極楽少女 第二話

 母は自分が生まれた直後に事故で死んだ。車ごと死体も焼けてしまって、エンバーミングも叶わない様だったそうだ。


 父は――当然といえば当然だったが、会社勤めのために日中は家にいなかった。自然と幼い僕の世話を見るのは祖父の仕事になっていた。


 祖父はこの街で唯一残ったエンバーマーだった。エンバーマーは遺族から預かった死体を保全目的でエンバーミングし、各々の信じる教義に従って埋葬する職業だ。


 昔はたくさんいたそうだが、とある理由で皆辞めてしまったらしい。


 そんな祖父に育てられた僕は当然、物心ついた頃から祖父の手伝いをして死体に接してきた。




 これは、初めてエンバーミングに立ち会った時の話だ。


 祖父に連れられて『工房』に入った僕は、子供に着せるには大きすぎる水色の手術着を着せられて、処置室へと連れていかれた。部屋に入った途端、死体特有のむっとした香りがして、僕は顔をしかめた。


 処置台には一人の女性が寝かされていた。五十代ぐらいの、腹に妊娠線の入った女性だった。初めて死体と向き合う僕のためだったのだろう。傷ひとつないきれいな死体だった。


「処置を始めるぞ」


「うん……」


 だけど当時の僕にはどうにもそれが嫌なものに思えてしまって、さっさと処置を始めようとする祖父に不満げな視線を送ってしまったのをよく覚えている。


 祖父の施術は鮮やかなものだった。太ももの動脈をぎりぎり避けるように迷うことなくメスを入れ、管を繋げる。排出されていく赤黒い血液の匂いから逃げるように、僕は顔をそらしたが「しっかり見るんだ」という祖父の厳しい言葉に、恐々と死体へと目を戻した。


 固定液の注入が始まり、祖父は死体の全身をマッサージし始めた。僕にもそれをするように祖父が言うので、僕も見よう見まねで死体を揉んでみた。案の定、冷え切った脂肪のぶよぶよとした感触が伝わって、僕はもう泣きそうになっていた。


 処置が終わり、耐え切れなくなって僕はトイレで吐いた。祖父はそんな僕の背中をさすった後、落ち着いた頃を見計らって「ついてきなさい」と言った。僕はもうエンバーミングに接するのも嫌になっていたけれど、ここで逃げてしまうのも悔しくて、吐きすぎて目から零れていた涙を乱暴に拭いながら頷いた。


 祖父が僕を連れていったのはエンバーミングされた死体を一時的に安置する『墓地』だった。


 『墓地』は鈍色の円形の壁に囲まれた建物だった。全体がコンクリートでできているようで、壁には傷一つなかった。祖父がカードキーを滑らせると、ピピッと音がして自動ドアが開いた。


 『墓地』の中は薄暗く、ひんやり冷たかった。エンバーミング前の死体が腐ってしまわないように、湿度温度を調整しているのだと祖父は言った。


 ずらりと並んだ安置所の入口には目もくれず、祖父はまっすぐに建物の中央部へと歩いていった。そうして腕を引かれて行った先で、僕は彼女と出会ったのだ。


 彼女はロープの柵で囲われた中に眠っていた。一目見て、僕は彼女に目を奪われた。


 美しい黒髪のお姉さんだった。さっき処置をした死体と同じように肌は白いのに、何故だか彼女の肌には嫌悪感を抱かなかった。黒い長袖のセーラー服から覗く手もまた白く、胸の上で指が組まれていた。閉じられた瞼は今にも開きそうなのに、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。


「きれいだ……」


 思わず僕が呟くと、祖父はいつも通り眉間にしわを寄せながらも、嬉しそうに頷いてみせた。


「村の若いのがエンバーミングを習い始める時には、必ずこれを見せたものだ」


 僕はもう気分が悪かったことなんて忘れてしまって、ひたすらに彼女に見入っていた。祖父は僕の頭に手を置いて言った。


「ノゾム、お前もこれぐらいの死体を作れるようになりなさい」


「うん」


 それから僕は彼女の近くに行きたいと駄々をこね、「触るなよ」と釘を刺された上で彼女の傍らにしゃがみこんだ。


 彼女に触れないまま、その顔をずっと眺める時間は、何にも代えがたい幸せなものだった。




 七歳になり、僕はジュニアスクールに通うようになっていた。


 その頃には僕もすっかり死体に慣れ、きれいに死んでいる死体には感嘆のため息を吐くことすらあった。僕にとって死体は日常となったのだ。


 学校では僕の私物がなくなることがよくあった。机には卑猥な言葉が落書きされていたし、どんなに楽しそうに話しているクラスメイトでも、僕が近づくと嫌な顔をして去っていった。


 有体に言ってしまえば、僕はいじめられていた。


「やーい、死体泥棒!」


「死体泥棒の息子が来たぞ、逃げろー!」


 ――死体泥棒。それが僕のあだ名だった。


 そう呼ばれる理由ははっきりしている。ある理由から、この街にはエンバーミングを求める人がほとんどいなくなった。求める人がいなければ、エンバーミングを行うこともできない。だから祖父は、病院から身寄りのない死体を貰い受けては、僕への技術指導に充てていたのだ。


 そんな陰湿な、それでも僕からしてみれば淡々とした日々が続いていたある日、僕は校長先生に呼び出された。


「ノゾム。君からもおじいさまの仕事を止めさせるように言ってくれませんか」


 開口一番に校長先生はそう言った。言葉の意図が分からず首を傾げると、校長先生は厳しい顔をして僕に目を合わせた。


「いいですか。エンバーミングはあってはならない技術なのです。神の教えに背く技術なのです。……君ももうエンバーミングなんかの勉強をするのは止めなさい。でないと今に天罰が下りますよ」


 これが、街からエンバーマーが減った理由だった。


 僕が生まれる十年前、この街の再開発が始まった。再開発は住民に大いに歓迎された。過疎の始まっていたこの土地の住民にとっては願ってもない機会だったのだ。少なくとも当初は。


 近くに巨大工場ができた影響で、都会の人間は猛烈な勢いでこの地になだれ込んできた。古い家は取り壊され、ビルが並び立ち、公園が整備され、パイプラインが整えられた。村の中で細々と続いていた文化は、持ち込まれた新たな文化に滅茶苦茶に押しつぶされてしまった。


 元々、腕利きのエンバーマーたちが住む小さな村だったこの地は、今や再開発によってなだれ込んだ都会の人間のものになってしまったのだ。


 そして何より問題だったのは彼らが持ち込んだ宗教だった。


「あのね、校長先生も何も意地悪で言ってるわけじゃないの」


 校長室から出てきた僕を担任の先生が出迎えた。


「エンバーミングがどれだけ嫌われてるか知ってるでしょう?」


 そう、彼らの教義では死体に手を加えるエンバーミングはあるべきものではなかったのだ。


「他の街では、エンバーミング撲滅のデモまで行われているの。怪我をした人もいるんだって」


 先生は屈みこんで、僕に視線を合わせた。


「あなただって、危ない目に遭うかもしれないのよ?」


 先生が親切心から言ってくれているのは分かっていた。だけど僕にとっては、エンバーミングの技術は幼い頃から見慣れたもので、それが無い世界なんて考えることもできなかった。


 僕が首を横に振ると、先生は困ったように眉を下げていた。




 その頃、一度だけ祖父が入院したことがある。呼吸器系の病気だった。本当は今でも入院していなければいけないはずだけど、呼吸を助ける機械を喉につけて、今も祖父はエンバーミングの仕事に励んでいるのだった。


 それはさておき、当時の僕は、祖父が入院したことを内心喜んでいた。


 エンバーミングの勉強ができないことは寂しかったけれど、それ以上に得るものがあったのだ。


 祖父がいないということは、学校から帰宅して父が夜遅く帰ってくるまでは僕は自由に遊びまわれるということだ。


 僕は戸棚から祖父のカードキーを盗み出し、『墓地』へと通っていた。正確にはその中央に眠る彼女のもとに、だ。


 僕は毎日のように、彼女のもとに花を持っていった。死者には花を手向けるものだと教わっていたし、誰よりもきれいな彼女を、より美しいものにできると思ったのだ。


 ぼくは彼女に花を手向け、その傍らにしゃがみこんだ。


 決して触るなと言われていたけれど、祖父がいない今、僕を叱る人は誰もいない。


 僕はそっと、彼女の指先に触れてみた。思った通り、彼女の指先は冷たくて、爪も真っ白になっていた。


 ああ、この人は特別なんだ。


 そうやって当時の僕は考えた。今思えば、それは彼女に神聖なものを感じていたのかもしれない。


 僕は彼女の手を元あった位置に戻し、彼女の傍らに寝転がった。彼女の横顔が、艶やかな髪が、僕の目の前にある。


 そうして彼女の傍らで眠るのは、何よりの楽しみだった。

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