牡鹿の姉 後編

 おねえちゃんは泣き虫だ。


 ちょっとしたことで涙ぐんでしまうし、多分本人も気づかないうちにぼろぼろ泣いてしまっていることもある。だけどおねえちゃんはいつだって声を押し殺して泣くのだ。まるで、誰にも知られちゃいけないと自分に言い聞かせるように。



 おねえちゃんの背に揺られて山道を登っていく。コンクリートで舗装された道はもうとっくの昔に通り過ぎて、もうほとんど埋もれてしまった石段をカコンカコンと音を立てながらおねえちゃんは歩いていった。


 どれだけこうしていたかは分からない。どんどん遠ざかっていく町を思って不安になってくる。おねえちゃんは背中の僕をあやすように腕を伸ばしてきた。僕はくすぐったくて、笑ってしまった。


「ねえ、りく」


「なあに、おねえちゃん」


「ちょっとだけおねえちゃんの話、聞いてくれないかな」


「話?」


「うん、話。すぐ終わるからさ」


 そう前置きして、おねえちゃんは話しはじめた。僕は答えないままじっとおねえちゃんの後姿を見ていた。


「私ね、ここに越してくるまでは都会の学校に通ってたんだ。そこで私はバスケ部の部長をしてたの」


 さく、さく、と足元で葉っぱが踏まれる音がする。


「バスケ部はずっと私が引っ張ってきていてね。小さい頃からバスケをやってた私がみんなをビシバシ鍛えて、弱小校だったバスケ部を県大会まで引っ張り上げたんだ。……だから、部のみんなは、私がいないとダメなんだと思ってた」


 石段の道から外れて、おねえちゃんは獣道に入っていく。


「だけどね、私が転校するってなったとき、部のみんなは言ったの。『部長がいなくても、立派にやっていきます!』って。私、それを聞いてすごく悲しくなっちゃったんだ。ああ、私はもう部には要らないんだって。そう思っちゃったの。……それで、そう思っちゃった自分も嫌だった」


 おねえちゃんは獣道すら逸れて、藪の中を通っていく。僕はおねえちゃんにしがみついた。


「新しい学校ではね、またバスケをやろうと思ってた。本当は部活も引退だけど、教えることぐらいはできると思ったから。それで、私が育てた後輩が県大会に行けたらいいなって」


 沢を飛び越える。僕は落ちそうになったけれど、おねえちゃんはそれどころじゃないようだった。


「そう思って後輩に声をかけたんだけど、うざがられちゃってさ。『熱血とかめんどくさい』とか『本気でバスケやってる奴がいると思ってるの』とか『おとこ女』とか言われてさ。諦めたくなかったから、色々な人に声をかけていたら、そのうち遠巻きにされるようになっちゃって」


 おねえちゃんは足を止めた。


「私、どうすればよかったのかな」


 ぽつりと呟かれた言葉に僕は何も返せなかった。遥か頭上を吹き抜ける風が、大木の枝葉をざあざあと揺らした。



 ぽつりぽつりと喋りながら山を登っていくと、急に開けた場所に出た。うっそうと生い茂っていた木々は急に消え去り、空には満天の星空が、足元にはどこまでも果てしなく荒野が続いていた。


「わあ」


 手を伸ばせば触れてしまいそうなほどはっきりとした星々にむかって、僕は右手を掲げた。手の平に覆われて、まあるい月が半分だけ隠れる。おねえちゃんも足を止めて見とれているようだった。


「綺麗だね、りく」


「うん」


 おねえちゃんは足を折り曲げて座り込み、僕もおねえちゃんの背中から降りた。


「随分と遠くに来ちゃったね」


 おねえちゃんの見つめる先には空があった。岩肌の見える荒野があった。空と地面の境目があった。僕は傍らに座るおねえちゃんを見上げた。


「ねえ、おねえちゃん」


「なあに、りく」


 少しだけ躊躇った後、僕はおねえちゃんにずっと聞きたかったことを尋ねた。




「おねえちゃんは男の人なの?」




 それは動物図鑑をめくった時に覚えた疑問だった。――そう、おねえちゃんのように立派な鹿の角は、オスにしか生えないはずなのだ。


 僕の質問に、おねえちゃんはミステリアスに微笑んだ。


「ふふ、どっちに見える?」


 逆に聞き返され、僕は困ってしまった。


 おねえちゃんの上半身を見る。パジャマの下に隠れている体は柔らかそうだし、胸は膨らんでいる。下半身を見る。足の筋肉は盛り上がっていて、いかにも力強そうだ。


 上半身と下半身を見比べて混乱する僕に、おねえちゃんは優しく微笑みかけた。


「正解はどっちもだよ」


「どっちも?」


「そう、どっちも」


 余計に混乱が深まった僕の頭に、おねえちゃんは手を置いて、くしゃくしゃと撫でまわした。


「りくにはまだ分かんないかな」


 おねえちゃんは笑っていたけれどやっぱり悲しそうで、僕はじっとおねえちゃんを見つめつづけた。おねえちゃんはふっと笑うのを止めると、また遠くに目をやった。


「これはさ、罰なんだよ」


「罰?」


 彼方を見やりながら目を細めたおねえちゃんに僕は首を傾げた。肌寒い風が僕たちの間を通り抜ける。


「……家のこと、学校のこと。子供であること、女であること。ずっと色々なものから逃げたかった。逃げ出せるだけの足が欲しかった」


 おねえちゃんは鹿の体を見下ろし、そっと撫でた。


「逃げ続けたから、こんな有様に成り果てたんだ」


 おねえちゃんが何を言っているのか、分からないところもあった。だけど、鹿の下半身のことを嫌がっていることだけは伝わって、僕はおねえちゃんの手を取った。


「ちがうよ」


 おねえちゃんは僕を見た。僕もまっすぐにおねえちゃんを見た。


「こんなにあったかくて綺麗なのにそんなこと言わないでよ」


 僕の言葉に目を見開いた後、おねえちゃんはぼろぼろと涙をこぼし始めた。僕はおねえちゃんの手を強く握った。


 泣き虫だ。おねえちゃんは泣き虫だ。


 だけど相変わらず泣き声は殺したままで、僕は立ち上がっておねえちゃんの肩を抱き寄せた。


「おねえちゃん、がまんしなくていいんだよ」


 え、と間抜けな声を上げて、おねえちゃんは硬直したようだった。僕はそんなおねえちゃんの背中をぽんぽんと叩いた。


「もういいんだよ、ここには怒る人は誰もいないよ」


 おねえちゃんは少しの沈黙の後、僕の胸に顔を埋めて肩を震わせ始めた。


「もういいのかな」


「うん」


「私、頑張ったかなあ」


「うん、おねえちゃんは頑張ったよ」


 そこからはもうせきを切ったようだった。


 これまで我慢し続けていた泣き声を上げて、おねえちゃんは僕の胸に縋り付いて泣き始めた。





 誰の目も届かない荒野の中。


 大声で泣いて、泣いて、月が真上にやってきた頃、涙を拭って、おねえちゃんは立ち上がった。


「行くんだね、おねえちゃん」


 うん、とおねえちゃんは頷いた。


「ここまでついてきてくれてありがとう。連れてきちゃってごめんね」


 ううん、と僕は首を振った。おねえちゃんは僕の髪の毛に触れた。


「一人で行くのは怖かったんだ。誰かについてきてほしかったんだ」


 その表情は寂しそうだったけれど、もう泣きだしそうには見えなかった。僕はそれに満足しておねえちゃんに笑いかけた。おねえちゃんもそんな僕に、小さく声を上げて笑った。


「じゃあね、りく。かっこいいって言ってくれてありがとうね」


 最後に一撫で、僕の頭を撫でると、おねえちゃんはその四本の足で広大な荒野へと駆けだした。


 最初は確かめるように。徐々にスピードを上げて。夜空と荒野の境界線をめがけて。


 遠くへ、遠くへ、遠くへ。

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