レインドロップ*ティアドロップ

水菜月

* *


 ここに雫が落ちている。その透明な水の玉が、雨なのか、涙なのか、君には見分けがつくかい?


 葉っぱならば、雨粒だと想うだろう。頬につーっと流れていれば、涙だと気づくだろう。

 でも、てのひらにのった、たった一粒ならば。


 きっと君はその先に、その人に、その過去に想いをめぐらせる。



 雨の日がロマンチックだなんて考えてるのは、お前ぐらいだよ。そう吐き捨てるように、彼は言った。


 雨が跳ねて服が汚れて、靴が濡れて足が冷たくなって、迎えに来てと連絡したら、「私もうワイン飲んじゃったから、だめ」って。なんなんだよ、それ。

 帰ってくるなり、私にあたる彼が鬱陶しくなって、私は傘も持たずに部屋を飛び出した。

 彼が「雨はきらいだ」とため息をつくたびに、自分に向かって言われている気がして、小さな傷をつけられた。いつのまにか、数え切れないくらい。


 二年も近くにいたのに別れる時は一瞬だ。せめて誕生日まで待てばよかった。一緒にニッコウキスゲ見に行こうと約束していたのに。

 週末に合わせて会社の休みを申請してたから、一人でも行こうとホテルに電話をかけた。梅雨の時期だからか、簡単に予約が取れた。



 金曜日の午後。

 高原の駅に降り立ち、改札を出たところに、いきなり君がいたんだ。


 ふわっとした髪の君はまるで天使みたいで、淡い空気の層をまとっていた。そのほほえみは誰をも包み込んでしまうかのよう。

 え、私を見て、私に向かって、手を広げてるよね。


「迎えに来ました」

 うわ、天使が喋った。しかも迎えって、天国から? あ、ちがう。

「『天気雨』の方?」

 男の人だよね。線が細くて白いシャツが似合う。女の人だと聞いても違和感がない。

「お荷物お持ちしますね」

 迎えの車がどこに停まっているのかきょろきょろした私を置いて、とことこ歩き出した天使。え、歩いて行くのかな。


「降ってきましたね。雨の季節に生まれた人は、雨に歓迎されている」

 そう言いながら、持っていた傘を開いて差しかけてくれた。


 空色の大きな傘。

 内側に白いしずく模様が描かれて、傘の中でも雨が降っているみたいな不思議な気分。

 その男の子に言われると、雨がすてきなものに思えてくる。



 着いたのは、『天気雨』という名の小さなホテル。

 空は晴れているのに雨が降っている。まるで笑顔の女の子の頬に流れた涙。


「ようこそ。河野こうの露花ろかさんですね」

「はい。二晩、お世話になります」

いただいた名刺を拝見する。「三ツ矢貴志・蓉子」と書かれた名前。

「夫と二人でやっています。親戚のセイヤはまだ学生なので、週末に手伝いに来ています。失礼はなかったかしら」

「道端に咲いてる花の名前を教えてくれて、頼もしかったです。ありがとう」


 セイヤ君が部屋に案内してくれた。ドアを開けた途端、ふわっと花の香りが舞う。カフェオレボウルに詰められたラベンダーのポプリ。

「よく眠れるように、ほんの少し。ここのハーブは僕が庭で育てています」

そう言って、天使はにこっと笑う。


「セイヤさんの名前の字はどんな?」

「星に也で、星也です。ほんとの意味は、星の夜なんでしょうけど……」

三ツ矢星也。まるでサイダーだね。シュワー。


 これ、よかったら。渡されたのは、赤いセロファンで包まれたラムネ?

 ひねって開けると、それはビー玉くらいのあめ玉で、奥に赤い蕾が透けてみえる。

 ローズヒップという薔薇の実ですって。ふわっと華やかな香りがして、夢見心地になる。

 口に入れた途端、水滴が落ちる音がして、心の中に響いた。



 湿った土の匂いが漂ってくれば雨の到来は近い。「もうすぐ雨降るよ」と言うと、あなたは嫌な顔をする。飛び出したあの夜から、もう六日が経つ。一度も連絡をくれないまま、明日はひとりぼっちの誕生日。


 田舎の日曜日を過ごすように、ゆったりと時を楽しんでほしい。ホテルが掲げた言葉。

 リビングはフレンチスタイルのアンティーク家具が並ぶ、暖炉のある部屋。清楚な白、ベージュ、クリーム色、グレイを基調としたシックな色合い。


 ここを選んだ決め手は庭の写真だった。儚げに揺れている花たちは、自然の中で自由気ままに生きているようで、でもきちんと手入れをされていることがわかる。さり気ないハーブの花の多くは、雨の六月に咲くの。



 理由のもう一つは、とある古い教会にある一枚のシャガールを見たかったこと。

 星也君の空色の傘を借りて、雨の中を歩き出した。この傘を差していると、気持ちが浮き立つ。


 青い色は何を表しているのかな。やさしく包み込むようなシャガールブルー。

 空なのか、海なのか、宵闇なのか、風なのか。

 雨、ではないのだろうか。


 だいすきな一枚の絵の前で、ずっとひとり占めして見つめる。

 静かな音が流れてくる。表情を幾重にもまとったその色は、こちらの心地次第で、しあわせにも、哀しみにも、慈しみにもとれる。

 霧雨に包まれているかのように、或いは優しく、時に冷たく。



 帰ってきてハーブの花を見つめていたら、星也君が、「おかえりなさい」って、窓から声をかけてくれる。

「これ、なあに?」

 葉や茎が白い細かい綿毛で覆われていて、さわるとやわらかくてきもちいいの。

「ラムズイヤーっていいます。葉の形が羊の耳みたいでしょ」

 ほんとだ、メェーって鳴きそう。雨上がりの庭の葉たちは、水滴がくっついて、きらきらして見える。自然の宝石。


「ハーブティ、いかがですか」

 星也君が入れてくれたガラスのティーポットは、金魚鉢くらいの大きさでゆらゆら葉っぱが泳いでいる。

「レモン三姉妹です。三兄弟かもしれません」

 細長いのはレモングラス、和名が檸檬茅。ライトグリーンのレモンバーベナ、香水木。みつばちに人気の丸い葉レモンバーム、香水薄荷。

 今まで飲んだハーブティの配合はどれも薬くさかったけど、これはすっきりしてるのに、お砂糖を入れずとも甘い。蜂蜜もあるけどそのまま飲みたい。


 はぁー。大きなため息が漏れてしまった。口からぽわっと出て宙に浮かぶ。

 透明なティーポットに一瞬太陽の光が射して影を落とした。

 明るいまま降り続けている、天気雨だ。


「おっきなため息でしたね。彼氏と喧嘩でもしたんですか」

「黙ってここに来てしまいました」

「一人残された方は、さみしがってますね」



 今夜の泊り客は私一人だけみたい。テーブルのすぐ向こうに白いタイルのオープンキッチンがあって、友人の家に招かれたようなあたたかさを感じる。思わず食器棚から、このカップがいいなって選んでしまいそう。

 

 星也君、ソムリエナイフ使えるんだ。上手にくるって開けてる。

 一緒に飲んでほしくて、「君はもう飲んでいいのかな?」と聞くと、「先月、二十歳になりました」って。


 リースリングを頂きながら、黒板のメニューに目を通す。

 ・サーモンとディルのマリネ 

 ・アンチョビポテト キャラウェイと蕪のピクルス添え

 ・真鯛のポアレのクリームソース ロケットサラダ仕立て

 ・ワイルドストロベリーシャーベット


 あ、フォカッチャに、ローズマリーが入っている。

 どれも香りがよくてお料理に合ってる。おいしい、しあわせなひととき。



 夜更けに大雨になった。ゴーゴー唸るように窓ガラスに叩きつける。割れてしまうんじゃないかと思う程にその音は凄まじくて、遠くで雷鳴が響く。


 結局、今日も連絡はなかった。この雨なら誰にも聞こえやしないと思ったら、急に抑えていた気持ちがこみ上げてきて、私はこどもみたいにわーわー声を上げて泣いた。


 しばらくして遠慮がちにノックする音。

 星也君が立っていた。涙でぐちゃぐちゃでみっともないのに、不思議と取り繕わなくていい気がした。

 彼は黙ったまま私の左手を取って、てのひらにぽんと淡いグリーンのセロファンをのせた。その目はうるうるしていて、やだ、君も泣いていたの? 年下の男の子にどきどきしてしまうじゃない。


「涙が減った分、塩分補給しないと」

 にっこり笑ってるけど、君こそ心配になるような瞳をしてるよ。

 雨の夜は、哀しみに自分を委ねてもいいんだよ。

 口の中のあめ玉が少しずつ溶けていく。確かにそう聴こえた。気持ちが安らいでいく。



 土曜日、太陽が出ていた。星也君は朝からハーブを摘んでいる。白いシャツが光を浴びてまぶしい。

 彼がやわらかな声で唄っているのは、ハーブの歌?

「パセリ セージ ローズマリー タイム」

何ていうのって聞いたら、「スカーボロー・フェア」だって。


 少しだるい。何処にも出かけたくなくて「ここにいてもいい?」って聞くと、「一緒に石鹸作りませんか」って言ってくれる。


 僕の部屋です。通されたのは、ビーカーやフラスコ、試験管が並んでいる、まるで魔法の調合室。天井からドライフラワーがぶら下がっていて華やかだ。矢車草、矢車菊、白、ピンク、青、紫の列。


「工程は簡単です。苛性ソーダは薬局で買う時に一応劇薬扱いなので身分証明がいります。それ以外は家にあるものが原材料です」

 薬包紙に量った粉をオリーブオイルと精製水と混ぜる。理科の実験みたい。

 温度管理が少し難しいけれど基本は混ぜるだけ。おいしそうなカスタードクリーム色。


「型に流し込み、一日ダンボールの中に入れて、こねこに毛布をかける気持ちで温めたのが、こちらです」

 くすくす。まるでお料理番組みたい。

 石鹸のパウンドケーキを切り分けて、木箱で乾かす。お菓子ですって出されたら思わず食べてしまうね。シナモンやはちみつを入れることもあるって。ひと月熟成させて出来上がり。


 色付きのセロファンが目に入る。あ、あめ玉だ。

「僕が作っている飴です。こっちがレインドロップで、もう片方がティアドロップ。和名で言ったら、雨の滴、涙の雫かな」

砂糖で作ったドロップの中に、ハーブや花びらを入れているんだって。


 レインドロップ、ティアドロップ。 雨玉、涙玉なみだま


「見た目はそっくりでしょ。一度溶かして再び固まる時、わずかに結晶が残るのが涙玉の塩。でも、雨玉のはずだったのに時折結晶が転がる。空が流した涙雨のように」



 昨晩あなたに渡したのは涙玉でした。

 セントジョーンズワート、西洋弟切草。聖ヨハネの生誕日頃に咲く、太陽の力が宿る黄色の花。暖かい陽射しを感じられる眠りを誘うハーブ。


 午后の雨は静かだ。水蒸気みたいな小さな雨粒が窓にしがみついている。耐えきれなくなって流れる時に、近くの雨粒も巻き添えになって一緒に堕ちる。さらにその行先を指で邪魔して、いっそ方向を変えてしまおうか。


 今日は私の誕生日。24才になった。彼から連絡はなし。誕生日だけは忘れずにいてくれるかなって期待してたみたい、私。

 バースデーケーキが準備されてる。ブルーベリーの実の祝福。ほろほろに崩れるクリームチーズケーキが淡く優しい。ありがとう。ここに来てよかった。



 夜になって、また本降りになってきた。

 窓の外を見下ろすと、庭の小径で星也君が佇んでいた。両手を掬うように広げて、目を閉じている。雨粒は君を避けているようにみえた。

 声をかけたら「僕は撥水加工がしてありますから」って笑う。こころを読まれているみたい。


 こっちにおいでって誘うから外に出る。私まで透明なドームに守られているみたいで濡れない。なんのことはない、種も仕掛けもないの。ハーブを守るために広げられた透明な屋根があったせい。


「僕の名の星也は、本来なら「星夜」らしいです。或る星の瞬く夜、この庭に捨てられていたって」 

あなたは宇宙人のように、空から落ちてきたのかもしれないね。不思議な人。

「僕はこの庭から生まれたような気がして、ここから離れられないんです。家族になってくれた人たちがみんな優しくしてくれて、何か返したくて」


 あ、頬に涙の跡。

 思わずふれようとしたら、見ないでと言って、君は私を引き寄せて顔を背けた。

 シャツからハーブの匂いがした。それは異国の香りのようで、遠い処から来た旅人のようで。

 髪をそっと撫でてくれる優しい手の温もり。今ほしいもの。

 なぜ連絡くれないの。どうして私を一人にするの。胸が傷んで、思わず君にすがりついてしまった。


 雨に打たれたら全部消えていく気がして、君を連れ出す。容赦のない雨のシャワーを浴びて、途端に体がつめたくなる。

 いとおしそうに、なつかしいものに対するように、星也君は私を見つめた。そして、私を抱き止めてくれた。

 魔法がとけた君の髪から水玉が転げ落ちて、白いシャツが透けて素肌に張り付く。 


 どのくらいそうしていたのだろう。

 ごめんね、つき合わせて。心は遠くにある人に。

 早くお風呂に入って温まってと告げられ、君が右の二本の指で私のくちびるを開く。びっくりした途端、口の中にはドロップ。今夜はつめたい涙玉。


 素直になれるおまじないね。青い静けさ、セージ、水の花。

 離れて見つめることで、きっと見つかるから。



 窓を伝う雨粒を眺めて、感傷的になってる横顔に見とれた。きれいだよ。

 つき合いはじめの頃、そう言ってくれたね。もう幻のように遠い。


 どうやら夜中に見事に熱を出して、私はうなされていた。

 もともと風邪っぽいところに、雨に打たれて、とどめをさしたみたい。

 心配されてる声が聞こえるんだけど、うう、体中が痛い。

 おでこにひんやりしたものを乗せられて、うつらうつらと。



 ロカ、大丈夫か。目覚めたら、目の前に彼がいた。


「驚かせたくてお前の部屋にプレゼント持って行ったら留守で。電話したら男が出て驚いた。熱出して倒れたって聞いて、車飛ばして来たんだ」

おでこにかかる髪を撫でながら、心配そうに私を見つめるあなた。

「ごめんな。一人で行くとは思わなくて」

「逢いたかった」

自分の中から、素直な言葉がぽんと出てきた。


 雨が嫌いだったわけじゃない。雨に負けてる気がしたんだ。

 いつだって、降り始めるとお前の心は窓の外。やっと手に入れたのに、俺のものじゃなくなる。焦ってこっちを向かせようとすると黙り込んでしまう。


 ここに来るまで、ワイパーを最高速にしても拭いきれない雨が次々覆ってきた。だけど、もう乗り越えたいと思って、車走らせた。

 俺はもっと知りたい、関わりたい、雨の日に抱きしめたい。


「あのね、私は大事な時ほど、天候悪いの。小学校の入学式は嵐で、修学旅行は台風だったの。誕生日はいつも雨。私といると、そういう目に遭うよ、きっと」

「いいよ。露花の結婚式……、もう雨の覚悟しておくから」



 月曜日の朝、すっかり熱が下がって起き上がってみると、星也君は学校に行って不在だった。テーブルの上に黄色のセロファンに包まれたふたつのあめ玉がなかよく並んでいる。


 日向色キンレンカの花片入りを、光で透かして口に入れる。

 

 これは雨のドロップ。でも、すこし涙雨。





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レインドロップ*ティアドロップ 水菜月 @mutsuki-natsumi

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