疑問
僕は小俣学。高校二年生だ。転校初日から続いていた虐めを受けなくなり、今は学校に行くのが楽しい。そのせいで一週間が過ぎるのが倍速になった気がしてしまう。
「行って来ます」
いつものように飛びっきり可愛い彼女の岩尾希さんに迎えに来てもらって、僕は家を出た。今日は金曜日。明日は希さんと映画を観に行く約束をしている。以前だったら全く想像すらしなかったような展開なのだ。
「早く明日にならないかなあ」
希さんはニコニコしながら呟く。僕は彼女を見て、
「そんなに楽しみ?」
「先輩は楽しみじゃないんですか?」
今度は悲しそうな顔をして僕を見る。その表情に胸を締め付けられた。
「もちろん、楽しみだよ」
僕は微笑んで応じたが、今更ながら希さんのテンションがあまりに高いのが理解できない。自分で言うのもおかしいけど、僕は決してイケメンではないし、身長も男子では低い方だ。その上勉強もあまり得意ではないし、かと言ってスポーツも好きではない。そんな僕と映画を観に行くのが楽しみだという希さんの気持ちがどうにもわからない。僕はネガティブ過ぎるのだろうか?
「良かった」
希さんはまた笑顔になり、嬉しそうに歩く。喜怒哀楽が激しい子だ。昔からあまり感情を表に出せないので羨ましい限りだ。だが、彼女に関連して一つだけ気になる事がある。
お兄さん。
コンビニでアイスを買って食べながら歩いているところで遭遇し、
「君か、希が付き合っているという男は?」
と見下されたような視線で尋ねられた。僕も好印象は抱かなかったけど、希さんは毛嫌いしている感じだった。でも、きょうだい仲が悪いのは悲しい事だ。一人っ子の僕にはきょうだいはいるだけで嬉しいと思えるのだけど。
(あれ?)
その時、ふと疑問が湧いて来た。僕が学校の屋上で希さんに会った時、
「あ、これ、兄のなんです。もう卒業したから必要なくなったので」
そうだ。お兄さんの高校時代の制服を貸してくれた。仲が良くないのにそんな事ができるだろうか? それより、普通、自分のお兄さんの制服を学校に持って来る事があるだろうか? 疑問どころか、不思議だ。どういう事なのだろう?
「どうしたんですか、先輩?」
僕が黙り込んでいたので、希さんが顔を近づけて来た。たちまち頬が紅潮してしまう。
「あ、ごめん、何でもないよ」
僕は苦笑いして誤魔化した。お兄さんに会った後、一度話題にした事がある。しかし、
「兄の話はしたくないんです、ごめんなさい」
そう言われてしまうともうそれ以上尋ねる事ができない。そのせいで僕の頭の中では、希さんとお兄さんの関係が理解不能のままになってしまっている。もしきょうだいの仲が悪いのにお兄さんの制服を持ち出したのだとしたら、まずい。いくら卒業して必要なくなったのだとしても、何かの切っ掛けで思い出して探すかも知れない。そうなったら、希さんはお兄さんに問い詰められないだろうか? 僕はどんどん不安になった。しかし、お兄さんの話はしたくないと言う彼女の意思に反して、制服の話題を切り出すのも躊躇われる。そんな事を考えているうちに学校に着いてしまった。
「先輩、今日はお弁当持って来たので、一緒に食べませんか?」
希さんが去り際にそう言って来た。僕は彼女を見て、
「うん、いいよ。どこで食べる?」
「屋上、どうですか?」
希さんは小首を傾げて言う。僕は屋上にはちょっと嫌な思い出があるのだが、あそこは同時に希さんと初めて出会った場所でもある。
「屋上だね。わかった。楽しみにしてるよ」
「わーい!」
希さんがあまりに嬉しそうに飛び跳ねたので、僕は思わず噴き出してしまった。その時、チラッとパンツらしきものが見えたのは絶対に言えない。彼女はちょっとそういう方面には意識がいかないみたいで、時々角度的に丸見えな時があって目のやり場に困る事がたびたびなのだ。でも僕から、
「見えてるよ」
と言うと、いつもそんなところに目が行っていると思われそうな気がしてしまうので、言えない。
一人になって玄関に入り、靴を履き替えている時、また先ほどの疑問が復活して来た。希さんは何故お兄さんを嫌っているのか? その嫌っているはずのお兄さんの制服をどうして持ち歩いていたのか? 考えれば考えるほど謎は深まる。僕の回転の悪い頭ではどうにも解決の糸口は見つかりそうもない。
「あ……」
教室に着いて席に座った時、ふと思いついた事があった。もしかして、希さんはお兄さんが大好きなのに反発しているのかも知れない。最近よく耳にする「ツンデレ」なのだろうか?
「席に着け」
担任の先生が入って来たので、僕は岩尾家の謎を探るのを中断した。
ホームルームが終わると、僕は再び謎解きを開始した。希さんがお兄さんを嫌う理由、そしてそれが本意なのか、偽りなのか? でもわからない。それにそんな事を知りたがっているのを希さんに知られたら、嫌がられるかも知れない。彼女が嫌がる事をしたいとは思わないので、謎解きは諦める事にした。その時、初めて会った時にも何かで希さんに嫌がられた事があったのを思い出した。あったのを思い出せただけで、具体的に何を嫌がられたのかは思い出せない。情けなくなるほどの記憶力だ。悲しくなってしまった。
やがて一時限目が始まり、僕は岩尾家の謎を頭から追い出して授業に集中した。つもりだったが、いつまでもその事が気にかかり、先生の話がまるで耳に入って来なかった。二時限目も三時限目も同じで、僕は上の空で授業を受けていた。自分でも不思議なくらい希さんとお兄さんの事が気にかかっていた。
そして、待ちに待った昼休み。僕は教室を飛び出して、希さんとの待ち合わせ場所である屋上へと走った。階段を駆け上がり、息を切らせて辿り着く。希さんはすでに来ていて、コンクリートの床の上にイチゴ柄のレジャーシートを敷き、弁当箱の蓋を取っているところだった。
「先輩!」
希さんは笑顔全開で僕を見上げた。僕は何となく照れ臭くなり、俯き加減で彼女に近づいた。そして、まだお兄さんとの事を知りたいと思っている自分に驚いた。
「お母さんに手伝ってもらったけど、ほとんどは私が作ったんですよ。よろしくお願いします!」
希さんは僕に端を差し出し、頭を下げた。僕は面食らいながらそれを受け取ると彼女の向かいに腰を下ろした。
「ああん、どうしてそこに座るんですかあ」
希さんは顔を上げるや否や口を尖らせた。
「え?」
僕がキョトンとしていると、希さんが立ち上がり、隣に座った。身体が密着して彼女の体温を感じ、鼓動が高鳴る。
「私達、お付き合いしてるんですから並んで食べましょうよ、先輩」
希さんは悪戯っぽく小首を傾げて微笑む。更に鼓動が高鳴るのがわかった。
「そ、そうだね」
僕の顔は確実に引きつっていたと思う。
希さんが心配していた弁当の味は予想を遥かに超えて美味しかった。
「美味しい」
正直に言ったのに、
「ホントですか?」
目を潤ませて疑うような顔で僕を見つめる。
「ホントだよ。多分、僕の母親のより美味しいよ」
ごめん、母さん! 心の中で母に詫びる。言い過ぎとは思わないけど、引き合いに出したのは申し訳ないと思ったのだ。
「ホントですか!?」
希さんの顔が一気に明るくなった。感情の起伏が激し過ぎるよ、希さん……。
「嬉しい! 大好き、先輩!」
いきなり抱きつかれて、僕はそのまま後ろに倒れてしまった。ムギュッと何か柔らかいものが当たるのを感じた。まさかこれは……。
「ごめんなさい、先輩、私ったら……」
目の前に希さんの真っ赤になった可愛い顔がある。彼女は僕に圧し掛かってしまった事を詫び、すぐに飛び退いた。ちょっとだけ残念な気がしてしまった。
「大丈夫だよ。謝らなくていいよ」
僕は鼻の下が伸びていないか触って確認しながら起き上がった。
「でも良かった、美味しいって言ってもらえて……」
今度は涙ぐんでいる。忙しいなあ、希さん。
「またいつか希さんのお弁当を食べさせてよ」
僕は社交辞令ではなく、心の底からそう思って言った。
「はい、先輩」
希さんは涙を拭って微笑んだ。
その後も楽しく食事をしたのだが、希さんが「ああん」をしたいと言ったのだけは土下座して許してもらった。恥ずかしかったのだ。彼女は残念そうだったが、
「先輩がそんなに嫌なのなら、諦めます」
寂しそうに同意してくれた。そして、断熱ボトルに入った温かいお茶を飲んだ。
「先輩」
希さんがボトルを片付けながら真顔で僕を見た。僕は彼女のそんな表情を久しぶりに見た気がして、
「何?」
探るように尋ねた。すると希さんは、
「先輩、私と兄の事、知りたいと思ってますよね?」
その言葉に心臓が止まりそうになった。顔に嫌な汗が噴き出すのがわかる。
「いや、別にそんな事は……」
僕は作り笑いをして否定した。しかし希さんは、
「変ですよね、私と兄のやり取り……。気になるのが当然だと思います」
苦笑いをして僕を見る。僕はまた心臓が止まりそうになる。何だ? 何かすごい秘密があるのか、岩尾家には? 興味が湧くというより、怖くなって来た。
「お話しますけど、誰にも言わないでほしいんです。あまり知られたくない事だから」
希さんは真顔のままだ。僕は唾を飲み込み、
「わかった。誰にも言わないよ」
知られたくない事って何だろう? お兄さんと希さんとの間に何があるのだろう? 止まりそうになっていた心臓が今度は肋骨を破らんばかりに激しく動いている。
「実は私と兄は本当のきょうだいではないんです」
希さんのその言葉は僕を妄想の世界に
「でも、漫画であるみたいなおかしな関係ではないですよ」
希さんは念を押すように僕を見て告げた。僕は苦笑いするしかない。
「私があの兄を受け入れられないのには別の理由があるんです」
希さんの顔に悲しみが満ちていく。何があったのだろう? 僕の心臓は壊れそうだった。
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