極楽少女 第四話
父は通り魔に襲われたのだそうだ。財布は無くなっておらず、怨恨の線で捜査が進んでいるらしい。父が襲われた理由は分からない。だけど隣近所では、エンバーミングなんてしているからだ、罰が当たったのよ、と噂になっていた。
遺体は警察で検死解剖されてから、我が家に戻ってきた。祖父は寝かされている父の顔をじっと見つめると、小さく、「エンバーミングするぞ」と呟いた。
父の体は司法解剖のために綺麗に洗われていた。通り魔に刺された傷も縫い合わされている。僕と祖父は二人がかりで父の服を脱がせた。
裸の父を見るのは幼い頃、一緒に風呂に入ったこと以来で、なんだか新鮮な気がした。
「俺は見ているから、自分一人でやるんだ」
施術台の前に立った僕に対して、祖父は厳しい目でそう言った。僕は少しだけ考えた後、首肯した。
祖父に見守られながら、父の体にメスを入れる。ぷつん、と肌が切れ、毛細血管から出血が始まる。僕は傷口をゆっくり切開し、太い動脈と静脈を露出させた。注入管と排出管を機械から引き出してきて、父の血管に慎重に突き刺して、固定する。
エンバーミングマシンのスイッチを入れる。ブーン、と低い音を立てて、父の血液は防腐前液に置き換わっていく。十数分かけて血液が排出し終わった頃、注入する液を防腐固定液に切り替えた。父の全身を揉みほぐして、固定液を全身に行き渡らせる。
ふと顔を上げると、祖父が今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見ていることに気がついた。
「すまんなノゾム。本当にすまん……」
そう言って目を押さえてしまった祖父に首を傾げてから、僕は父の体に目を戻し、血管に繋がっていた二本の管を引き抜いた。
最後に傷口を縫合すれば完成だ。僕は細い針と糸を取り出し、傷口を縫っていった。肌と肌に糸を通し、引っ張って元通りの形にしていく。露出していた血管が徐々に隠れていき、十分ほどかけて縫合は完了した。引きつったような跡が残ってしまったが、まあ上出来だろう。
「よくやったな」
顔を上げた僕に、祖父は優しく微笑みかけた。
「さあ、家に戻ろう。あとは俺がやっておくから」
そう言って背中を押そうとする祖父に対して、僕は首を横に振った。
「ノゾム?」
「もう少しここにいる」
僕がそう告げると、祖父はまた泣きそうな顔になった。
「……そうか。うん。最後だからな。しっかり挨拶をしておきなさい」
祖父が立ち去った後、僕は施術用の踏み台に乗って父を見下ろした。
白い肌。冷たい体温。もう開かれることのない瞼。生者にはない死の香り。ゆっくりと、指先を父の肌の上に走らせる。
「いいなあ……」
自分の唇からこぼれた言葉に少しだけ驚いて、咄嗟に口に手を当てた。
――僕は今、何を言った?
言葉と思考と感情がどうにも噛み合わず、僕は自分が混乱しているのに気付いていた。
僕は、もう動かない父を、じっと見つめ続けた。
「お父さんのこと、大変だったわね」
学校で呼び出されて行ってみれば、僕は担任の先生に頭を撫でられ、抱きしめられた。僕は最初されるがままになっていたが、あんまり強く先生が抱きしめてくるものだから苦しくなって小さく声を上げた。
「先生、苦しいよ」
「ああ、ごめんなさい、つい」
先生の体温が離れていく。僕はそれを追い掛けなかった。
それから先生は僕に対して色々なことをまくしたてはじめた。その大半が僕を心配しての言葉なのは分かっていたが、あまりにも長々と先生が話し続けるものだから、後半、僕はぼんやりとしてしまっていた。
ふと先生は言葉を切ると、僕の肩を掴むと、僕の目をまっすぐに見た。
「繰り返し言うようだけどね、ノゾム君。何か困ったことがあれば先生に何でも言ってくれていいんだからね?」
――困ったこと。
ぼんやりとしていた意識を引き戻され、僕は先生の目を見た。
困ったこと。困っていること。
考え込んだ末、僕は一つだけ困っていることを思いついた。
「先生」
「なあに、ノゾム君」
「生きているってどういうこと?」
「む、難しい質問ね……」
先生は言葉に詰まったようで、少しの間沈黙し、それから僕の方を見た。
「生きてるっていうのは、心臓が動いていることよ。血が巡っていて、体温があって、息をしていることよ」
僕は目を瞬かせた。
どうやら先生の考える生死の考え方と、僕の考える生死の考え方とは、異なったものであるようだった。どちらが正しいのか、と考え込む僕に対して、先生は逆に問いかけてきた。
「でもどうしてそんなことが知りたいの?」
どうして。決まってる、それは――
「好きな人がいるんだ」
「好きな人?」
「その人は年上のお姉さんで、僕はお姉さんに触れていると安心するんだ。……僕はお姉さんに抱き着いてみたいし、一緒に眠ってみたいし、それで――」
言いたいことが上手く伝えられず、僕は黙り込んだ。先生は困ったように笑い、首を傾げた。
「うーん、いまいち話が見えないけれど、そうねえ。ノゾム君はその人に恋人になってもらいたいの?」
「……分からない」
僕は彼女に恋をしている――のだと思う。だけど彼女と恋人になりたいかと言われれば、それもまた違う気がするのだ。
先生はまた、うーん、と考え込んで、しばらくしてから答えを見つけたようだった。
「ええと、そうね、ノゾム君はその――お母さんがいないから」
申し訳なさそうな声色で先生は言う。
「その人はあなたにとって、お母さんのような人なのかもしれないわね」
「お母さん」
「その人に甘えたり、構ってもらったり、遊んでもらったりしてほしいってことよ」
その夜、僕は夢を見た。
夢の中では、お姉さんがあの場所から起き上がって、僕と遊んでくれていた。お姉さんは僕に勉強を教えてくれたし、僕に美味しい料理も作ってくれた。
「ノゾム」
「ノゾム君」
お姉さんの声が僕を呼ぶ。駆け寄った僕を優しく撫でてくれる。駆けまわって怪我をした僕を少しだけたしなめて、その手当てをしてくれる。
僕は最初それを、本当に幸せに感じていた。だけど、拭い去れない何かが常に僕にはつきまとっていた。
僕は胸に手を当てて考えて、その正体に思い至った。
そう、これは違和感だ。
違和感。何の?
目の前ではお姉さんが微笑んでいる。本当は冷たく、無表情で固まっているはずのお姉さんが笑っている。僕はじっとそれを見つめた。
――僕はお姉さんに本当にこうなってほしいのか?
そこで僕は飛び起きた。時刻はまだ真夜中を過ぎたばかり。家の中は静寂に包まれている。僕は、悪夢を見た後のように、ぜえぜえと息を荒げていた。
今でも鮮明に思い出せる。
お姉さんの体温、お姉さんの優しい手。
お姉さんの口が動いて、お姉さんの声が――
「違う」
彼女の姿が脳裏から霧散する。僕は首をぶんぶんと振った。
お姉さんは多分、そういうものじゃない。そういうものじゃないんだ。
僕は乱暴に寝転がると、シーツをかぶりなおした。
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