極楽少女

黄鱗きいろ

極楽少女

極楽少女 第一話

 鈍色に囲まれた部屋の中央、申し訳程度に設けられた柵に囲まれて、彼女は眠るように死んでいた。


 彼女は真っ黒なセーラー服を身に着けていた。彼女は十五歳のお姉さんだった。彼女は祖父の最高傑作で、彼女は美術品としてここにいた。


 その死体を、僕は愛したのだ。



 目の前の手術台には死体が一つ、寝かされていた。


 衣服は身に着けていない。髪は黒。肌は黄色。中肉中背の四十代ぐらいの男性だ。外傷はないから、きっと病死だったんだろう。


 この部屋には僕と祖父の二人きりで、男性を挟むようにして僕たちは立っていた。僕たちの間に言葉はない。防腐前液を蓄えた機材だけがブーンと低い音を立てている。


 これから行われるのはエンバーミング。死体に防腐処理を施し、その体を永劫この世にとどめ続ける技術だ。


 エンバーミングの作業はまず、死体に損壊がないか確認するところから始まる。今回は傷はなさそうなので、そのまま作業を進めるが、もし損壊があった場合はその傷が目立たないように縫い合わせる必要がある。


 次に必要なのは、洗浄だ。全身に消毒スプレーをかけ、洗髪をして、口の中などの殺菌も行う。


 目の前の死体は、既に洗浄はあらかた済んでいた。祖父が全てやってくれたからだ。残っているのは苦痛にゆがんだ顔の整形と、血液を防腐固定液に置き換える作業だけだ。


 ぽかんと間抜けに開いてしまっている口を細い糸で縫い合わせていく。顔全体の形を整え、目にもアイキャップを挿入して、閉じさせる。


 シュコー、シュコー、と空気が漏れる音がする。祖父の首についている呼吸補助装置の音だ。祖父の顔に汗が伝い、死体に落ちそうになる。僕は慌ててそれを拭った。


「ノゾム、そろそろ防腐前液を用意しなさい」


「うん」


 祖父に言われるままに、僕は機材から二本のチューブを引っ張り出してきた。一本は注入管で、もう一本は排出管だ。


「そら、見えるかノゾム。ここが動脈で、ここが静脈だ」


 太ももの付け根あたりを小さく切開して、祖父が教えてくれる。僕は二本の管を手渡しながら頷いた。


 祖父は注入管を動脈に、排出管を静脈に刺して固定した。そうしてエンバーミングマシーンのスイッチを入れれば、防腐前液というものが死体の体内に流れ込み、代わりに血液が排出管から流れ出てくるという仕組みだ。


 排出管の中を、温度を失った血液が流れていく。僕と祖父はそれを眺めながら、次の工程の準備をし始めた。


 血液が排出され終わった後に注入するのはメチルアルコールやホルマリンを混ぜた防腐固定液だ。これを注入しながら、二人がかりで死体の全身を揉みほぐしていく。こうすることで、液が全身にいきわたるのだ。


 最後に腹腔に穴を開けて防腐液を注入し、傷口を塞いで完成だ。

 全身を洗浄しながら、祖父は僕に話しかけてきた。


「どうだ。そろそろ一人でもできそうか」


「……まだ一人じゃ無理だよ」


「そうか。俺が死ぬまでにはできるようになるんだぞ」


「うん」


「お前しか俺の技術を継いでくれる奴はいないんだからな」


「うん」


 祖父を手伝って死体に服を着せていく。なかなか力がいる作業だというのに祖父は軽々と服を着せ終わると、死体をストレッチャーに移し替えた。


「さあ、今日はもう少し死体の勉強を――」


「お義父さん!!」


 その時、荒々しい歩調で処置室に入ってきたのは僕の父親だった。


「ノゾムにエンバーミングを見せるのはやめてくださいってあれだけ言ったじゃないですか!」


 そう言って唾を飛ばす父に対して、祖父はいたって冷静に答える。


「何言ってるんだ。元はと言えばお前が後を継がないと言うから、この子に技術を教え込んでるんじゃないか」


「そもそもそれがおかしいんですよ! どうしてノゾムがエンバーマーなんかにならなきゃいけないんですか! 大体、お義父さんだって、首に呼吸補助装置つけてるのに出歩いて――」


 まくしたてる父から逃れるように、僕は水色の手術着を脱ぎながらそっと部屋の扉を押した。


 僕がいたのは『工房』と呼ばれている棟だった。『工房』では死体の処置が行われ、その処置が済んだ後、もう一つの棟――『墓地』へと運ばれることになっていた。


 『工房』を抜け出して彼女のもとに向かう。『工房』と『墓地』の間にはそれなりに距離があり、あまり整備されていない庭から伸びた木によって、通路はまるでアーチがかかっているようになっていた。


 僕は庭に生えていた野草の花を一本千切ってから、電子キーによって閉ざされた『墓地』の扉を開けた。


 『墓地』の中はドーナツ状になっており、外縁部分に扇の形になるように、エンバーミングが施された死体が安置されている。


 しかしその中に彼女はいない。


 ドーナツ状の建物の中央部、丸く切り取られたその空間の真ん中に、棺にも入らずに彼女は寝かされている。


 僕は彼女の周りを囲っている紐の柵をくぐって、彼女の前に立った。恐ろしいほど白い肌をしている人だ。僕は彼女の前に跪き、小さな花をそっと手向けた。


「――お姉さん」


 僕はこの人に恋をしている。

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