粗忽

 睡眠不足で朝を迎えた僕は、余程目が赤かったのだろうか、

「眠れなくて泣いたの、学?」

 朝一で母に突っ込まれてしまった。

「泣く訳ないだろ!」

 僕はキッチンで洗い物をしている母の後ろ姿を見て怒鳴った。

「カリカリしてどうしたのよ? 希さんと何かあったの?」

 今度は急に心配そうな顔をする母。僕は面倒臭かったので、

「何でもないよ。もう希さんの事であれこれ言わないで!」

 そう言って洗面所に行った。

「悪かったわよ、学。もうからかわないから」

 後ろから母の謝罪めいた言葉が聞こえたが、笑い声が混じっていたので、本気ではないとわかる。僕に初めて彼女ができて、僕以上に喜んでいた母。何だかマザコンを絵に描いたような関係に思われるのが嫌だったから、必要以上に母に言い返していた。


 朝食をすませて身支度を整えると、僕は家を出た。

「行ってらっしゃい。焦らないでね」

 母が余計な事を言う。僕は反論したかったが、

「わかったよ」

 返事をするだけに止め、門扉を押し開いて舗道に出た。僕の家から希さんとの待ち合わせ場所である駅までゆっくり歩いて十五分。近道を使えば十分弱で着ける。約束の十時までまだ三十分以上あるから、急ぐ必要もないのだが、希さんの事だからすでに駅にいるのではないかと思えてしまい、門の前に立つ母の姿が見えなくなるのを待って、走り出した。すると改めて鼓動が高鳴り始めた。走っているからではない。希さんとの初デート。付き合い始めて下校時にはあちこち寄ったりはしたが、休日に二人で出かける事はなかったのだ。

「先輩って、私から誘わないとダメなんですね」

 希さんに呆れ気味に言われた時は少しショックだった。ああ、僕は何て気が回らない男なのだろうと思い知らされた。

 そんな事があったからこそ、今日はできれば僕が先に駅に着いていたい。妙な感情が湧いていた。

「せんぱーい!」

 でも無駄な努力だった。予想通り、希さんはすでに駅にいた。項垂れそうになるのを堪え、笑顔全開の彼女に微笑み返す。顔の筋肉がぎこちなく動くのがわかる。

「先輩、まだ約束の時間より二十分も早いですよ」

 希さんは小首を傾げて言う。その仕草だけでも可愛いのに、水色のミニワンピースと黒のショートパンツとブラウンカラーのブーツの組み合わせ。ファッション雑誌から抜け出して来たよう、などという古臭い例えしか浮かばない。周囲を歩いている人達も、希さんの待ち合わせの相手が僕だとわかり、驚いたり笑ったりしているのがわかった。そうだろうな。僕はと言えば、アイボリーホワイトのチノパンに青のチェック柄のシャツ。さすがに裾をインにはしていないが、希さんの服装と釣り合わない気がした。

「希さんより早く着こうと思ったんだけど、負けちゃったね」

 僕は苦笑いして頭を掻いた。すると希さんはクスッと笑って、

「多分そうじゃないかなって思って、私も早めに家を出たんです」

「そうなんだ」

 もしかして、希さん、また「ちから」を使って僕の心を覗いたのだろうか?

「そんな事してません! 先輩ったら、酷い!」

 希さんは口を尖らせて拗ねたように身体を左右に捻る。もうどうしようもなく可愛い。

「ご、ごめん」

 僕はギクッとして謝ったが、

「あれ、今僕の心を覗いた?」

 ちょっと突っ込んでみた。希さんはチロッと舌を出して、

「えへへ、ごめんなさい、先輩」

 そう言いながら、腕を組んで来る。ちょっとだけ彼女の胸の膨らみが当たり、ドキッとした。

「さ、電車来ますよ。行きましょ?」

 グイグイと僕を引き摺るようにして構内へと歩き出した。予定より早く着いているのだから、そんなに急ぐ必要はないのだけれど、まあ、いいか。


 映画館がある町までの切符を購入し、改札を通ってホームに出た。

「何か飲む?」

 僕が自動販売機を見て尋ねると、

「はい、先輩」

 すでに希さんが買っていた。僕にはストレートティ、自分にはアップルジュース。

「あ、ありがとう」

 僕が飲もうと思っていたものだ。また心を覗いたのだろうか? ちょっと困るな。

「半分飲んだら、取り替えっこしましょう、先輩」

 そんな僕の思いは覗いていないのか、希さんはニコニコして提案して来た。

「え、うん、いいよ」

 僕は飲みかけのものを人に飲ませたり、人の飲みかけを飲んだりした事がないので躊躇いかけたが、

(昨日彼女とはキスしたんだっけ?)

 そう考え、深く考えるのはやめにした。小学生の時、好きな女子がいた。遠慮のない男子が彼女の笛やハーモニカを勝手に持ち出して吹いたりして先生に怒られていたな。横で見ていた僕はそいつが何となく羨ましかった。その子と「間接キス」したのだから。

「先輩、はい」

 希さんが飲みかけのアップルジュースの缶を差し出した。僕はハッとして紅茶をゴクリと飲み、

「あ、はい」

 差し出し返した。お互いに相手の缶を受け取り、それを口にする。希さんが僕が口を付けたところから躊躇せずに紅茶を飲むのを見て、ちょっと感動してしまった。この子は本当に僕と付き合ってくれているのだとわかった気がして。僕も希さんが口をつけた缶に視線を落とし、そこからジュースを飲んだ。昨日のキスと違ったワクワク感。何だろう、この感覚?

「ああ、ドキドキした」

 希さんが空になった缶をゴミ箱に放り込んで言った。

「え? どういう事?」

 僕は空き缶を捨てて希さんを見た。希さんは恥ずかしそうに俯いて、

「だって、先輩と間接キスだから」

「そ、そうなんだ」

 改めてそんな風に言われると僕も恥ずかしい。希さんは僕を見てプウッとほっぺを膨らませ、

「先輩は私と間接キスしたの、嬉しくないみたいですね!」

「そ、そんな事ないよ」

 僕はまさか希さんに怒られるとは思わなかったので、慌てて言った。

「だって、昨日、希さんとはキスしたから……」

 そう言いながら、顔がどんどん熱くなるのを感じ、僕は俯いた。

「間接キスって、只のキスより深いんですよ」

 希さんは僕の顔を覗き込んで言う。

「は?」

 何だ? 時々不思議な子だと思う事があるが、今も思った。

「だって、キスは唇同士がくっつくだけでしょ? でも、間接キスは相手と唾液を交換するんですから、只のキスより深いんですよ」

 希さんはふざけているのではないようだ。論文発表をする学者のような顔をしている。

「なるほど」

 何となくではあったが、納得がいってしまった。思ってもみない事を言い出す。そんなところも可愛いと感じた。

「ね、先輩? 間接キスの方がドキドキするでしょ?」

 希さんの笑顔が僕の目の前で弾けた。


 電車に乗っている間、周囲の視線が気になった。というより、自意識過剰なのだろうか、僕は? 周りにいるどのカップルの女性よりも希さんが可愛く見えるので、相手の男達が僕に嫉妬している気がして仕方がなかったのだ。人生初の「勝ち組」になれたのだろうか、などととんでもない事を考えてしまった。

「ありがとうございます、先輩」

 希さんはニコッとして僕に寄り添って来た。また心を覗かれたのだろうか? 言わないとダメかな? そう思った時、

「先輩の心の声が大きい時と小さい時があるんです。だから、そばにいると嫌でも聞こえちゃうんです。ごめんなさい」

 希さんが悲しそうな顔で謝って来た。そういう事なのか。僕の心の声の大きさのせいか。それなら仕方がない。と思いたいのだが、どちらにしても、いろいろと困る事があるな。


 あれこれと考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか映画館の前に着いていた。

「さ、入りましょ、先輩」

 希さんに引っ張られ、中に入り、予約券を買ってある映画の上映ブースに進んだ。予定より早く着いたので、中はまだ人影もまばらだ。

「ここですね」

 座席を探していた希さんが言い、並んで席に着いた。

「観終わったら、さっきの続きをしましょうね、先輩」

 希さんに意味深な事を言われたせいで、僕は映画の内容が頭に入って来なかった。さっきの続き? キスの続きって、何をするの? 妄想が暴走してしまい、隣で叫び声を上げたり涙ぐんだりしている希さんに気を遣う余裕すらなかった。


「先輩、映画楽しかったですね!」

 希さんはスクリーンの世界にドップリと浸っていたのか、僕が妄想を暴走させていたのに気づかなかったようだ。もし気づかれていたら、僕は振られていたかも知れない。いや、そこまで不届きな事は考えていなかったと思うけど。

「さ、続き続き」

 希さんは実に楽しそうに僕を引っ張って歩いて行く。その先には、歓楽街。大人のスポットがある。まさかお酒を飲むつもり? いや、彼女は真面目だから、それはないだろう。あ……。僕は視界に鼓動が更に高鳴るものを捉えてしまった。所謂「ファッションホテル」。男と女があれこれと……。いけない、希さんと繋いでいる右手に尋常ではない汗を掻いてしまっている。まさか希さん、目指しているのはそこではないよね? ないよね、と思いつつ、そこだったらどうしようとか、訳のわからないシミュレーションを始めかけてしまう。

「あった、ここです!」

 希さんが大きな声で言ったので、僕は現実に引き戻された。

「こんなところにあるから、あまり知られていないんですけど、ここ、美味しいんですよ、パスタが」

 目の前にあるのはイタリアンレストラン。三色旗がはためく小奇麗な店構えだ。

「えっと、さっきの続きって……?」

 僕は呆然としながらも何とか質問した。希さんはキョトンとして、

「だから続きですよ。さっきは飲み物を交換しましたけど、今度はパスタを交換するんです。私、食べたいパスタが二つあるんですけど、全部は食べ切れないから、先輩と一緒に来て半分ずつ食べようって思ってたんです」

「そ、そうなんだ」

 僕はホッとしたような残念なような複雑な感情を抑えつつ、希さんに微笑んだ。どうやら、希さんには僕の妄想は知られずにすんだようだ。良かった。

「先輩のえっち」

 ドアを開けながら、希さんがクスッと笑ってそう言ったので、僕は凍りつきそうになった。

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