牡鹿の姉

牡鹿の姉 前編

 姉の背に揺られて、山道を歩いていく。

 姉の額には立派な二本の角が生えていて、その下半身は四本足の鹿だった。



 物心ついた頃には、父はいなかった。理由は知らないが、離婚したのだということは幼心にも理解していた。


 六歳になった頃、母は再婚した。新しい父には連れ子がいて、僕はその日、初めて彼女に引き合わされたのだ。


「はじめまして、りくくん。わたしは要(かなめ)。りくって呼んでもいいかな?」


 彼女は中学生のお姉さんだった。髪は肩ぐらいの位置のおかっぱで、身長はそれなりに大きい。服装はセーラー服で、スカートは長め。そして――彼女の額には立派な角が生えていた。


 枝分かれした巨大な角だった。色は薄いクリーム色をしていて、その長さは、お姉さんの頭二つ分ぐらいはあったと思う。


 その異様さに言葉を失ってしまった僕は、差し出された手も取らず、その角を見上げることしかできなかった。




 その夜、引っ越しの荷物を片付けているお姉さんの部屋を僕は覗き込んだ。見間違いじゃない。段ボールから服を出しているお姉さんの額には、やっぱり二本の角があった。


「あれ、りくくん。どうしたの?」


 振り返ったお姉さんに、僕はおずおずと尋ねた。


「ねえ、おねえちゃん。おねえちゃんにはどうして角があるの?」


 お姉さんは驚いた顔をした後、「これが見えるの?」と小さく呟いた。


 僕が頷くと、お姉さんは顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。


 ぼろぼろとあふれてくる涙に動転した僕は、お姉さんの腕にしがみついた。


「ごめんなさい、泣かないで、おねえちゃん」


「ううん、違うの。りくくんは悪くないの」


 涙を拭いながらお姉さんは言った。だけど拭ったそばから涙はあふれてきて、僕は訳が分からないながらもとにかく彼女を慰めないとという気分になっていた。


「うん、ごめんね、お姉さん、びっくりしちゃって。ごめんね」


 抱きついてきたお姉さんを抱き止める。背の低い僕に縋り付くようにして、お姉さんは声を殺して泣き続けた。



 一週間と経たず、僕とお姉さんは打ち解けた。お姉さんは僕のことを「りく」と呼ぶようになり、僕はお姉さんのことを「おねえちゃん」と呼ぶようになった。要おねえちゃんは名実ともに僕のおねえちゃんになったのだ。


 でも、おねえちゃんは角の秘密について、僕には何も教えてくれなかった。だから僕は、自分であの角について調べることにした。


 買ってもらってそのままだった動物図鑑を引っ張り出してきて、写真とにらめっこする。おねえちゃんの角は、まず斜めに伸びた後、天に向かって枝分かれしている。僕は注意深く動物図鑑をめくっていき、おねえちゃんとおんなじ角の持ち主を見つけた。


 おねえちゃんの角は鹿の角だった。それもとても大きくて立派な種類の鹿の角だ。


 僕は首を傾げた。


 でもおかしなことが一つあるのだ。だって鹿の角は――


「りくー。お風呂沸いたから入りなさーい」

「はーい!」


 母の呼ぶ声に図鑑を閉じて、本棚にしまう。一階にばたばたと降りていって、服を脱ぎ散らかす。そうして湯船につかっていると、風呂場の外からおねえちゃんの声がした。


「りくー? 一緒にお風呂入ってもいいー?」

「お、おねえちゃん!?」


 慌てて湯船から立ち上がり、風呂場のドアを押さえる。


「だめ! えっち! 入ってこないで!」


 子供だけれど、それぐらいのことは僕にも分かっていた。擦りガラスの向こう側に立つおねえちゃんの姿から目を逸らしながら僕は叫んだ。


「お、おねえちゃんは、女の子なんだから! そういうことしちゃだめだよ!」


 するとおねえちゃんは途端にドアを開けようとする手の力を抜いて、一歩後ずさったようだった。


「そう、そうだよね。ごめんね、りく」


 その時、おねえちゃんが悲しそうな声になった理由を、当時の僕はまだ知らなかった。



 僕たちが住んでいたのは、森に囲まれた小さな町だった。


 特に僕の家は山のすぐそばに建っていて、裏口から出てすぐに森が広がっているような場所だった。おねえちゃんはよく僕とそこで遊んでくれた。


 その日も僕はおねえちゃんと遊び、前日が雨だったこともあって泥だらけになって家に帰ったのだった。


「もー、どうしてぐちゃぐちゃになるまで遊んじゃうの」

「ぐちゃぐちゃになるのが楽しいから!」


 夕食の席で困ったような顔をする母に、僕は元気よく答えた。母はもっと困った顔になって、父に視線を向けた。


「まったく……。要も要だ。お前は女の子なんだから、もっとおしとやかになりなさい」

「あはは、はーい」


 そう言って笑うおねえちゃんの顔は、どうしてだか少し無理をしているように見えた。


「おじちゃん。おねえちゃんを叱らないで」


「おじちゃんじゃなくて『父さん』だよ、りくくん」


「えー、おじちゃんはお父さんじゃないよー」


「要ちゃん。ごはん、おかわりいる?」


「あ、はい! お願いします」


「もう、そんなよそよそしくなくていいのよ。私はあなたのお母さんなんだから」


 父母が笑う。僕もつられて笑う。だけどやっぱりおねえちゃんだけは顔は笑っているのに、辛そうだった。




 その次の日、おねえちゃんの足は蹄になっていた。




「おねえちゃん」


 真夜中、トイレに起きた僕は洗面所の隅で蹲っているおねえちゃんと鉢合わせた。


「おねえちゃん、足が」


 裸足のおねえちゃんの足は、柔らかな肌ではなく、茶色の毛と硬い蹄に覆われていた。おねえちゃんはそんな状態の膝を抱えて、声を殺して泣いているようだった。


「おねえちゃん、泣かないで」


 どうしておねえちゃんの足がこうなったのか聞きたくはあったけれど、それよりも僕はおねえちゃんに泣いてほしくないという思いの方が強かった。


「ごめん、何でもない、何でもないの」


 おねえちゃんはパジャマの袖で涙を拭いながら立ち上がった。


「泣いちゃだめだよね、ごめんね。私、おねえちゃんだもんね」


 そう言われて微笑まれてしまえば、僕は何も言い返せなくなって、部屋に戻っていくおねえちゃんをただ見送ることしかできなかった。





 またある日、遊んでもらおうとおねえちゃんの部屋に行ってみると、おねえちゃんは真っ黒な長袖の服を着ていた。詰襟で金色のボタンがついている。学ランというやつだ。


「かっこいい!」


「えっ」


 思わず駆け寄ると、おねえちゃんはびっくりした顔をしたあと、「そうかな」と呟いた。


「そうだよ! おねえちゃんかっこいいよ!」


 するとおねえちゃんは一気に笑顔になって、僕を抱きしめた。


「えへへ。ありがと、りく。かっこいいなんて言ってもらえたの初めてだ」


 僕をきつく抱きしめながらも、おねえちゃんの声は震えていた。どうやらおねえちゃんは笑いながら泣きそうになっているようだった。


「よしよし、おねえちゃん、泣かないでー」


「あはは、りくに子供扱いされたんじゃお姉ちゃん失格だなあ」


 おねえちゃんは腕の中から僕を解放した。おねえちゃんの目には涙が浮かんでいたけれど、やっぱり笑顔の方が上のようで、僕も嬉しくなって笑ってしまった。


「何してるんだ、要」


 その時、部屋の入口から聞こえてきたのは父の声だった。父は足音も荒く姉に歩み寄ると、珍しく声を張り上げた。


「またお前はそんな恰好をして! いい年して、コ……コスプレなんて恥ずかしいと思わんのか!」


 おねえちゃんは立ち上がって、顔を俯かせた。


「ごめんなさい……」


 そうやっておねえちゃんが謝ったからなのか、父は幾分か声を抑えて姉を叱りつけた。


「どこから借りてきたんだ、こんなもの」


「お向かいのおばあさんから……都会に出てった息子さんのものだって……」


「返してくる。早く脱ぎなさい」


 淡々と告げられる言葉に、おねえちゃんは肩をびくりと震わせ、「はい」と答えた。その様子があまりにも可哀想で、僕は父の足に縋り付いた。


「おじちゃん、そんなこと言わないでよ! おねえちゃん似合ってるよ!」


 するとただでさえ機嫌が悪かった父は逆上してしまい、僕にも声を荒げてきた。


「おじちゃんじゃなくて『父さん』だろう! 何度言ったら分かるんだ!」


「やだー! 似合ってるもん! 脱がさないでよー!」


 僕も意固地になってしまって、必死で父に抵抗した。短い手足を必死に動かして父に攻撃していると、父は僕を抱え上げて、ある部屋へと連れていった。


 そこは家の中でも一番狭くて薄暗い部屋で、悪さをした時に放り込まれるので「お仕置き部屋」と僕が呼んでいる場所だった。僕はそこに乱暴に放り込まれた。


「お前はそこで反省していろ!」


 小さな窓が一つだけついた部屋に閉じ込められて、最初、僕は扉に縋り付いて泣き叫んでいたけれど、誰も助けてくれないと知ると、部屋の隅で膝を抱えはじめた。


 窓から差し込んでくる日の光がどんどん傾いていって、部屋の中が薄暗くなっていく。夕食の時間もとっくにすぎて、いつもなら布団に入る時間になっても部屋の扉は開かれなかった。


 だけど僕は反省なんてしてやるものか、と怒りを深めていた。


 だっておねえちゃんにあの服が似合っていたのは事実なのだ。それを言って何が悪いっていうんだ。


 そうやって憤慨しながら膝に顔を埋めていると、お仕置き部屋にある唯一の光源――小さな窓の向こう側から聞きなれた声がした。


「りく、りく」


「おねえちゃん?」


 窓を開けて外を見る。お仕置き部屋の窓は中途半端に高い位置にあって、僕が一人で降りようとすれば怪我をするぐらいの窓だ。


 窓から下を覗き込むと、そこにはパジャマ姿のおねえちゃんが立っていた。――いや、正確には上半身にだけパジャマを着たおねえちゃんがいた。


 とはいっても下半身が全裸なわけではない。ついさっきまで二本足だったおねえちゃんの下半身は、今や四本足の鹿になっていたのだ。


 滑らかな毛皮。腹に浮かび上がる筋肉。力強く地面に立つ足。柔らかな上半身とは対照的な雄々しい姿の下半身。


 その、ともすれば歪な立ち姿を、僕はとても綺麗だと思った。




「行こう、りく。一緒に家出しよう」

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