」

 この手の話が好きな京子さんは、堀川さんの台詞に食いついて来た。

「まだ何も決まってないの」

「告白はロマンチックな所でお願いしますよ。駅の雑踏の中とか、駅の公衆トイレの前とか、駅の待合室とかやめて下さいね」

「京子さん、えらく駅にこだわりますねえ。駅で告白されたんですか」

 逆に僕は聞いた。

「はい、それも大声で云われて恥ずかしかったです」

「で、その人と結婚したんですか」

「してたら、ここにいません」

 力強く京子さんは断言した。

「確かに」

「私の事はいいから、堀川さんお願いしますよ、ロマンチックな場所」

「例えばどこがいいの」

「やる気ねえ。そうねえ」

 暫く考え込む京子さん。そして云った。

「洛中ホテル!」

「それ、京都駅の中じゃん!」


 京都では、毎月二十一日だけに行われる東寺の弘法さん骨董市と毎月二十五日だけに開催される北野天満宮の天神市は、今で云う青空マーケットで、境内には様々な物が売られていた。

 骨董品、陶器、衣類、日用雑貨、様々である。

 店を出す人間は、日本人が相場だったが近頃は、外人も多い。

 しかし、その外人も雇われが大半だった。

 東寺で、僕と利恵さん二人は、人混みの雑踏をかき分けて進んでいた。

「こっちです」

 ジェフが手を激しく振って居場所を知らせた。

「本当に見つかったの」

 息をぜいぜいさせながら、たどたどしく利恵が聞いた。

「はい、たぶん間違いないと思います」

 ジェフは、自信に満ちた視線を僕に投げかけた。

「本当に、僕のつけ析とつけ板が見つかったんですか」

 真偽を確かめる意味で、僕はわざとゆっくりと言葉を発した。

「真偽は、本人でないとわかりません。だから呼んだんです」

 午前中国宝さん宅で、散歩を終えて昼ご飯までの間、リビングで僕、利恵、輝美さん、国宝さんの四人でくつろいでいた。

 その時、ジェフから僕のつけ析とつけ板が見つかったと第一報が入った。

「誤解しないで下さい。こちらの人はあくまで売主で、供給元は別の人です」

 確かめるまでもなく、一目見て僕のつけ析とつけ板だった。

「誰が持ち込んだんですか」

 一番聞きたかった事をジェフが代弁した。

「ジェフさんに頼まれて、それらしき物が入ったんで連絡したんです。入手先は勘弁して下さい」

 日本人の売主は、頭を下げた。

 ここは骨董品屋で、ジェフの知り合いの店だそうだ。

 値札は「一万円」で、説明書きは英語とローマ字併記してある。

「スペシャル ジャパン ツケイタボード バイ クラッパー」と記されていた。

 東寺は、京都駅の目の前なので最近は外国人観光客がどっと増えた。

 僕はその場で、つけ板を地面に置いてつけ析で音を確かめるために最初は軽く叩いた。

「タンタンタン」

 劇場で打つ、つけ音とは比べ物にならないくらい、音の広がりも共鳴音もない代物だ。

 しかし、その響きは周りにいた大勢の観光客の興味を瞬時にして、心の中に引き込む不思議な音と映ったようだ。

 証拠に中国人観光客を中心に僕を取り囲み、盛んに写真、ビデオ撮影し始めていた。

 僕はそんな周りの騒ぎとどよめきなんか眼中になかった。

 それは、離れ離れになった我が子との久し振りの対面の様に、こころの興奮が渦巻いた。

「タンタンタンタン、タンタンタンタン」

 僕はひたすらつけ打ちをやっていた。

「東山君」

 何度も利恵さんは僕に声を掛けたらしい。

 それは後でわかった事で、その時は全然聞こえなかった。

 ジェフが後ろから、

「もういいでしょう」

 と云いながら僕に抱き着いた。

「わかりました、わかりました」

 ジェフは、目を瞑って泣いていた。

「許して下さい」

「何を許すんですか」

 僕は理由が分からず、聞き返した。

「全てです」

 ジェフが声を振り絞って答えた。

「何が全てなんですか」

「あなたのつけ音が、泣き叫んでいたんです」

「何と聞こえたんですか」

 うずくまるジェフに、僕は同じ姿勢を取って尋ねた。

「会えてよかったと」

「嘘でしょう。つけ音が喋るはずがない」

「でも私には聞こえました。本当に許して下さい」

 ジェフは声を振り絞って返事した。

 僕はそれ以上追及したくなかった。

 これからも一緒に仕事がしたかったからだ。

「もうそれ以上追及するな」

 いつの間にか堀川さんが僕の目の前に立っていた。

「それはわかってますよ」

 僕は即座に返答した。

「だったらすぐにつけ板をしまえ。つけ打ちは大道芸ではない」

 きっぱりと堀川さんが云い切った。

「わかりました」

 僕はすくっとつけ析とつけ板を抱えながら立ち上がって答えた。

 と同時に周囲から万雷の拍手を浴びた。

 中には、投げ銭をする外国人観光客がいた。

「ノー!」

 堀川さんが力強く叫んで、睨むとやめた。

 堀川さんの睨みは、外国人観光客をも圧倒するのだ。

 拍手の響きを背中に浴びながら僕らは東寺を後にした。

 近鉄東寺駅を目指していたら、

「京都駅まで歩こう」

 先を歩く背後から堀川さんの声が突き刺さった。

「はい」

 くるっと振り返り、僕は小さな微笑みを堀川さんに投げかけた。

「ちょっといいかな」

 と云いながら堀川さんが、僕に追いついた。

「何でしょうか」

「ジェフがお前を、おとしめてやろうと思った事は、イコールお前の誇りでもあるんだ」

「はい」

「それともう一つ」

 堀川さんは視線を僕から、自分の足元に落とした。

「何でしょうか」

 その声は自分でもびっくりするぐらい低温だった。

「くれぐれも云っておく。ジェフを責めるな」

「はい、わかってます」

「わかってるだと」

 一瞬にして堀川さんの顔色と声のトーンが変わった。

「一体何が分かっているんだよ、東山さんよ」

 堀川さんの十八番、からみ質問の始まりだった。

「お前が例えば、英語が喋れない身分で、いきなりアメリカに移送されたらどうする」

「一生懸命勉強するしかないです」

「だろう。だから奴の助け舟になってやってくれ」

「わかりました」

「あいつは、良心の呵責に耐えかねて、いわば自首したようなもんだ。本来なら全て売ってしまうつもりだったんだ。途中で気が変わってお前に教えたわけだ。なあそうだろう」

 堀川さんは振り返り、後ろからトボトボ歩くジェフに声を掛けた。

「はいそうです」

 ややうつむいてジェフは、小さな声で答えた。

 僕は国宝さんの家に着くと、報告した。

「見つかってよかったなあ」

 開口一番、国宝さんは笑いながら云った。

「普通は出て来ないもんや。ジェフよう見つけたな」

 国宝さんが、さらに突っ込んで聞かないか、冷や冷やした。

「東寺云うたら、弘法大師。真言宗のご加護があったんやろなあ。大事にしいや」

「わかりました」

 裏庭で、僕とジェフは両端に座り稽古した。

 今回の稽古は、芝居の上演ビデオ付きだ。

 庭の中央に液晶テレビを置いた。

 つけの音は入っていない。

 上演出し物は、蹴上が都座で演じた「酔酒江戸及男達」である。

 部屋から国宝さん、輝美さん、堀川さんが見守っていた。

 途中から京子さんも参加した。

「じゃあ行くよ」

 堀川さんがリモコンで、テレビとビデオのスイッチを押した。

 もちろんこの時のつけは、堀川さんである。

 どこでつけが入るかは、毎日上手舞台袖で見ていたから完璧に頭の中に入っていた。

 問題はどんな打ち方で、どんな音で、音の強弱、打つタイミングかである。

 ジェフは、まだこの狂言(演目)の事を知らないから、僕のつけを打つのを見ながら打つので、どうしても一拍遅れる。

 その事に誰も文句を云わない。

 それどころか、遅れのつけを見守っていた。

 いつもの稽古なら、いちいち止めて細かい駄目出しを出す堀川さんだったが、どう云う理由か今回の稽古は一度も止めずに終わった。

 つけ打ちにとって一番大事なのは、つけの音でもなく、タイミングでもない。

 それは役者との間合い、空気だ。

 残念ながら、ビデオではそれは見られないし、掴めない。

 国宝さんも堀川さんもビデオのない時代から、稽古を積み重ねて来た世代だ。

 しかし、毎月僅か二日ぐらいの稽古で、完璧につけを身体に染み込ませて来た。

「何故すぐに出来るんですか」

 ある日、僕は堀川さんに聞いた事があった。

「歌舞伎に対する思い入れの精神が、お前達ビデオ世代と性根が違うからな。昔はビデオがないから、テレビ番組もリアルタイムでしか見られない。繰り返し見られない。

 でもあの時見た世代は、好きな番組の主題歌や、主人公の台詞を完璧に覚えているんだ。その思い入れの精神が半端じゃないって証しだ」

 と補足説明してくれた。

 稽古の後、リビングで皆で食事をした。

「お前とジェフの一拍遅れのつけ、面白かったな」

 最初に堀川さんが感想を述べた。

「そこですか」

 僕は、自分のつけの音で駄目出しして欲しかった。

「遅れてすみません」

 ジェフが箸を休めて云った。

「久し振りに遅れのつけを見たなあ」

 国宝さんが云った。

「師匠、一つの舞台に二人のつけ打ちが同時に立つ事なんてあったんですか」

「ありましたな」

「どんな形式だったんですか」

「今と同じや。舞台の両端、上手下手に分かれてそれぞれ陣取ってつけを打ってた」

「それは知りませんでした」

 僕と堀川さんは同時に答えた。

「堀川さんでも知らない事あるんですか」

「俺は国宝さんの様に、つけ打ちの神様ではありません」

「他にどんな形式があったんですか」

 今度は輝美さんが云った。

「上手端に、細長いつけ板を出して来て、複数のつけ打ちが打った事があったなあ」

「どうして複数のつけ打ちがいるんでおます」

 皆が聞きたかった素朴な疑問を京子さんが云った。

「昔はなあ、つけ打ちもそれぞれの歌舞伎役者についていたんや」

「つまり専属のつけ打ちだったんですね」

「そうや。所作事(踊り)で例えば幹部役者が三人出て来たら、三人のつけ打ちが同時に出てつけを打ったんや」

「堀川さんと同時につけは打ちたくないなあ」

 堀川さんの横顔を見ながら、率直な感想を述べた。

「そりゃあそうだろう。俺と同時につけを打ったら、お前と俺との実力の差が歴然としているからな」

 少し唇の端に、小さな微笑みを浮かべさせて堀川さんが云った。

「いえそうじゃなくて、隣同士だと肘や肩がぶつかっておそらくつけを打つ前に取っ組み合いの喧嘩が始まると思います」

 皆笑った。

 暫く顔から笑みが途絶えていたジェフも笑ってくれた。

「お抱えのつけ打ちがなくなった事で、このやり方は、廃れたな」

「もっともっとつけ打ちを増やさないとな」

「つけ打ちが日本人だけと云うのは、もう古い。そこでジェフの出番や。しっかり頼むで」

「わかりました」

「昔のつけの方が面白いですね」

「確かにな。肩と肩が触れ合う中でのつけ打ちだろう。

 お互い必然的に闘争心と云うか、こいつに負けてたまるかと競争心芽生えるなあ。お前の云う通り、昔の方がいいなあ。もう一度復活してくれないかなあ」

「もう専属制度がなくなったから、それは無理やな」

「でも復活歌舞伎があるくらいだから、復活つけ打ちやってもおかしくないでしょう」

「やってもええけど。歌舞伎公演が増えたから、今でも人のやりくりが大変やのに、もう物理的に無理です」

 と輝美さんが宣言した。

「複数のつけ打ち復活よりも、お前の復活がさきなんだな」

 堀川さんが僕の方に視線を送りながら云った。

 一同、大きく頷いた。

(上手い事云うなあ)と思った。


 劇場でのつけ打ちが出来ないのは、相当な技量低下だと思う。

 それは、わかりやすく云えば、例えば野球選手が、球場のグランドでバッティングや守備練習出来なくて、街の中のバッティングセンターに通うようなものである。

 しかし、僕のつけ打ち修行は、遅まきながらも少しずつ前へ進んでいたと自負している。

 もう一つ進んだのがある。

 堀川さんの見合いの件だ。

「おい、お前ついて来い」

 の一言で、見合いの件だとピンと来た。

「他人のお見合いについて行くのは、趣味が悪いと双龍寺の和尚さんと執務長に云われました」

 お約束事でいつものように、反論を一応試みる。

「お前双龍寺で一生修行か、それとも俺の下で一生つけ打ちやるか。一体どっちなんだよ」

「はい堀川さんに一生ついて行きます」

 今回のデート場所は、下鴨神社だった。

 京阪電車出町柳駅で待ち合わせた。

 僕らが行くとすでに鳥羽佳子、沙織親子がいた。

「今日は、盲導犬いないんですね」

 僕は沙織さんに声をかけた。

「ええ、今日は目の調子がいいですから」

 少しはにかんだように沙織さんは答えた。

「またお邪魔虫ですみません」

「私の方こそお邪魔虫です。お母さん一人でいいものをまたついて来ました。」

 くすっと笑った。またその笑顔が可愛かった。

「そんなあ、東山さんがいてくれて助かります」

 今度は佳子さんが云った。

「こいつは、本当に虫みたいですから、虫は無視」

 堀川さんは親父ギャグを飛ばしたが誰も笑わなかった。

「そんな事云うんやおへん」

 佳子さんの真剣に怒る顔を初めて僕は見た。

「そうです。東山君もデートする所をわざわざ来てくれたんでしょう」

 沙織さんが云った。

「いえこいつには、そんな女これっぽちもいませんから」

 思わず云った口を堀川さんは、慌てて押さえたがすでに遅かったようだ。

 ますます気まづい空気が流れた。

 葵橋を渡り始める。

 ここは高野川と賀茂川が合流する所だ。

 二つの川が一つになり、鴨川となって南下して行く。

 葵橋を渡って右折。

 まっすぐに進む。

 鳥羽親子が、左手の建物を見ながら小さく叫んだ。

「どうしたんですか」

「いえ、何でもありまへん」

 二人は慌てて視線を戻した。

 さっきの視線の先には、(京都家庭裁判所)があった。

 無言の四人はさらに進む。

 前方に大きな森が見えて来た。

「糺(ただす)の森です」

 沈黙と無言に堪り兼ねて堀川さんは説明した。

「ここの原生林は、平安京以前からあるみたいどす」

「ご存じだったんですね」

「へえ」

「事の善悪を糺す(ただす)と云う語源から来てます」

「さっき見えた建物は、京都家庭裁判所どした」

「事の善悪を糺すんかあ。京都市さんも意味深な事をするんですね」

 沙織さんが答えた。

 糺の森を抜けると、鳥居を潜り中に入った。

 皆で参拝を済ませると、

「実は、今日もう一人呼んでいるんです」

 堀川さんが幾分固い言い回しで佳子さんを見つめながら云った。

「誰どすか」

 不審そうに佳子さんが聞いた。

「この方です」

 堀川さんは振り返った。

 それで僕らも振り返った。

「パパ」

 まず沙織さんが叫び、

「あなた」

 続いて佳子さんが呟いた。

「あなた、他人の見合いに来るなんて最低」

 吐き捨てるように佳子さんが言葉を続けた。

「いや誤解しないで下さい。呼んだのは俺です。鳥羽さん親子にしたら大きなくたびれたお邪魔虫でしょうけど」

 さっきの「お邪魔虫会話」に引っ掛けて堀川さんが云ったが誰も笑わなかった。

「何でそんな事しはったんですか」

「佳子さん、旦那さん、いや正確には元旦那さんですか。もっと二人できちんと話し合った方がいいと思います」

「いいえ、もうけりがつきました。あのさっき通って来た家庭裁判所で」

「裁判所ぬきでの、当事者同士の話し合いですよ」

 堀川さんが催促するように、鳥羽順一さんを見た。

 順一さんも非常に緊張しているようで、のどぼとけが何度も往復していた。

「佳子」

 その声は震えていた。

「呼び捨てはやめておくれやす。もう今はあんたとうちは、赤の他人どす」

「すまない。では佳子さん」

「何どすか」

 挑むように佳子さんは、順一さんを睨んだ。

「よ、よ、よかったなあ堀川さんのようなええ人と巡り合えて」

「そうじゃないでしょう」

 舌打ちしながら堀川さんが順一さんを睨み付けた。

「正直に云いなよ。お前さん本当に俺と佳子さんが再婚してもいいのか」

 暫しの沈黙を挟んで、

「よくない」

 最初の(よくない)の声は、小さくてどこか頼りないものだった。

「よくない!」

 今度は辺りかまわず大声だった。

「何どすか、大声出して」

 佳子さんは、少しうろたえながら云った。

「パパ、何が云いたいの」

 沙織さんの訴える目つきが、僕のこころにひしひしと迫った。

「佳子、沙織、もう一度やり直したいんだ」

「この場に及んで何どすか」

「パパ、もっと詳しく話して」

 秋の観光シーズンとあって、ひっきりなしに観光客が僕らの周りを通り過ぎて行く。

 観光客の周りは、笑いと甲高い声、楽しさのオーラが充満していた。

 一方僕らの周りは、それと正反対の重苦しい、どんよりした、人のこころを低下させる淀んだ空気がまとわりついていた。

「あの離婚調停の裁判の時は、自分の事しか考えていなかった。裁判が終わって、離婚が成立した時に思ったんだ」

「パパ、何を思ったん」

 沙織さんが一歩前へ歩み出した。

「一体何を守ろうとしたのかと。自分の保身のためだけだったんだと。結局沙織の病気の事から逃げていたんだとわかったんだ」

「もう遅い、遅すぎます」

 佳子さんが叫んだ。

「遅すぎない。充分まだ引き返せますよ佳子さん」

 堀川さんの顔から笑みがこぼれた。

「けど堀川さん」

 佳子さんはそこで、言葉が途切れた。

「俺は佳子さんと見合い、デートと云うか、それもこいつがついて来たお陰で、二人だけのデートなんてなかった」

 堀川さんは僕の顔を見ながら云った。

 僕はここで何か口を挟もうとしたが、堀川さんは手で制した。

「やり直せます佳子さん、順一さん、沙織さん」

 僕は堀川さんの制止を無視して云った。

「こいつの云う通りだ」

「パパ偉い」

 沙織さんが順一さんに駆け寄った。

「さあ佳子さん」

 堀川さんは、佳子さんを促した。

「アホ、ほんまにアホなお人やねえ。それやったら最初からそうしてたらよかったのに」

「ほんまになあ。少し回り道してもうた」

 順一さんは照れ笑いした。

「なあに人生に回り道なんてないよ。回り道した分、必ず得るものがあるからな」

「珍しく、今日はまともな事云いますね」

 僕は茶化した。

「馬鹿野郎、お前の双龍寺での修行の回り道は、一生回り道だからな。勘違いするなよ」

 久々に堀川さん節が炸裂した。

 そして皆笑った。

 皆で、楼門近くの縁結びの神様を祭る相生神社にお参りした。

「お前、彼女もいないんだから、縁結びとは関係ないだろう」

 鳥羽親子に続いて参ろうとしたら、間髪入れず堀川さんの茶々入れに遭遇した。

「これからも堀川さんとの縁をずっと切れずにと神様にお願いしようと思うんです」

「勘弁してよ」

 とか云いながら満更でもない様子だった。

 その夜、皆で祇園の「御池」に行った。

「結局堀川さんは、佳子さんに振られたんですか」

 僕は率直な疑問をぶつけた。

「またまた、蒸し返すのが好きだねえ、お前も」

「うちもそないな話好きどす」

 女将さんまで会話に入って来た。

「堀川さんは振られたんやおへん。自分が犠牲になってまでうちらの夫婦の事、考えてくれたお方どす」

 と佳子さんは云って、女将さんに今までの経過を話した。

「ほうそうどすか。堀川さん、えらい男気出さはったなあ」

「なあに、当然な事をやっただけ。だってこっちの旦那さん、かなり思い詰めて来たんだから。こりゃあ何かあるとピーンと来たよ」

「あんたそんな態度で堀川さんにおうたんどすか。その節はえらいすんまへんどした。あんたも食べてる場合やおへん。ほれ、謝りなはれ」

 佳子さんは、順一さんの箸を取り上げた。

「すんませんでした」

 口をモグモグさせながら順一さんは、頭を下げた。

「いや、もう済んだ事。さあ改めて乾杯!」

 一同は乾杯した。

 堀川さんは、コップのビールを一気に飲み干すと

「これにて一件落着」

 幾分か芝居がかった台詞を口にした。

「もう一つ落着してないもんがおまっせ」

 女将さんが言葉をつく。

「何よ」

「東山はんの事ですがな。まだ謹慎処分解けてないんどすか」

 女将さんはビール瓶を取り上げて僕のコップに注いだ。

「まだです」

 ぽつりと僕は呟いた。

「それそれ」

 堀川さんが指さした。

「何がですか」

「はいこんなに萎れています。どうか皆さん慰めて下さいのオーラが全方位出ているんだよ」

「そんな気は、全然ないです」

 僕はむきになって云い返した。

「無意識だから余計に腹が立つんだよ」

 吐き捨てるように云った。

「お前双龍寺で毎日何をやっているんだよ」

「今夜は云い返しますよ」

 僕は声高に宣言した。

 心配そうに僕らを見つめる鳥羽親子三人の視線を浴びながら云った。

「毎朝、夜は自室でもつけの練習してます」

「それから」

「都座で歌舞伎公演があれば、毎日通って堀川さんらのつけを見学してます」

「それから」

「それから・・・」

 そこで僕は言葉に詰まった。

「お前さんのつけ打ちとしての修行はそれだけのものかい」

 ここで堀川さんはぐいっと吟醸酒を呑み干した。

「すみません」

「男が気安く頭を下げるな」

「じゃあどうすればいいんですか。僕だって本当は、堀川さんの様に、一日も早く劇場でつけを打ちたいに決まってるじゃないですか。でも竹松演劇部は、それを認めてくれない」

 僕のこころの奥底に沈殿したどす黒い叫びを、両手で鷲掴みして、外の世界に思う存分、力いっぱい投げ捨てた。

「自らその事を竹松の演劇部の人間に云ったか」

「いいえ」

「何故云わないんだ」

 堀川さんは声のトーンを落とした。

 僕の周りには鳥羽親子、女将さんもいた。

 しかし、今の僕の目には堀川さんしか見えなかった。

「保身か。自分を守るためか」

 保身の言葉に、順一さんがぴくっと姿勢を正した。

「そんなものより、もっとやるべき事があるだろう」

「そしたらもし堀川さんが、東山さんと同じ境遇に置かれたらどするんどすか」

 珍しく女将さんは堀川さんの言葉に絡んで来た。

「俺だったらもっと双龍寺での修行をアピールするねえ」

「つけ打ちのホームページで、毎日出来事をアップしてます」

「それ、お前の生のつけ打ちの音が聞こえるか」

「いえ、聞こえません」

「皆ホームページやブログ、フェイスブックにツイッターとかそんな根のない事ばかりやってる」

「どう云う事ですか」

「俺達の世代は、スマホもパソコンもビデオもない時代に育った。でもなあ、本気で向き合う術は、お前らより数倍長けている。俺ならまず双龍寺に竹松の演劇部の連中呼んで、つけ打ちの独演会をやる」

「そんなつけ打ちの独演会なんて聞いた事がありません」

「だからいいんだよ。誰もやってないからこそ値打ちがあるんだよ」

「でも双龍寺公演でつけを打ちました」

「それは利恵とか他人の動きで結果的にそうなった。云わば偶然の産物だよな」

「はい」

「それは違うんだ。自分が動かないといけないんだ。自分は双龍寺でこれだけ頑張ってますと生でアピールしないと。この世界は少々目立ちすぎる程やって、丁度ぐらいなんだ」

 女将さんも鳥羽親子もふんふんと頷く。

「ちょっと今夜は早く酔ったかなあ。まあ今、俺が喋った事は、宴席での戯言だと思ってくれ。すまんな、ちょっと云い過ぎた。ごめん」

 と云って頭を下げる堀川さんだった。

「堀川さんが頭を下げるなんて珍しいですねえ」

 少し冷やかし気味に僕は云った。

「ほんまに。今夜から嵐が来るかもしれまへんなあ」

と女将さんが僕の会話に続いた。

「俺は悟りを開いたの」

「悟りて、まだ若いのに。そんなんしてたら、老けまっせ」

「うるさい!俺は嵐を呼ぶ男だぜ、このすっとこどっこい!」

「そうそう、それでこそ堀川さん」

女将の言葉に今まで緊張して見守っていた鳥羽親子にも笑みがこぼれ、ほぐれた。


























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