可愛い嘘

「は、春光さん!? どうしてここに!?」


 英語の宿題を二人で協力して全問解き、夕刻になって図書館から出ると、図書館の前の青葉繁る大木の下に春光が立っていて、楓は驚いた。

 今回こそは私のほうがドキリとさせてやろうと思っていたのに、不意打ちを食らって楓の心臓はドキドキしてしまう。


「楓ちゃん、がんばってね」


 柊子は楓にそう耳打ちすると、すたこらさっさと楓を置き去りにして自分だけ帰ってしまった。


「お嬢様、勉強お疲れ様です。暗くなってきましたので、心配でお迎えにあがりました」


「そ、そう。ありがとうございます……」


 春光は普段は意地悪なのにたまにこうやって楓にとても優しくしてくれる。

 何だかずるい、と楓は思ってしまう。


「では、日が暮れないうちに帰りましょう、お嬢様」


 楓が勉強で疲れているだろうと気遣ってくれているのか、春光の言葉はいつものからかい口調ではなく、深く心に染み入るような優しい響きである。


 楓が無言で頷くと、二人は数歩距離をあけて歩き始めた。

 若い男女が外で肩を並べて歩くのははしたないし、口うるさい女学校の先生に見つかったら叱られてしまうだろう。そういった理由で、二人のことを知らない人が見たら赤の他人がたまたま同じ道を歩いているように見える程度の距離を保っているのだ。


「…………」


「…………」


 夕闇に沈む街を歩きながら、二人とも黙りこんでいる。

 こういう沈黙が流れる時間は緊張するから嫌だなと楓が思うと、前を歩いていた春光が振り返ってニコリと笑った。


「お嬢様。なるべくガス灯の下を歩いたほうがいいですよ。お嬢様は昔からよく転んで泣きべそをかいていましたからね」


「な、何年前のことをおっしゃっているのですか!」


「くすくす……。すみません」


(あっ…………)


 ガス灯の明かりの下、楓の瞳に映る春光の顔は柔らかで、大切なものを愛でるような優しい微笑だった。


(もしかして、春光さんも、柊子ちゃんが言っていたように、私のことを想ってくれているの……?)


 そう思うと、だんだん勇気が湧いてきた。今なら、彼に自分のとっておきのエイプリルフールの嘘をつけるかも知れない。


 柊子は、去年のクリスマスの夜に許嫁の従兄いとこに思い切って自分の想いを告げたそうだ。それ以来、二人は大人たちに内緒でランデブー(デート)をたまにしているらしい。おっとりしているように見えて、柊子は意外と芯の強い女の子なのである。


 でも、楓には面と向かって「あなたのことが好きです」と言える度胸なんてない。男女七歳にして席を同じうせずという教育のもとで育ったこの時代の女の子のたいていがそうだが、同世代の女学生たちに比べても奥手のほうの楓ではなおさら無理だった。


(……だから、年に一度のエイプリルフールにかこつけて、嘘に自分の想いをこめてみよう)


 ついに意を決した楓は、「き、今日はエイプリルフールでしたわね」と少々裏返った声で春光に言った。これは、大事な前振りだ。


「……ああ、そういえば、そうでしたね」


 葵に騙された楓のことを笑っていたくせに、春光はたったいま知ったみたいなとぼけた口調でそう答える。たぶん、察しのいい彼は今から楓が何かしらの嘘をついても、その言葉とは真逆の意味に解釈することだろう。わざわざ「今日はエイプリルフールでしたわね」と前もって言ったのだから、馬鹿でも分かる嘘だ。


 その馬鹿でも分かる嘘を、楓は大きく深呼吸した後、一世一代の覚悟で言った。


「ま、毎年、毎年、春光さんにはたちの悪い嘘ばかりつかれて、私は大変ですわ。そ、それに、あなたはいつも意地悪で、奉公人のくせに態度も大きくて、私を小馬鹿にするんですもの……。それなのに、たまにびっくりするぐらい優しいし……」


「……お嬢様?」


 いったい何が言いたいのだろうと思った春光が首を傾げる。でも、楓は、耳まで真っ赤にしながら、構わずに言葉を続けた。


「わ、私……そんなあなたのことが大嫌いですっ!!」


 楓が声を震わせてそう告げた後、二人の間にしばしの沈黙が流れた。春光は大きく目を見張り、顔を背けながらもじもじしている楓を凝視している。そして、やがて春光は、



 その場に崩れるように、がくりと膝をついた。



「え? え? 春光さん!? な、何? もしかして、落ちこんでいますの!? ど、どうして?」


 全く予想していなかった展開に楓はおたおたとしながら、ぶるぶると肩を震わせている春光に声をかける。


「どうしてって……。お嬢様に『大嫌い』と言われたら、落ちこむに決まっているじゃないですか。これでも俺はお嬢様の許嫁なのに……」


 嗚咽しながら春光は自分の悲しみを訴える。


 どうやら彼は人をからかうのは得意だけれど逆に嘘をつかれたら見抜けない人間だったようだと思った楓は、


(ああ、どうしましょう、どうしましょう……。私なりに可愛い嘘をついたつもりだったのに、春光さんの心をえぐってしまったわ)


 と焦って、自分まで泣きたくなってきた。


「ご、ごめんなさい、春光さん。泣かないで……。私、さっきの言葉はエイプリルフールの嘘のつもりだったの。頭のいい春光さんなら、嘘だって簡単に分かると思って……」


 すっかり動転してしまっている楓が涙ぐみながらそう言うと、春光は顔を伏せたまま「つまり、さっきのは嘘だったということですか?」とたずねた。


「え、ええ、もちろんよ」


「それはよかった……。ところで、お嬢様。『大嫌い』の反対の言葉って何でしたっけ?」


「そんなの決まっていますわ、大好き――」


 そこまで言って、楓は気がついた。


 いつの間にか、春光がニヤニヤ笑いながら自分を見つめていることに。


「だ、騙しましたわね! 春光さん!!」


 素っ頓狂な声で、楓は叫んだ。


 春光は落ちこんだふりをしていただけだったのだ!

 楓に「大好き」という言葉を引き出させるための嘘泣きだったのだ!


 しまった、今年のエイプリルフールもしてやられた!


「騙しましたわね! 騙しましたわね! 騙しましたわねーーーっ!!」


「ち、ちょっと、お嬢様! 通行人たちが見ていますから落ち着いてください!」


 まんまと術策にはまって悔しい楓は、商家のお嬢様という立場も忘れて、小さな子供みたいに春光をポカポカと殴り始めた。


 春光はぜんぜん痛くはないが、花の女学生が若い男に殴りかかっている光景を見た通行人たちが眉をしかめて「最近の若い者は……」と嘆きながら通り過ぎて行く。

 知り合いにでも見られたらお嬢様の名誉に傷がつくと思い、さすがに焦った春光は「ごめんなさい、ごめんなさい」と苦笑しながら謝って何とか楓を落ち着かせた。


「はぁはぁ……。な、何度謝っても許してあげませんわ。わ、私の一世一代のエイプリルフールの嘘でしたのに……。あなたはいつもそうよ、私に意地悪ばかりして……!」


「本当に申し訳ありません、お嬢様。白状しますと、プンスカ怒るお嬢様があまりにも可愛いので、ついつい意地悪をしてしまって……」


「え……?」


「毎年、エイプリルフールの日にお嬢様に嘘をついていたのも、お嬢様に構ってもらいたかったからなのです。それに、俺は今はまだ奉公人という立場ですから、旦那様の娘さんに声をかけるための口実が欲しかったのですよ」


 そういえば、春光は竜田家の人間や同僚たちが近くにいる時は、楓にちょっかいをかけてこない。いくら許嫁でも、奉公人がお嬢様と親しく言葉を交わしていたら、快く思われないはずだと春光は考えていたのだ。だから、毎年四月一日はエイプリルフールにかこつけて楓をからかい、コロコロと変わる楓の可愛い表情を楽しんでいたのである。もっと、楓に近づきたくて。


 そんな春光の気持ちがようやく分かった楓は、今までされてきた意地悪も何だか愛おしく思えてくるのであった。一部、シャレにならない意地悪もあったが。


「……でも、どうして今年は、私が仕掛けるまでは何も嘘をつかなかったのですの?」


 ふと疑問に思い、楓が小首を傾げながら問うと、春光がバツの悪そうな顔で「実は……」と言った。


「去年のエイプリルフールで、俺が芥川龍之介と菊池寛が家の前で殴り合っていると嘘をついて、お嬢様は屋敷を飛び出して往来で『芥川龍之介と菊池寛はどこ!? どこなんですの~!!』と大騒ぎしたじゃないですか。その騒ぎを知った奥様が、『私の娘は何でも真に受ける性格だから、ああいう悪戯はやめてちょうだい』とおっしゃられて、エイプリルフールにお嬢様に嘘をつくことを禁止されてしまいまして……」


「え、えええぇぇ……。そんな理由だったのですか……」


「はい。しかし、お嬢様があまりにも可愛らしい嘘をおっしゃったので、つい奥様のお言いつけを破ってしまいました。……でも、もうこれでエイプリルフールの嘘は終わりにしないといけませんね。去年みたいに、俺の嘘のせいでまたもやお嬢様が往来で恥をかいてしまいましたから」


 春光は、ちょっと残念そうに言い、頬をぽりぽりとかいた。


「あら、私は来年も嘘をつかれたいわ。クスリと笑えるような可愛い嘘なら」


 楓は春光の寂しそうな顔を愛おしげに見つめ、そう言う。


「クスリと笑えるような可愛い嘘ですか? たとえば……」


「ねえ、春光さん。見て、見て。もう四月なのに雪が降り出したわ」


 楓が空を指差すと、春光は「え?」と驚きながら夕闇の空を見上げた。しかし、雪なんて一粒も降っていない。


「お嬢様、雪なんか……」


 春光がそう言いながら振り返ると、頬を指でツンと突かれた。楓は上目遣いでニコッと微笑んでいる。


「こういうささやかな嘘なら、私も大歓迎ですわよ?」


「なるほど……。たしかに可愛いですね。今回ばかりはお嬢様にしてやられました」


 二人はしばらく見つめ合った後、クスクスと笑い合った。


 ひとしきり笑って満足すると、二人は再び夕暮れの道を歩き出した。さっきと同じように、他人のふりをして数歩距離をあけて歩いていたが、二人とすれ違った通行人の男は、


「やれやれ、こんな時間に若い男女が逢瀬とは。近頃の若者は慎みというものがないから困る……」


 などと独り言を言い、どう見ても恋仲の青年と少女にしか見えない温かな雰囲気を醸し出している二人を睨むのであった。





            🌸🌸🌸おしまい🌸🌸🌸





最後までご覧いただき、ありがとうございました!

あなたも、エイプリルフールの日に、誰かにちょっと可愛い嘘をついて、笑い合ってみませんか?


ちなみに、この物語で登場した風花柊子が主人公の『大正十年のメリークリスマス』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054882205552)もカクヨムで掲載していますので、よかったらご覧ください。

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大正十一年のエイプリルフール 青星明良 @naduki-akira

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