極楽少女 第五話(完)
それからも僕は彼女のもとに通い続けた。花を手向け、彼女を見つめながら、生死の意味を考えた。
それはきっと幸せな時間で、僕はずっとそんな日々が続くと思っていたのだ。
それは突然の出来事だった。
真夜中、家の外から響き渡る大声に目を覚ましてみると、僕の家の前にはたくさんの人が手に手に明かりを持って、並んでいた。
エンバーミングを許すな!
エンバーマーは廃業しろ!
その人たちは口々にそう叫んでいた。祖父は、窓から外を覗いていた僕に歩み寄り、僕を安心させるように僕の肩に手を置いた。
「デモの連中だな、こんな夜中に迷惑な……」
デモ。例のエンバーミングに反対する人たちのデモだろうか。祖父は懐中電灯を引っ掴むと、玄関へと向かっていった。
「俺が行って一言言ってくる。ノゾムはここで待っていなさい」
「うん」
僕は自分の部屋に戻り、ベッドに座りなおした。外では相変わらず大声が響き、時折怒声も聞こえてきた。
外に行った祖父は大丈夫だろうか、と心配しはじめた頃、ガシャン、と何かが割れるような音が玄関の方から聞こえてきた。
「おじいちゃん?」
玄関へと近寄ってみると、割れた窓と、窓の下に転がっている火のついたビンが見えた。ビンから漏れ出た液体を伝って、炎はあっという間に床に広がっていった。
呆然とする僕の前を横切って床を舐めていった炎は、いつの間にか僕と玄関との間を分断していた。
その時、荒々しい音を立てて、玄関の戸が開かれた。
「ノゾム君!」
「せんせい」
どうしてここに。
そう呟くと、担任の先生は必死な顔になった。
「こんなことになるとは思わなかったのよ、これはただのデモのはずで、でも興奮した人たちが勝手に……」
それはまるで悪戯がバレた下級生が言い訳をしているようだった。僕が先生をぼんやりと見つめると、先生はさらに焦ったような顔をして僕に弁明を始めた。
そうしている間にも火の手は広がっていく。僕の背後から怒鳴り声が聞こえてきた。
「どこだ、ノゾム!」
「おじいちゃん」
祖父の声は『工房』や『墓地』に繋がる裏口から聞こえてきた。僕は祖父のいる方を振り返った。
「裏口から逃げるぞ! 急げ!」
「こっちに来て、ノゾム君! 今ならまだ間に合うから!」
先生がこちらに手を伸ばす。裏口から祖父が呼んでいる。――先生の手を取る理由はなかった。
「ノゾム君!」
先生の悲鳴のような叫び声が僕の背中に追いすがってきた。僕は振り返らなかった。
裏口で待っていた祖父は僕の腕を掴むと、『墓地』へと駆け込んだ。
そうして操作盤のようなものを壁から取り出すと、指を激しく動かして何かを入力していった。『墓地』の入口が、ガコンと音を立てて閉まる。外の喧騒は全く聞こえなくなり、薄闇と静寂だけが僕たちの周りに満ちていた。
「これで大丈夫だ。これでこの場所は俺にしか開けられん」
祖父は大きく息を吐いて、操作盤を元の位置に戻した。
「ここから出る方法は、おじいちゃんしか知らないの?」
「ああ。外からは絶対に開けられん。中から開けるには俺の認証が必要だ。だからここにいれば安心だぞ、ノゾム」
そう言いながら祖父は僕の肩を抱き寄せた。僕は祖父を見上げた。
「一晩も経てば警察も来て、奴らも解散するだろう。それまでの辛抱だ」
祖父は僕の頭を一撫ですると、僕から離れていった。僕は息を吸い込んだ。
ここには何もなかった。
いや、たった二つ。深い静寂と、幽かな甘い匂いだけがあった。
外の世界から切り離された静寂が、死体部屋から漂ってくる「死」の匂いが、僕には心地よかった。
――そう、心地よかったのだ。
「おじいちゃん、首にゴミがついてるよ」
「ん? どこだ?」
祖父は首をまさぐった。僕は手を伸ばした。
「取ってあげる」
屈んだ祖父の首に僕はそっと手を伸ばし――首の呼吸補助装置を力任せに引き千切った。
「え?」
バランスを崩した祖父は床に倒れ込んでいた。僕は引き千切った呼吸補助装置を床に落とすと、思いきり踏みつけた。バキッ、と音がして装置の欠片は砕けた。
「なんで……」
ヒュー、ヒュー、と喉を鳴らしながら、祖父が問う。僕はそんな祖父の傍らにしゃがみこみ、祖父の様子を観察した。
最初、祖父は手足を使って立ち上がろうとしていたようだった。だけどすぐに手足が震えだして、床に横たわることしかできなくなっていった。
喉に手を当てて喘ぎ、壊れてしまった呼吸補助装置を必死に元の場所につけようとしていた。
ガチャガチャと祖父が呼吸補助装置をつけようとする音だけが響く。
やがて装置を取り落してしまった祖父は、這いずりながら僕に縋り付いてきた。僕はそんな祖父の両手を握った。
「死にたくない、助けてくれ、ノゾム、助けて……」
「うん、おじいちゃん。大丈夫だよ、ここにいるよ」
祖父は僕の顔を見上げた後、ぼろぼろと泣き始めた。その間にもヒュー、ヒュー、と空気が漏れ出る音は続いていた。
呼吸音、動かなくなっていく体、すすり泣く声。何故、何故、と問う声。
多分、ほんの十五分ぐらいのことだったのだと思う。
だけど僕には、その時間がとても長く、長く、感じられた。
やがて祖父は宙をぼんやりと見つめたまま、ヒュッと小さく息を吸い込んだのを最後に動かなくなってしまった。
僕は死体になった祖父を観察した。手足はだらんと弛緩している。口は最後の息をした時のままぼんやりと開き、目は半分だけ瞼が閉じていた。瞼を開けて覗き込んでみると、目の真ん中の瞳孔が開き切っていた。
お姉さんの目もそうなっているんだろうか。
そんなことを思いながら祖父の目を閉じてやり、仰向けにして両手を胸の上で組ませた。
死体には敬意を払え。祖父が教えてくれたことだ。
そうした後、立ち上がって――ふと僕は祖父を振り返った。
「死ぬってそんなにいけないこと?」
祖父からの返事はない。ぽつりと呟いた言葉は、『墓地』の静寂の中に溶けていった。
僕は祖父の元から歩み去り、もう二度と振り返ることはなかった。
*
『墓地』の中心、円形に区切られた空間の中央に、眠るように彼女は死んでいる。
僕はロープの柵を踏みつけて歩み寄り、動かない彼女を見下ろした。背後で柵を支えていたポールが派手な音を立てて倒れる音がした。
ずっと彼女を手に入れたかった。
だけど彼女を蘇らせたかったわけじゃない。
そういうことなのだ。たったそれだけのことなのだ。
右手に持っていたホルマリンを飲み干して、いつも通り、彼女の横に寝転がってみる。
うん、やっぱりここは落ち着く。ここにいるのは幸せだ。
僕は彼女の横顔を見つめた。もう動かない彼女を見つめた。
やがて僕はここで死に、その死体は腐り果てるだろう。
だけどそれまでのほんの一時は、この静かで冷たく、どこよりも優しい場所で、僕たちは一緒でいられるのだ。
「――おやすみ、お姉さん」
返事はなかった。
(了)
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