正体
僕は悶々として午後の授業を受けた。屋上での出来事が気になってしまい、たびたび先生に注意されてしまった。
そして下校時に希さんに尋ねたが、お兄さんの事は何も知らないという答えしか返って来なかった。結局結論として、僕の夢という事になってしまった。
だが僕は家に着いてからもその疑問から逃れる事ができず、夕食の時もテレビを観ている時も頭から離れなかった。何とかそれを振り払おうと思い、部屋に戻った。だがそれでもダメだった。
「希さん、君は一体何者なんだ?」
机に向かい、翌日の授業の予習をしようと思ったにもかかわらず、希さんのお兄さんが着けていたと思われるピンを見つめていた。それは幻ではなく、実際にそこに存在している。しかし、希さんはお兄さんが屋上に現れた事実はないと言った。僕はどこから夢を見ていたのだろうと記憶を辿ってみたが、全くわからなかった。あ、いけない。あの時の希さんの膝枕の感触を思い出して、顔が火照って来た。そればかりでなく……。
「くそ!」
落ち着けなくなった僕は部屋を出て風呂に入ろうと思い、箪笥から替えの下着とパジャマを出し、
「今お風呂空いたよ、学」
ちょうど母が入浴を終えたところで、バスローブを着て濡れた髪をタオルで拭きながら廊下を歩いて来た。
「あ、そう」
僕は母に身体の異変を気づかれないように俯き加減ですれ違い、洗面所に逃げるように飛び込んだ。希さんの膝枕を思い出して、邪な気持ちになるなんて、僕は何て最低な人間なんだ。自分を罵りながら服を脱ぎ、浴室のドアを開く。母が出たばかりなので、まだそこには湯気が漂い、湿り気を帯びた空気が顔を撫でた。僕は手早くかかり湯をし、どうにか落ち着き始めた身体の一部を見てフウッと溜息を突くと、そっと浴槽に足を入れ、ゆっくりと身を沈めた。お湯は母が好んで使う入浴剤で乳白色になっており、浴槽の中の自分の身体は見えない。肩こりや腰痛に効果かあると父のために母が選んだのだが、肝心の父は出張続きでほとんどこの風呂に入る事がない。
「ふう……」
僕は足を伸ばして天井を見上げ、目を瞑った。彼女になってくれた岩尾希さん。彼女は可愛くて性格も良くて、僕には勿体ないほどの女の子だ。だが、あまりに不思議な事が多過ぎる。
彼女は何故あの時屋上に現れたのか?
何故お兄さんの制服を持ち歩いていたのか?
どうして虐めに対してあそこまで怒りを覚えるのか?
どうして「岩尾」という苗字で呼ばれるのを嫌がったのか?
そして、これが一番の謎なのだが、どうして僕と付き合ってくれているのか?
彼女はあの時、
「最初からそのつもりだったんですから」
謎めいた事を言った。確かにその後、
「通学路で鞄の中身を撒き散らしてしまった私を、ほとんどの人が見て見ぬフリだったのに、先輩だけが一緒になってノートや教科書を拾ってくれたんです」
僕を好きになった切っ掛けを話してくれたが、それだけなのだろうかと勘繰ってしまう。彼女の心のうちがわからない。僕は身体のほとんどを湯の中に沈めて考えた。
「そんなに私の事を知りたいですか、先輩?」
希さんの声が聞こえた気がした。
「ああ、知りたいよ」
僕は空耳に返事をしてしまった。いや、空耳ではなかった。その声は反響していたのだ。
「じゃあ、お話しますね」
目を開けると、僕の足の間に希さんがいた。いつもはお下げにしている髪をシャワーキャップで覆っている。乳白色のお湯からは細い肩と鎖骨が見えているだけで、そこから下は何も見えない。いやいや、僕は何を考えているんだ? 妄想の度が過ぎて、幻覚が見えているに違いない。慌てて両目を激しく擦り、もう一度見るが、まだ希さんはそこにいた。
「先輩、私は幻じゃないですよ。今、先輩と一緒に入浴中です」
そう言って、きゃっと顔を両手で隠す。可愛いなどと思っている余裕はなかった。何がどうなっているのか、全然理解できないのだ。
「先輩の疑問にお答えしますね」
希さんは紅潮した顔を僕に向けて微笑む。僕は引きつった笑みを返すのが精一杯。
「あの時、屋上に私が現れたのは、先輩が虐めを受けているのを知っていたからです」
希さんは真顔になった。僕は思わず唾を飲み込む。少しずつ状況を掴めて来たため、入浴剤の効能は関係なく、身体が熱くなって来る。湯あたりしそうだ。
「というより、私、先輩の心の中が覗けるんです」
希さんが悪戯っぽく笑って言ったので、僕は顔が爆発するのではないかというくらい恥ずかしくなった。希さんて、
「だから、先輩が虐めを受けて苦しんでいるのは始めから知っていました。すぐに助けてあげられなくてごめんなさい」
希さんは浴槽の中だという事を忘れてしまったのか、頭を下げて顔をお湯に浸してしまった。
「私って、ドジなんですよね」
テヘッと笑って濡れた顔を手で拭う希さんを見て、また邪な気持ちがムクムクと湧いて来そうだ。
「兄の制服を持っていたのは、先輩の未来が見えていたからです」
希さんは僕の邪な気持ちが見えているのかいないのか、擦り寄ってくる。脚に彼女のどこかが触れた。柔らかくて温かい。僕は思わず脚を引き寄せた。
「岩尾って呼ばれるのが嫌なのは、あの兄の苗字だからです。母はある事が切っ掛けで父と離婚して、今の
そういう事か。嫌いな人と同じ苗字だから、呼ばれたくなかったのか。だが、矛盾が生じる。
「でも、そうすると……」
僕が言いかけると、希さんはまた微笑んで、
「何故嫌いな兄の制服を持っていたのか? そう思いますよね。変ですよね」
「あ、うん……」
心の中を覗かれた気がして、心臓が高速ビートを刻み始める。希さんがいるところで変な事は想像できないと思った。
「私にはもう一人兄がいるんです。その兄は父について行って、離れ離れになってしまったんです。先輩にお貸しした制服は私の本当の兄のものですから、心配しないでください」
希さんは再び真顔になった。
「そ、そうなんだ……」
長身のあの人の高校時代の制服が僕に何故合うのか、という謎も解けた。
「そして最後の疑問ですけど」
希さんは更に僕に顔を近づけて来た。彼女の太腿が僕の太腿に当たっている。もうどうにかなってしまいそうな状況だ。
「先輩は、屋上で私と会った時、今この時を逃したら、もう一生チャンスはないと思いましたよね?」
希さんは真剣な表情で僕を見つめて来る。あの時の僕の感情も全部覗かれていたのか……。恥ずかしくて死にたくなる。
「ごめんなさい」
のぞみさんはまたお湯に顔を浸して謝った。
「え?」
何を謝られたのかわからない僕はキョトンとしてしまった。のぞみさんは顔を俯かせて、
「これを話したら、先輩に愛想を尽かされると思うから、言いたくなかったんですけど、言わないのはもっといけない事だと思うので、言いますね」
また僕の顔を見る。その目は潤んでいて、僕はキュンとしてしまった。だから何を言われようとも愛想を尽かす事はないと確信した。
「先輩にそう思うように力を使って私が仕向けたんです。先輩が私の事を好きになってくれるように……。先輩の心を
そこまで言うと、希さんは俯いた。僕の答えを聞くのが怖いのだろうか、小刻みに震えているのがわかる。でも僕の答えは決まっていた。
「何だ、だったら何も問題ないよ。希さんが僕の事を好きなのが偽りではないのならね」
「先輩!」
希さんが抱きついて来た。見えそうで見えない胸が直接僕の身体に当たり、僕の邪な気持ちの具現化が希さんのお腹に当たった。どうかしてしまう!
「先輩のえっち……」
希さんは涙を零しながら僕を見て微笑んだ。
「ごめん……」
僕はそれしか言う事ができなかった。
「でも、まだそこまではダメです。今日はここまでで我慢してください」
希さんはそう言うと、キスして来た。もちろん、僕の唇に。
「……」
身体が固まってしまい、何もリアクションができない。一体どれほどの時間、そうしていたのかわからなかったが、
「明日、映画を観に行くの、楽しみにしてますね」
希さんは身体を離し、ニコッとして小首を傾げると、やっぱり幻だったのかと思ってしまうようにスウッと消えた。だが、それが決して幻でなかったのは、希さんが消えた事で起こったお湯の揺れが証明していた。
僕はしばらく呆然としていたが、ハッと我に返り、急いで頭を洗い、身体を洗うと、浴室を出た。長く浸かっていたせいか、頭がクラクラする。それだけが原因ではないのだろうが。
「随分長湯だったね、学。いつもはカラスの行水なのに」
階段の下で寝室に向かう母と顔を合わせた時にそう言われた。僕は母と目が合わせられず、
「あ、うん、ちょっと考え事していたから……」
すると母は何故かニヤッとして、
「明日の希ちゃんとのデートの事でしょ?」
「か、母さん!」
僕は希さんとのキスを思い出して顔が火照ってしまった。
「お休み」
母はオホホと笑いながら廊下を歩いて行った。
「もう……」
僕は母の背中を睨みつけてから、階段を上がった。今夜は眠れるかな? 不安だ。おや? まだ何か解決していない事がある気がする。僕は歩を早め、部屋に入った。
「あれ?」
机の上に置いたはずのピンがなくなっている。どこかに落としたのかと思って机まで動かして探したが、見つからなかった。もしかして、あれも希さんの力で出したのだろうか? そして、魔法使いの姿の義理のお兄さんも彼女の作り出した幻影なのだろうか?
「……」
更に眠れなくなりそうな事に気づいてしまい、後悔する。希さんとのデートが楽しみで眠れないのなら納得がいくが、母の冗談と消えたピンのせいで眠れないのは何だか悔しかった。
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