極楽少女 第三話

 時は流れて僕は十一歳になった。来年にはミドルスクールに通う歳だ。


 僕は十一歳で、彼女は十五歳。年の差は縮まったのに僕にとって彼女は「お姉さん」のままだった。




 今でも学校でのいじめは無くなっていない。むしろ年齢を重ねたことによって、その程度はひどくなっていた。


 今日も僕はクラスメイトの――ええと、よく知らないのでA君とする。とにかくその人に呼び出されて、A君の取り巻き数人に囲まれていた。


「おい、死体泥棒。お前の家、金持ちなんだろ。金貸せよ」


 典型的な恐喝というやつだ。


 僕は少しの間、A君の顔を見上げたあと、素直に財布から紙幣を取り出した。


 そしてにやにやと笑いながらA君がそれを受け取ろうとしたその時、鋭い声が教室の方から飛んできた。


「何してるの!」


 鬼のような形相でやってきたのは、僕たちの担任の先生だった。一年生の頃からずっと担任をしている先生なので、もうかれこれ六年の付き合いになる。


 A君たちは慌てて逃げ去っていった。僕は差し出しかけた行き場のないお金を持ちながら先生を見た。


「ノゾム君、大丈夫? 怪我はない?」


 僕は頷いた。先生は大げさなほどホッと息を吐いた。


「あの子たち、何度言ってもやめないんだから。まったくどうしたものか……」


 苦々しくそう言う先生をよそに、僕は紙幣を財布に入れ、財布をかばんにしまった。先生はしゃがみこんで、僕に目を合わせた。


「ノゾム君もね、嫌なら嫌と言ってもいいのよ?」


 僕は先生から目を逸らした。


「別に……」


 先生は深くため息を吐いた後、僕のことを抱きしめてきた。


「辛いことがあったらすぐに先生に言うのよ。先生は絶対、ノゾム君の味方だからね」


 触れ合った場所から、先生の温度が伝わってくる。


 だけど、僕にとってはそれだけだった。





 十一歳になった僕は、祖父から『墓地』のカードキーを与えられていた。祖父の作業を手伝うことも多くなり、『墓地』に一人で入る必要も出てきたからだ。


 それをいいことに、僕は彼女のもとに通い詰めていた。


 今日もお姉さんの指先に触れる。いつもと変わらない温度、いつもと変わらない触感だ。こうしていると何故だか僕は穏やかな気分になるのだった。


「お姉さん」


 名前も知らない彼女を呼んでみる。返事はない。


 どうして返事がないんだろう。僕は少しだけ考えて答えを出した。それは、彼女が死んでいるからだ。


 ふと足元を見てみた。昨日手向けた花があった。花はもうすっかり萎れてしまっていた。


 この花とお姉さんは同じなんだろうか。命をなくしたもの同士、死んだもの同士なんだろうか。


 じゃあ、死ぬってなんだろう。生きていることとどう違うんだろう。


 ぐるぐると僕は考え出した。


 死んだものは動かない。だけど生きている花も動かない。それなら、動く、動かないは生死には関係ないはずだ。


 人間はどういう時に死ぬんだ? 花はどういう風に死ぬんだ?


 僕は唐突に、祖父の首についている呼吸補助装置を思い出した。五、六年前に入院した祖父は、あの装置がなければ、呼吸ができなくなって死んでしまうらしい。


 それなら祖父はもう半分は死んでいるようなものなんじゃないか?


 祖父の体はしわくちゃだ。死んでいる花も萎びている。共通点はなんだろう。どうしてこの二つはしわだらけになってしまったんだろう。


 花を考えよう。僕が今日摘んだ花は生きている。だけど、僕が昨日摘んだ花は死んでいる。


 祖父を考えよう。十一歳の僕は生きている。七十歳を超えた祖父は半分死んでいる。


 はた、と僕は思い至った。


 そうか。どんなものも時間が経てば「死」に近付いていくのだ。祖父がしわくちゃになっているのは、それはきっと祖父の体が「死」に近付いているからだ。


 「死」に近付きすぎたものは、萎れてしまって、しなびてしまって、やがて死んでいくのだ。


 ――でも、それにしては目の前の彼女は、美しすぎた。


「お姉さん、本当に死んでるの?」


 返事はない。


 僕は少しだけ苛立ってしまって、いつもよりも乱暴にお姉さんの手を持ち上げた。持ち上げなかった方の彼女の腕が、音を立てて床に落ちる。


 僕はといえば、目の前に持ち上げてしまった彼女の指先に見とれてしまっていた。


 彼女の指には血の気がなく、まるで作り物のようだった。僕は彼女の指の匂いを嗅いでみた。匂いはしない。だけど、気のせいだとは思うのだが、ほんのりと甘い香りがしたような気がしたのだ。


 僕は彼女の指を口に含んでみた。どうしてそんなことをしているのか、自分でもよく分かっていなかった。でも、これがいけないことだということだけは理解していた。


 お姉さんの指の第二関節に舌を這わせた後、彼女の指の腹に歯を立ててみた。ぷつん、と思ったよりも簡単に彼女の指先には傷跡がつき、指に伝う唾液を舐め取ってから、僕はその小さな傷を眺めた。


 汚してしまった。こんなにきれいで、神聖な人を。


 そんな気分になって、僕はひどく気分が高揚するのを感じていた。


 もっとこの人に触れたい。その欲望に僕は逆らえなかった。


 彼女の首元に触れてみた。案の定、その肌に温度はない。手に当たった髪の毛がさらりと揺れる。僕は首を数度撫でた後、顔に指を這わせ、唇をなぞってみた。唇は二度と開かないように縫い合わされていて、次いで触れてみた瞼も開くことはなく、アイキャップのせいで彼女の瞳を見ることすらできなかった。


 そんな瞼に顔を近づけたどたどしく口付けを落としながらも、僕の左手はお姉さんのセーラー服の方へと伸びていた。


「イヤなら言ってね」


 胸に手を差し込み、セーラー服の胸当てのボタンを外す。パチン、パチン、と軽い音を立てて、あっけなくボタンは外れた。襟の下の留め具を外し、ジッパーを注意深く下ろしていく。お姉さんの胸が露わになった。お姉さんは下着をつけていなかった。


 僕はお姉さんの肌に手を這わせた。冷たい。まるで金属に触っているようだ。それなのにお姉さんの肌は柔らかで、触れているだけで溶けてしまいそうだった。


 スカートのジッパーを下げて、下にずらしてみる。真っ白な太ももが現れた。だけど彼女の太ももは一点だけ小さな傷がついていた。それは太ももの内側についた一センチほどの大きさの傷だった。それは、エンバーミングの際に防腐固定液を流し込んだ傷跡だった。


 お姉さんの死体は完璧だった。だけど一つだけ、この傷だけはその完璧さを壊していた。僕はその傷が愛しくてたまらなくなって、傷跡に舌を這わせようとした。


 ――その時、


「ノゾム!」


 突然の大声に顔を上げて振り返ると、そこには恐ろしく険しい顔をした父が立ち尽くしていた。


「何をしてるんだ、お前は!」


 父は柵の中にずかずかと入ってくると、僕の腕を掴みあげ、思いきり頬を叩いてきた。


「お前がそんなことをする奴だとは思わなかった!」


 他にも似たようなことを大声で怒鳴られたような気がしたが、僕は彼女から引き離されたことで呆然としてしまって、その内容をほとんど聞いていなかった。


 それに怒ったのだろう。父は僕を乱暴に引き摺っていくと、空室になっていた死体安置所に放り込んだ。


「そこで反省していなさい!」


 それから僕がどれだけそこにいたのかは分からない。父に叩かれた頬は痛かったけれど、悲しみだとか悔しさだとかは湧いてこなかった。ただ、呆然としながら、父が去っていった扉を見つめていた。


 数十分だったのか、数時間だったのか。不思議と不快には感じない死人部屋の静寂に包まれながら僕は床に座り続け、ふと目が覚めたような心地がした頃になって、死体部屋の扉は開かれた。


 扉の向こうには祖父が立っていた。祖父は何故だか神妙な顔をしながら、「こんな所にいたのか」と呟くと、僕を立たせて、『墓地』から家へと連れ帰った。


 家には父の姿はなかった。僕に怒って家を出たままなのだろうかと疑問に思いながらも、僕は祖父が温めなおしてくれた夕食を食べた。


 夕食を食べながら、僕は祖父が泣きそうな顔をしていることに気がついた。だけどそれが何故なのかを聞くのもはばかられて、僕は黙って夕食を食べ終わった。


 そのまま食卓につきながら十数分。祖父は何も語ろうとしなかった。僕も尋ねてはいけない気がして、そんな祖父をただ見つめた。


 やがて祖父は覚悟を決めたような顔をして、僕を見た。


 そこで初めて――僕は父が死んだことを告げられたのだ。

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