困惑

 とある高校に通学する小俣学。彼は生来の気の弱さの上、転校生という特別な境遇も手伝って、クラスメートほぼ全員から虐めを受けていた。勿論、実際に彼に暴行を加えたりしていたのはそのごく一部であるが、他のクラスメート達もそれを見て見ぬフリをするという消極的な虐めをしていたのも同然なのだ。そして多くの虐めがなくならない原因の大半がこれら消極的な虐め参加者のせいなのである。

 そんな小俣の前に一人の美少女が突然現れた。彼女の名は岩尾希。おさげ髪の大きくて黒目がちな瞳の一年生だ。吐瀉物まみれという悲惨な状況にも関わらず、希は小俣に救いの手を差し伸べ、彼女の兄のお古だという制服を提供してくれた。根が単純な小俣は完全に希に心を奪われ、玉砕覚悟で告白した。すると希はそれを承諾し、

「私、最初からそのつもりだったんですから」

と不思議な言葉を返して来た。小俣はあまりの展開に唖然とし、口を開いたままで希を凝視している。

「小俣先輩、どうしたんですか?」

 小俣の様子がおかしいと直感した希が彼の顔を覗き込んだ。

「え?」

 我に返った小俣の視界の中心ににピンクのうさぎのキャラが描かれたスポーツバッグを右肩にかけている希の可愛い顔があった。

「わわ!」

 呼気がかかりそうなくらいの距離にある美少女の顔に動揺した小俣は、思わず後退り、尻餅を突いてしまった。

「あ、ごめんなさい、先輩。大丈夫ですか?」

 希は小俣に手を差し出した。小俣は慌てて立ち上がり、

「あ、うん、こっちこそごめん、ボンヤリして……。まさか僕の告白を受けてくれるなんて夢にも思わなかったから、すっかり気が動転してしまって……」

 そう釈明しながらも、自分の失態が恥ずかしいため希の顔を直視できない。希は破顔一笑し、

「先輩って、楽しい方ですね」

「た、楽しい?」

 小俣は物心ついてから一度も誰からも言われた事のない形容詞を使われ、目を見開いて希を見る。

「ええ、楽しい方です」

 希の近距離の笑顔があり、また顔が次第に紅潮して来るのを感じる。

「さ、階下したへ行きましょ、先輩」

 希は小俣の動揺など委細構わず彼の右手を自分の白くて柔らかい右手で掴むと、駆け出した。

「うわ!」

 小俣は希に引っ張られてバランスを崩しかけたが、辛うじて転倒を免れ、彼女に続いて屋上を出た。


 二人は階段を駆け下りると、まずは小俣のクラスへと向かった。小俣はこのまま希と手を繋いだままで教室に戻ったりしたら、向日木薫達の標的にされてしまうと思った。

「うわあ!」

 途中にあった男子トイレの中から聞き覚えのある誰かの叫び声が轟く。

(今のは確か、町田?)

 向日木達を裏で操っていた虐めの黒幕である町田昇の声だと小俣は確信した。

「悪かった、悪かったよ、後藤! だからもう、俺の顔を元に戻してくれ!」

 町田の泣き叫ぶ顔が浮かんだ小俣は少し彼に同情しかけたが、

(自業自得だ。あいつは後藤君を自殺に追い込んだんだ。それくらいの罰は受けるべきだ)

 しかし希には聞こえていないのか、彼女はそのまま無反応に通り過ぎた。


 小俣の心配をよそに希は全く臆する事なく彼の教室に足を踏み入れた。当然の事ながら、まだ幾人か残っている生徒がいた。そしてその中に虐めの実行犯の筆頭格である向日木もいた。

「……」

 後ろの扉を開いて中に入った小俣は机の上に足を載せて反り返っていた向日木に気づいて硬直しかけたが、何故か向日木も小俣を見てビクンとなり、机から足を下ろして椅子に座り直した。しかもその目はまるで幽霊でも見ているかのようだ。

「ひ、ひィ!」

 向日木は鞄を掴むと、一目散に前の扉から教室を飛び出して行った。それに続いて同じく小俣を虐めていた倉持仁も、

「お、俺を置いていかないでくれよお!」

と泣きそうな顔で叫び、転がるような勢いで飛び出して行った。小俣は勿論、教室に残っていた他の生徒も仰天して二人の「脱出劇」を見ていた。

「どうしたんだろう、あの二人?」

 小俣が首を傾げて呟くと、

「それより、早く帰りましょう、先輩」

 希が小俣の席から鞄を持って来て、彼に手渡した。小俣は、

「ありがとう」

と受け取りながら、ある疑問を感じた。

(あれ、僕、希さんに席を教えたっけ?)

 記憶の糸を遡ってみるが、その点が曖昧でよく思い出せない。

「失礼しました」

 希は好奇の目で二人を見ている他の生徒達にお辞儀をすると、

「さ、帰りましょう、先輩」

 また小俣の手を掴み、駆け出す。小俣はそれに引き摺られるように走り出した。教室に残っていた生徒達は口々に小俣と一緒にいた美少女が誰なのか囁き合った。

「どうしてあの子は小俣と手を繋いでいたんだろう?」

「きっと妹だよ」

「妹にしては奴に似ていなくて可愛かったぞ」

「父親か母親が違うんだよ」

 皆勝手に度が過ぎた推測を展開していた。


「玄関が違うから、ここで一旦お別れですね。校門の前で待ってますから」

 名残惜しそうに希が言うので、小俣の小動物のような心臓が鼓動を早める。

「う、うん」

 プリーツスカートをはためかせて身を翻すと、希は廊下を駆けて行く。スカートの下から覗く奇麗な脚を見て、小俣は再度顔を赤らめた。

(やっぱり夢だろうか?)

 またそんな思考が彼の脳内を支配し始める。でも、それはあり得ない。現実なのだ。

(どうして希さんは僕なんかと付き合ってくれるのだろうか……)

 情けない習性であるが、小俣は小さい頃から誰かに好かれた事がないのだ。そのため、自分に対する希の積極的な姿勢に首を傾げたくなってしまう。

(それに僕みたいな臆病な人間が、どうして告白なんかできたんだろう?)

 あの時一世一代とは思ったが、それ程の決断ができた自分が信じられない。上履きからスニーカーに履き替えながら、小俣はあれこれと考えを巡らせたが、どうしても納得のいく答えが出せない。

(それから、希さんは何故お兄さんの制服を持って来ていたのだろう?)

 一番不可思議な別の疑問が頭の中に湧いた時、

「もう、先輩、遅過ぎです!」

 待ち切れなくなったのか、希が外から駆け込んで来て、頬を膨らませて小俣を上目遣いに睨んでいる。

「あ、ご、ごめん……」

 彼女の行動に疑問を抱いていたところに声をかけられたので、小俣はばつが悪くなって頭を掻いた。周りにいた他の生徒達が苦笑いしているのに気づき、

「い、行こうか」

 小俣はぎこちなく左右の足と手を動かして歩き出し、玄関を出た。

「先輩」

 希が追いつき、小俣の左手を右手で握る。柔らかくて温かい彼女の掌を感じて、小俣は先程までの疑問を振り払った。

(希さんに裏があるなんて考えられない。町田の事があった直後だから、そんな風に思ってしまうんだ)

 その二人を向日木と倉持が玄関の下駄箱の陰からそっと見ていた。

「何者なんだ、あいつは……?」

 二人の口は同じ言葉を漏らした。そしてその目は得体の知れないものを見ている目だった。

 

 小俣と希は手を繋いだまま校庭を出て、学校の前を走る大通りの舗道を歩く。木々の間から、すっかり傾いた夕日が見える。空は橙色に染まり一部は茜が射して来ていた。

「ずっとこうしたかったんです」

 小俣の手に指を絡ませて希は嬉しそうに言う。そんな彼女の言葉に小俣は戸惑いの色が隠せない。

(ずっとこうしたかったって、どういう事?)

 そんな疑問が湧くのだが、何故かそれを口にした瞬間、今まで積み上げられて来た全てが崩壊して夢から覚めてしまいそうな気がして言い出せない。

「先輩が転校して来た日、私、先輩と話しているんですよ。覚えていませんか?」

 希は俯き加減で歩く小俣の顔を覗き込んだ。

「え?」

 小俣は足を止めて希を見た。希の顔は小俣の想像以上に近くにあったので、彼はまた顔を紅潮させた。転校して来た日なら思い出せそうな気がしたので、一生懸命頭を働かせた。でも、ダメだった。

「ごめん、覚えてない……」

 小俣は頭を下げて自分の記憶力のなさを詫びた。

(こんな可愛い子に会った事を忘れてしまうなんて、どうしようもない……)

 小俣が恐る恐る顔を上げると、希は微笑んでいて、怒っている様子はない。

「仕方ないですよ。朝の忙しい時のほんの短い間でしたから。謝らないでください、先輩」

 希は落ち込む小俣を励ますように言い添えた。

「そうかも知れないけど……」

 希が許してくれても、自分で自分を許せないと小俣は思っていた。

「通学路で鞄の中身を撒き散らしてしまった私を、ほとんどの人が見て見ぬフリだったのに、先輩だけが一緒になってノートや教科書を拾ってくれたんです」

 希がそう言うと、小俣の記憶の糸が解れ始めた。

(そう言えば、そんな事があったような……。それで『転校初日に遅刻とは大物だな』とか、先生に言われたんだ……)

 ついでに嫌な記憶の糸も解けてしまった。

「その時、私、恋に落ちてしまいました。この人とお付き合いしたいって……」

 言ってしまってから余程照れ臭かったのか、希がきゃっと叫んで両手で顔を隠したのを小俣は見た。

(やっぱり圧倒的に可愛い……)

 小俣はもう一度恋に落ちてしまった。

「だからこうして先輩と下校途中なのが信じられないんです」

 希は手をどけて、まだ少しはにかんだ顔を俯かせる。

「それは僕も同じだよ。希さんと一緒に歩いているなんて、未だに信じられないくらいなんだ」

 希の可愛過ぎる仕草に胸を高鳴らせながら、小俣は自分の気持ちを打ち明けた。

「ほ、ホントですか? 先輩も?」

 大きな目を更に見開き、驚愕の表情で希が小俣を見つめる。

「本当だよ」

 小俣は視線を背けそうになるのを必死で堪え、希を見た。

「私達って、運命の出会いをしたんですね、きっと」

 希の大袈裟な例えに小俣は苦笑いをした。

(ずっと希さんと付き合っていきたい)

 また手を繋いで来た希を見ながら、夢なら覚めないでくれと思う小俣であった。

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