第3話 土曜日、再び
「そういえば新しい6年生が入ったんだって?どんな子?」
土曜日の朝、塾に向かう車の中で、父が聞いてきた。
「横浜出身の子」
「それじゃあどんな子かわからないよ、瑞稀」
「先週ずっと横浜のことについて話してたんだもん」
瑞稀は父に質問されて、そういえば今日は塾に佳菜子ちゃんも来るんだということを意識した。平日の間は無意識に考えないようにしていた先週の動揺のことを思い出さずにはいられなかった。
「お父さんもなぜだかはわからないけど、横浜出身の人は地元愛が強い傾向があるんだ。出身を聞かれたら神奈川じゃなくて横浜って答える人が多いんだよ」
「そんなに素敵な場所なの?」
「うん、素敵な街だと思うよ。お父さんは思い入れがあるわけじゃないけど。他にはその子何か言ってた?」
「2週間前にこっちに来たばかりで、まだ英語が話せなくて大変らしいよ」
「そっか。じゃあ今は辛い時期だろうね」
父はそう言って何か考え事をしているようだった。
「友達になれそう?」
父が沈黙の後におもむろにそう聞いてきた。
「うーん」
友達もなにも、これから塾で唯一の6年生同士になるから、上手く付き合わざるをえないだろうな。そんなことを思いながら質問に何て答えようか考えていたら、道路脇の駐車場から突然車線に進入してきた車を避けるために父が急ブレーキをかけたので、危ないなあという父の独り言に紛れて答えどきを失ってしまった。そうこうしているうちに塾に着いてしまった。
瑞稀が教室に入った時、佳菜子は机に突っ伏していた。
「おはよう、佳菜子ちゃん」瑞稀は自分の椅子に座りながらそう声をかけた。
「あっ、瑞稀ちゃんおはよう!」
佳菜子は体を起こして瑞稀の方を見た。笑顔を作ってはいるが、その裏には疲れの色があるように瑞稀には見えた。
「どうしたの?疲れてる?」
「疲れてるというか、学校に全然馴染めなくてさ。もう本当に瑞稀ちゃんだけが心の支えだよー。」
瑞稀はまた違和感を感じていた。私だけが心の支えなんて言われるほど、二人の間にまだ信頼関係なんて無いのに、佳菜子はどうして私にこだわるのだろう。
「学校で友達はできそう?」
「全然。だって何言ってるか分かんないし私も英語話せないし。もう本当にわけ分かんない。授業中とかなんで今私この教室で授業受けてるんだろうと思うの」
佳菜子は心底まいっているように見えた。先週よりも弱々しくなったように見える佳菜子のシルエットを見て、瑞稀は気の毒に思った。力になれるものならなってあげたいけど、でも私に何ができるのだろう。瑞稀は英語がままならないまま転校してきた中国系の子を知っているが、その子はクラスの別の中国系の子に助けてもらっていた。瑞稀と佳菜子は学校が違うから、瑞稀にはどうしようもない。
「今はまだ聞き取るの難しいかもしれないけど、そのうち慣れてきてわかるようになるから。今は辛抱だよ」
「みんなそういう風に言うけどさ、わからないものはわからないんだよ」佳菜子はそのセリフは聞き飽きたと言わんばかりに続ける。「昨日なんか、先生が私に何か聞いてきたっぽくて、でも私は分からなくてぽかんとしてたら、クラスの子が何か先生に言って、それでみんなクスクス笑い出してさ。でも私は何が起こっているかもわからないんだよ。本当最悪」
「でもそういう時って、大抵本人が思っているほどひどいことを言われてるわけじゃないんだよ。気にしない、気にしない」
瑞稀はそう言って元気づけるつもりだったのだが、逆に佳菜子の表情が曇ったような気がした。
「どうしてわかるの?」
「どうしてって…、そういうものだから…」
佳菜子の顔にはもう笑顔の面影は無かった。教室にいた他の下級生の子も何か重苦しい空気が漂うのを感じていた。
瑞稀は目の前の子が何に腹を立てているのか見極めようとした。どうやってこの空気に収拾つけようか考えた。でも考えても瑞稀にはどうしようもないことに感じた。
佳菜子は沈黙して下を向いていた。幾ばくかの時間が流れた後、佳菜子は諦めたようにため息をつくとまた無理やり笑顔を作って瑞稀の方を向いた。
「ごめん。私が英語わかんないのがいけないんだよね」
「ううん、佳菜子ちゃんが謝ることじゃないよ」
「話題を変えよう!瑞稀ちゃんは何が好きなの?」
「えーっと、ピアノを弾くのが好きだよ」
「へー、すごーい。好きな作曲家とかいるの?」佳菜子が先週のようにテンションを上げて聞く。
「クラシックだったら、ドビュッシーとかドヴォルザークとかかな」
「あーそれ名前聞いたことある。やっぱり瑞稀ちゃんってすごいね。瑞稀ちゃんは最後に帰ったのはいつなの?」
「えっ?」
瑞稀は最初その質問の意味が全く理解できなかった。帰るって…家になら毎日帰ってるけどそんなこと聞いてどうするんだろう…。そして瑞稀はハッとした。この子は最後に日本に行ったのはいつなのかを聞いていると理解した途端に、先週と同じ動揺が体を駆け抜けた。しかし、今回はその動揺がどこから来ているいるのか瑞稀はおぼろげに想像することができた。そして、その動揺の中身は不安や悲しみによって大半が構成されていることも理解することができた。
「えーっと、最後に日本に行ったのは2年くらい前かな。おじいちゃんおばあちゃんに会いに…」
「えー!?もう2年も帰ってないの?日本恋しくならない?」
瑞稀はそう驚いて話す佳菜子を聞きながら、違う、違うの、と心の中で声を発していた。佳菜子はそんなことには気づかずに続ける。
「コンビニとか超恋しくならない?私の家なんかコンビニの隣にあって、夜に一人で行ったって怒られなかったのに、こっちではそんなこと絶対できないし」
コンビニ…どこにでもあって色々なものを手軽に買えるということは知っている。でも違う、違うの。
「私、ローソンに売ってるロールケーキが大好きなの。あー、思い出すだけで食べたくなってきた。ホント今すぐ帰ってローソン行きたい」
佳菜子がそう言い終える前だった。
「わかんないよ」
まるでそれまで話していた瑞稀の声とは違う場所から出てきているかのような声が響いた。教室の前の方にいた下級生の肩がビクンと上下した。佳菜子は「えっ?」と大きく目を見開いている。
「わかんないんだよ。私には恋しんだりするほどの日本の記憶なんて無い。日本に帰る場所なんて無い」
瑞稀はそう絞り出すように言った。佳菜子はそれまで聞いたことのなかった瑞稀の強い口調に驚き、事態を把握できずぽかんと瑞稀を見ていた。
瑞稀は突然湧いてきた強い感情を抑えきれなかった。同時に瑞稀はその感情に行き場がないこともわかっていた。この怒りにも似た感情は誰に向ければいいのか。この不安の原因として何を責めるべきなのか。この悲しみにも似た気持ちをどう受け止めればいいのか。下を向いたままどうすることもできずにいると、先生が教室に入ってきた。
先生は異様な空気を感じとって、どうかしましたかと生徒たちに聞いたが、誰も口を開かなかった。そして構わず授業を始めた。
瑞稀は落ち着くために考えることをやめた。授業の間ずっと、ホワイトボードでもなく自分のノートでもなく、何ものでもない虚空を見つめていた。当然その日の授業は全く頭に入って来なかった。
佳菜子は顔を下に向けたまま、授業前に起こったことを必死に整理しようとしていた。自分が言ったことと瑞稀が言ったことを時系列に何度も頭の中で繰り返していた。
二人は休み時間になってもお互いに避けるようにして会話することはなかった。授業を全て終えると、瑞稀は足早に教室を後にして、父とのいつもの待ち合わせ場所に向かった。
その日、瑞稀は帰りの車の中でも、夕飯の食卓でも一言も自分から話さなかった。両親が何かあったの?と聞いても「別になんでもない」と答えてそれ以上の会話を拒否した。母は心配して塾に電話したりもしたが、結局何もわからず、その日は追及をあきらめた。
瑞稀は自分の部屋に閉じこもっていた。何をするでもなく、ただ机に突っ伏していた。色々なことを考えることが面倒だった。寝て起きたらもしかしたら事態はましになってるかもと思い立って、さっさと寝る支度をしてベッドに入った。しかし、ベッドに入って目を閉じても一向に眠気はやってこなかった。気を紛らわそうと好きな音楽のことでも考えようとしたが、他のことを考えることもできなかった。そうこうしているうちに家の電気が消されて両親が二人の寝室に入っていく足音が聞こえた。ドアの隙間から差し込むわずかな明かりさえ消えた後でも、瑞稀の意識は瑞稀が眠ることを許さなかった。
瑞稀がもう眠ることをあきらめて上半身を起こし、目を見開いた時にはどこの家でも明かりが消えた深夜になっていた。夕方にはどこからともなく聞こえてくるテレビの音や、どこかの家族の笑い声はその存在を消し、寝静まった街に吹く風が街路樹の葉を揺らす音だけがただ聞こえてきた。瑞稀は窓を開け放したままだったことに気がついた。窓からかすかに吹いてくる風が白いレースのカーテンを揺らし、そこから柔らかな月明かりが部屋に差し込んでいた。
そういえば昨日の月は満月に近かったな。今日は満月かな。ひんやりと頰にあたる夜風を感じながら、瑞稀は両親と行ったキャンプの夜を思い出した。あの時も寝袋で寝ることに慣れず、深夜に目を覚ましてしまった。外の様子をうかがおうとテントの入り口を軽く開けてみると、そこから満月の月明かりが差し込んできた。あの時はキャンプ場を囲む平原から聞こえてくるコオロギの大合唱が、大自然の真ん中にいることを感じさせた。街灯も何も無い場所でも、月明かりだけでこんなに世界が見えるんだということを瑞稀はそこで初めて知った。
あのキャンプ楽しかったなあ。セコイアの木も見れたし。瑞稀は想像の中で、柔らかな月明かりが照らす平原にもう一度自分の身を置いてみた。平原のずっと先に見える山肌も月に照らされて淡い白に光っている。平原の草を撫でるように揺らしてきた風が瑞稀の体も包む。虫たちが風に合わせて唄っているようだった。
ケンにも近いうちにセコイアの木を見る機会が訪れればいいな。教室でピーターと三人で話していた時に実物を見たいって言ってたし。そうやってケンのことを考えていた時、「日本語を話したり読み書きしたりはできないんだ」と打ち明けるケンの顔が突然フラッシュバックした。あの時の悲しみを裏に秘めた、ひょんなきっかけで泣き出してしまいそうなケンの顔が思い浮かんで、気がついたら瑞稀はベッドの上で泣いていた。日本語を聞いて意味を理解できるということは、ケンの両親は幼いケンに日本語で話しかけていたはず。でもケンは、ある時点で日本語を話すことをやめてしまったんだ。実際に何が起こったかはわからないけれど、日本語を捨てるに至った過程でケンが経験したであろう苦悶のことを考えて、瑞稀は泣いた。
それから本当に落ち込んだ様子で、しきりに日本に帰りたいと話す佳菜子の姿が頭に浮かんだ。「同じ日本人としてよろしくね!」と無邪気に話していた佳菜子に対して、今日「わかんないんだよ」と突き放してしまったことを思い出すと、また行き場の無い悲しみが襲ってきて、涙があふれてきた。
私は”なにじん”でどこから来て、どこに行くんだろう。どこに帰ればいいんだろう。瑞稀は自分がどこにも根ざしていないと感じた。生まれた場所であるイギリスの風景はテレビや本でしか目にしたことがない。その後に過ごしたオランダも日本も東海岸も西海岸も、電車の車窓から見えるどこかの街の風景みたいに感じられた。瑞稀は自分のことを、持ち主の手を離れて行くあてもなく漂っている風船みたいだなと思った。太陽は沈みかけていて、暗闇が飲み込みつつある広大な海に向かってどんどん風で流されている風船が思い浮かんだ。
やがて泣きつかれると、眠気がやってきて、瑞稀はまた体を横にした。窓は開いたままだったが、風が思いのほか心地よかった。涙が枯れてしまった後では、どうしようもないことを深く考えすぎるのも疲れるだけかなと思えた。「誰がそんなこと気にするんだよ」とピーターは言う。考えたって私には「帰る」ところなんて無いんだ。でも両親も友達も好きだし、それにもしかしたらいつか、私にも帰りたいと思える場所ができるかもしれない。できるといいな。
来週塾に行ったらまず佳菜子ちゃんに謝ろう。大丈夫、きっと友達になれる。そう考えながら眠りにつく瑞稀の部屋には、寝静まった世界を温かく見守るように照らし続ける月明かりが差し込んでいた。
「瑞稀ちゃんはどこ出身なの?」 荒河 真 @truearakawa
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