第2話 月曜日
「よおミズキ、元気?」
ロッカーの中を眺めながら今日一日必要なものが何かを考えていると、後ろからケンの声がした。瑞稀は週末のあいだ日本語モードだった頭を英語に切り替えた。
「悪くないよ。週末はどうだった?」瑞稀は肩越しにケンを見ながら答えた。
「俺たちのチーム、圧勝だったんだぜ。もう最高だよ。お前も見にくればよかったのに」
「勝ったんだ。よかったね!スコアは?」
「42対19。誰も俺たちを止められないよ。誰もね」
スコアを聞いてみたものの、バスケにそれほど興味もない瑞稀にはそれがどれほど凄いのかはよく分からなかった。瑞稀はロッカーから必要なものを取り出し、ケンの試合中の武勇伝を聞きながら教室に入る。教室の入り口付近にたむろしているグループからは中国語の会話が聞こえてきた。クラスの4分の1ほどの人数を占める中国系の子たちは学校でも構わず中国語で会話する。
「次も勝てるといいね」瑞稀は自分の机に教科書を置いて、ケンの方へ向き直った。
「勝つに決まってるだろう。さっきも言ったように、誰も俺たちを止められないんだよ」
大げさなジェスチャーをまじえて自信満々に話すケンは、ノースリーブのTシャツを着ていて、日に焼けた肩と腕が露出している。
瑞稀とケンは4年生の時に同じクラスになって以来、こうしてよく会話する仲だ。ケンの本当の名前はケンスケというのだけど、誰もが「スケ」を省いて呼んでいて、本人もそれを奨励している。実のところ瑞稀もケンの本当の名前に「スケ」がついていることを出会ってから1年間知らなかった。
ケンは日本人の顔をして、日本人の名前を持っているけれども、アメリカ生まれのアメリカ育ちだ。瑞稀が4年生の時にこの小学校に転校してきた時、ケンはたまたま隣の席だった。瑞稀が学校のことを色々と質問して会話しているうちに仲良くなった。お互いに日本の名前を持っていることを意識しないわけでは無かったが、二人は出会った時から常に英語で会話している。
瑞稀は一度ケンに日本語がわかるのか聞いてみたことがあった。ケンは、聞き取って意味を理解することは可能だが、話したり読み書きはほとんどできないと答えた。そう答えるケンの顔が、明らかにこれ以上この話題について話したくないという顔だったので、瑞稀はそれ以来ケンに日本語のことを聞くのは避けている。ケンは親のこともほとんど自分から話そうとしない。
「おはようミズキ、ケン。調子はどうだい?」
ピーターがあくびをしながらやってきた。ピーターは瑞稀のひとつ前の席だ。
「あなた髪の毛がボサボサなの気付いてるよね?また寝坊したの?」てっぺんから後ろにかけて所々もこっとしたブロンドの髪を眺めながら瑞稀が返す。
「わかってるわかってる。今日は1秒でも長く眠っていたかったんだよ。疲れてたしね」
そう言ってピーターはどすんと自分の席に座り、90度椅子の向きを変えて瑞稀とケンが見えるようにした。その青い眼が、今にも閉じられんとするまぶたと戦っているような様からも眠気が見て取れる。スクールバスでも爆睡していたんだろう。
「どうせまた遅くまでテレビゲームでもしてたんだろう」ケンがからかうように話す。
「違うよ。週末家族でキャンプに行っててね。昨日もたくさん歩いたんだよ」
「お前どうせ帰りの車の中でも爆睡してたんだろう。どれだけ寝たら気が済むんだよ」
「ケン、わかってないよ。車の中での眠りとベッドの上での眠りは違うんだよ」
「へーそうかい。どんな風に?」ケンがいたずらっぽく聞き返す。
「車の中の眠りは、言うなれば受動的な眠りなんだ。ベッドの上での積極的なものとは質的な違いがあるんだよ」ピーターは声色を変えて理科の教師の真似をしながらそう話す。自分で笑いそうになるのをこらえながら。
「それはそれは深い見識をお持ちで、ピーター博士」
そうやってふざけあいながらピーターとケンはゲラゲラ笑っている。瑞稀も横で笑っている。
「そんなことより聞いてくれよ」ピーターが笑いを引きずりながら言う。「キャンプ先で超巨大な木を見てきたんだよ。地球上で最も大きな生物なんだよ」
「セコイアの木?」瑞稀も何ヶ月か前に両親とキャンプに行った時に見たことがあった。
「そうそう。よく知ってるね。あれはすごく感動したよ。こんなに大きい生物がいるもんなんだってね」
「写真で見たことがある気がする。俺も見てみたいなあ」とケンは言った。
「絶対に見るべきだよ。ただ圧倒されるから。それに知ってるかい?古いものは樹齢1600年にもなるらしいんだよ。”1600年”だよ?想像できるかい?」ピーターはFで始まる単語をつけて強調しながら興奮して話す。
「1600年前に人類は何をしていたの?」ケンが問いかける。
「さあね。狩猟でもしながら洞窟で暮らしてたんじゃない?どうなの、ミズキ?」ピーターが適当に瑞稀に話を振る。
瑞稀は以前読んだヨーロッパが舞台の歴史小説のことを思い出していた。1600年前というと西暦400年くらいだから、洞窟で暮らしていることはないだろうと見当がついた。
「ヨーロッパではローマ帝国があった時代だから、それなりに文明的な暮らしもしてたんじゃないかな」
「アメリカ合衆国は建国してまだ200年ちょっとだから、この辺りはまだインディアンが暮らしてたはず」ケンが俺も知ってるんだぞと言わんばかりに瑞稀に続く。
「ケン、それくらいは俺も知っているよ」ピーターがちょっとバカにするように言う。
なんなんだよとケンはふてくされる。
「日本はどうなの?」ピーターが二人に問いかけた。
瑞稀はケンの周りの空気が一瞬張りつめるのを感じた。
「俺はアメリカ人だから日本のことなんか知らない」ケンが言い放つ。
「どうなの、ミズキ?」ピーターがそれならばと瑞稀に問い直す。
瑞稀は今度は補習塾でやった社会の授業を思い出していた。大化の改新とやらが西暦600年くらいだった気がする。その前は…古墳時代?確か弥生時代に大陸から稲作が伝わったんだっけ。
「日本もすでにそれなりに文明的だったと思うよ。その頃にはもう田んぼでお米を作ってたはず」
「じゃあもう寿司を作れるね。サムライはいたのかい?ニンジャは?」
「知らないよ」瑞稀は苦笑しながら返す。「いたかもね」
「どっちにしろ俺は感動したんだよ。1600年ものあいだ、根をがっしりとはって同じ場所に居続けて、それであんなに巨大に成長するなんてね。格別な体験だったよ」
瑞稀は1600年前に田んぼで農作業をしている先祖を想像してみた。同じ頃アメリカ大陸でひょっこりと芽を出したばかりのセコイアの木を想像してみた。でもそれは小説の中の風景みたいで現実味が無かった。
「それからミズキ、お見事だったよ。ミズキはいつも正しい答えを出してくれるって分かってたよ。さすがアジア系だ」ピーターが感心しながら言った。
「アジア系ってどういう意味?」瑞稀が聞き返す。
「わかるだろう?テストでいつも高得点をかっさらっていくミズキとかあいつらのことだよ」そう言いながらピーターは入り口付近にいる中国系の子たちを見た。「あとそこの君」
俺はアメリカ人だからとケンはさっきと同じことを繰り返した。
「でも私はイギリスで生まれたんだよ?」瑞稀はわざと困らせるかのように言った。
「あーわかったわかった。君たちは複雑すぎるよ」ピーターはもうたくさんだといった様子だ。
「正直ねえ、ミズキ、誰がそんなこと気にするんだよ」ピーターは続ける。「君がイギリス人だろうが日本人だろうがネアンデルタール人だろうがそんなこと俺にはどうだっていいね。確かなのは、ミズキは物知りでいつも正しい答えを知っているということだよ。それからケンは汗臭いということ。それが俺にとって大事なことだよ」
お前喧嘩売ってんのかとケンはふざけてピーターに突っかかっている。
瑞稀はまたいつもの一週間が始まるんだなと思っていた。目の前でじゃれあっているブロンドと黒髪の少年たちも仲が良くていいねえ。そんなことを思っていた瑞稀の頭では、土曜日のことはすっかり意識の外に追いやられていた。
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