「瑞稀ちゃんはどこ出身なの?」
荒河 真
第1話 土曜日
「瑞稀ちゃんはどこの出身なの?」
佳菜子が屈託のない笑顔で瑞稀を覗き込むようにそう聞いた時、瑞稀は固まった。瑞稀は自分が動揺しているのを感じた。これまで同年代の子にそんなことを聞かれる経験が無かったからか、どういう風に答えればいいのか分からない。
生まれたのはイギリスだ。でもイギリスに住んでいた記憶なんてこれっぽっちもない。瑞稀が持っている最初の記憶はオランダでのものだった。確か2歳から3歳の頃オランダにいて、その後3年ほど日本に住んでいたはず。小学生になると同時にアメリカに移住して、現在の小学6年までずっとアメリカにいるから鮮明な記憶のほとんどはアメリカでのものだ。小学4年の時に東海岸から西海岸に引っ越すというイベントもあったけれども。
「えーっと、私生まれたのはイギリスなんだ。でも色々な国を転々としているから、イギリスにいた頃の記憶は全然無いんだけどね」
「イギリス生まれ?すごーい!じゃあ親もイギリス人?」
「ううん、お父さんもお母さんも日本人だよ」
「へえ、そうなんだ。でもイギリス生まれってなんかかっこいいね。いいなあ」
そう言ってテンションを上げる佳菜子に、なるべく自然に見えるように微笑みを返しつつ、瑞稀は今自分が陥っている動揺を抑えようとした。気付けば手汗もかいていた。
瑞稀は平日に通っている現地の小学校とは別に、土曜日に日本人向けの補習塾に通っている。将来日本に戻った時に困らないようにと、日本語での読み書きや、日本の社会の授業を補習塾で受けている。個人経営のこの小さい塾では、小学校高学年の生徒十数人が一つの教室で一堂に会している。アメリカでの日本人向けの塾という性格上、生徒の入れ替わりは激しい。瑞稀が小学校4年の時に引っ越してきた時、この塾には三人の同じ4年生がいた。5年生に上がる頃にはそのうち二人が日本に帰国した。一人新しい5年生が参加したけど、その新しい子も元からいた子も5年生が終わる頃に帰国し、6年生に上がったのは瑞稀一人だけだった。そんな時に新しく塾に入って来たのが佳菜子だった。
「横浜は良いところだよ。お父さんもお母さんも横浜の出身で家族揃って横浜ラブ!って感じなの」
瑞稀が突然の動揺を抑えようと試みていたところ、佳菜子は自分から故郷の横浜について語り出した。その間に心を落ち着けようと瑞稀は深呼吸した。いつもの教室でいつもの休み時間を過ごしているだけだと自分に言い聞かせた。
「夜景とかホント最高だよ。街並みもキレイだし。すごく都会なんだけど海がすぐ近くにあって潮の香りがするの。街行く人もみんなおしゃれでショッピングにもめっちゃいいところだよ。湘南とかのビーチも割と近くて夏になったらしょっちゅう行ってたなあ。あーー横浜に帰りたい!」
横浜への思いが溢れてきて止まらない様子の佳菜子の横で、瑞稀は先ほど唐突に襲ってきた動揺は何だったのだろうと考えていた。英語でどこから来たの?(Where are you from?)と聞かれる時は絶対に狼狽えたりなんかしないのに。佳菜子がさっき「どこの出身なの?」と投げかけた質問には「Where are you from?」とは違う何かが含まれていたような気がする。
「本当はアメリカなんかに来たくなかったのにな。お父さんが転勤するからって私まで横浜を離れなきゃいけないなんて超理不尽じゃない?」
「まあでも、小学生が一人で住むのは難しいでしょ?」
「それもそうなんだけどさあ。でも突然アメリカに連れてこられてアメリカの小学校通わされるとかマジ意味わかんなくない?みんな何言ってるかさっぱり分からないし。Japanese pleaseって感じ」
そのうちわかるようになるからと瑞稀は苦笑しながら返す。佳菜子は渡米前に英会話教室に通わされてはいたが、父親の転勤が急に決まったこともあり、英語で日常会話もままならない状態だった。小学校1年からアメリカにいた瑞稀にはその悩みは共有できなかった。
「でもこの塾で瑞稀ちゃんに会えて本当に良かったよ。日本語で話せる友達ができて安心した。これからも同じ日本人としてよろしくね!」
佳菜子は絞りたての100%オレンジジュースみたいにありのままで爽やかな笑顔を向けた。それを受ける瑞稀の心には違和感が残ったままであり、瑞稀は心の底から笑顔を返すことができなかった。同じ日本人として…?この子は私に何を期待しているんだろう…。
その日の塾が終わり、いつも通り迎えに来た父が運転する車の中でも、瑞稀は悶々とした思いを抱えていた。父はそんな瑞稀の思いなどつゆ知らず、ラジオから流れてくる曲に合わせてハミングしていた。
土曜日の補習塾に通った後は、車で日系のスーパーに寄って買い物をしていくのが二人の習慣だった。その日もいつも通り駐車場に車を止め、二人でスーパーに向かった。自動扉が開いてスーパーの中に入ると、日系スーパー独特の匂いが人々を迎え入れる。アメリカの普通のスーパーでは決して感じることのない、漬物だとかおにぎりだとかから来る匂いだ。棚には日本の商品がずらりと並ぶ。日本語がこんな密度で見られる場所は、市内では日系の本屋とこのスーパーぐらいだろう。客は日本人に限らず、中国系や韓国系に加えて様々なアメリカ人が日本の食材を求めてやってくる。
父は母から頼まれた買い物リストを携帯電話に表示させながら、一つ一つ商品をかごに入れていく。一通りリストのものを揃えると、父はいつも自分用に日本の缶ビールとするめいかなどのつまみを買う。父は平日仕事を終えて帰宅すると、その缶ビールをプシュと開けて飲み、満足気な顔をする。瑞稀はそんな父の横からつまみをくすねる常習犯だった。
佳菜子との一件があったからか、その日の瑞稀には何となく、いつも通りの風景がいつも通りに見えなかった。思えばビールなら家の近所のスーパーの方がはるかにたくさんの種類のビールを安い値段で売っている。つまみだって、あたりめは近所のスーパーにはないけど、ビーフジャーキーとかナッツ類じゃダメなのだろうか?
日系スーパーから家に帰る車の中で、瑞稀は父に問いかけてみた。
「ねえ、なんでお父さんはいつも日本のビールを買うの?近所のスーパーのビールはまずいの?」
「えっ?何がまずいって?」突然の問いかけを一度に聞き取れず、父はラジオのボリュームを下げながら耳を後部座席に向けるように首を少し傾けた。
「何で近所のスーパーのビールじゃなくて日本のビールを買うのか聞いたの」
「ああ、何だそんなことか。アメリカのビールも美味しいよ。種類も多いし、むしろアメリカのビールの方が日本のより好きって人も多いんじゃないかな」
「じゃあ何でよ」
「うーん」父は少し考えているようだった。「日本のビールの味がお父さんの体に染み付いているからかな」
「ああ、お父さんからする変な匂いはそれだったんだ」
「ええぇ?そういうの全然冗談に聞こえないからやめてくれよ」と父が言うと二人は一緒になって笑う。
「こういうのは理屈じゃないんだよ」父は言い直す。「アメリカのビールに切り替えようと試してみたこともあったけど、結局日本のビールに戻ってきちゃうんだから」
俺もつくづく日本人だなとぼやくように言う父が、遠くを見つめるような表情をしたのが、後部座席にいる瑞稀にも見えたような気がした。窓の外を見ると、西海岸特有のヤシの木が道路脇に並んでいて、その背景にからりと乾いた青空が広がっている。
「私は”なにじん”なの?」と独り言を言うようにぼやいた瑞稀の一言は、しっかりと父の耳に届いていた。
「瑞稀は日本人だよ」と父が答えるまでには、やっぱり少し考える間があった。
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