告白
僕は吐瀉物まみれになった顔が引きつるのを感じた。虐めのリーダーである町田に自殺した後藤君の霊がスウッと乗り移るのが見えたからだ。
「こいつを虐めるのもそろそろ飽きたな。行こうぜ」
町田が向日木薫達を見て言った。すると何故か向日木や倉持仁、三木嘉隆の三人の顔色が変わった。
「あ、あ、あ……」
三人とも町田を指差し、歯の根も合わないほど震えている。町田は首を傾げ、
「何だよ。俺の顔に何か付いてるか?」
と言いながら、こちらを向いた。僕はもう少しで叫んでしまうところだった。町田の顔が後藤君の顔になっていたのだ。向日木達はそれに気づき、震えていたのだ。
「もうお前の事虐めねえから、安心しな、小俣。但し、誰かに喋ったら許さねえからな」
町田は自分の身に起こった事を知らないまま、バットを放り出すと屋上を去った。向日木達はしばらく呆然としていた。
「うわああ!」
突然向日木が雄叫びをあげて走り出す。それに触発されたかのように倉持と三木も走り出し、屋上から去った。
「く……」
僕はまだ口の中に酸っぱいものを感じながら、よろよろと起き上がる。そしてスラックスのポケットから決して清潔とは思えない皺くちゃのハンカチを取り出して顔を拭った。ブレザーもスラックスも吐瀉物でベチョベチョだ。嫌な臭いも漂って来る。
(どうしよう?)
これでは家に帰れない。両親には虐められている事を話していないのだ。こんな状態で戻ったりしたら、大騒ぎになる。だが、学校に着替えなんて持って来ていない。あるのは体育の時に着るジャージだけ。でもそれを着て帰っても、どうしたのかと訊かれるだろうなどといろいろ試行錯誤していた時だった。
「うわあああ!」
階段の下から町田の叫び声が聞こえて来た。何だろうと思い、そっと扉の向こうの階段を覗く。すると踊り場の鏡の前で町田が腰を抜かしていた。恐らく自分の顔が後藤君の顔に変わっているのに気づいたのだろう。向日木達の姿は見えない。町田はうずくまるようにして必死に何かを言っていたが、声が小さくて聞き取れない。そのうち、奴はまた叫び声を上げると、階段をまさしく転げるように降り、いなくなってしまった。
「それにしてもどうしよう……?」
屋上に戻り、現状と向き合う。自分が戻したものなのに、また吐き気がして来るほど臭い。堪え難くなって来た。
「そこで何してるんですか?」
途方に暮れている僕に声をかけて来た人がいた。
「え?」
反射的に振り返ってしまう。するとそこにはお下げ髪の女子が立っていた。制服のリボンの色から、一年生なのがわかる。目がクリクリしていて人懐っこそうですごく可愛い子だ。こんな時にバカだと思うが、好きになりそうなほどタイプだ。
「あ、いや、その……」
僕はそんな可愛い子に吐瀉物だらけの服を見られたのが恥ずかしくて俯き、そのまま屋上から逃げ出そうとした。するとその子は僕の左腕を掴み、
「待ってください。さっき、二年生の男子が階段を駆け降りて来るのを見て、何かあったと思って来たんです」
「え?」
意外な言葉に僕はギクッとして彼女を見た。彼女は僕を真剣な表情で見て、
「あの人達、虐めをしているって聞いた事があるんです。もしかして……?」
僕はその視線に堪えられなくなって顔を背けた。彼女はそれを肯定と解釈したようだ。
「そうなんですね。ちょっと待っててください」
彼女はクルッと身を翻すと屋上から出て行った。フワッと広がったスカートの下に見えた奇麗なふくらはぎにドキッとしてしまう。
「えーと……」
また一人になり、考える。あの子を待った方がいいのだろうか? 僕は町田にされた仕打ちの後遺症で人間不信に陥っていた。いずれにしても、このままでは下に降りてはいけない。取り敢えずブレザーを脱ぎ、ハンカチで乾き始めている吐瀉物をこそぎ落とした。続いてスラックスを脱ごうと思ったが、あの子がもし戻って来たらまずいと思い、履いたままでハンカチで拭いた。
(戻って来るのを期待してるのかよ)
自分に自分で突っ込む。転校初日に向日木達に目を付けられたせいで、クラスの女子に挨拶すらしてもらえなかった僕は、初めて話しかけてくれたあの子に確実に惹かれていた。
(しかも可愛いしな)
僕の中のもう一人の僕が嫌味を言う。そうだな。それが一番の理由だ。話しかけられたのはあまり関係ない。多分。
「良かった、いてくれたんですね」
彼女は息を弾ませて本当に戻って来た。右肩に提げたピンクのうさぎのキャラが書かれたスポーツバッグが重そうだ。
「あ、うん」
間の抜けた応答しかできない自分が恥ずかしい。しかし彼女はそんな事は全然気にしていないようだ。
「お古だけど、良かったら使ってください」
バッグのファスナーを開き、彼女が中から取り出したのは男子の制服だった。
「え?」
何でこの子、男子の制服を持ってるの? 疑問が湧く。
「あ、これ、兄のなんです。もう卒業したから必要なくなったので」
彼女は僕の丸わかりなキョトンとした顔を見て答えてくれた。
「ありがとう」
僕は涙が出そうだった。この学校に来て三ヶ月、こんなに親切にしてもらったのは初めてだったから。そして同時に彼女の事を信じ切れなかったのが恥ずかしかった。僕は彼女から制服を受け取った。
「あ、ごめんなさい、私が見てたら着替えられないですよね。誰も上がって来ないように階段で見張ってますから、着替え終わったら声をかけてください」
彼女は照れ笑いを浮かべ、また屋上を出て行こうとする。
「あ、あの……」
僕は意を決して声をかけた。彼女は立ち止まって振り返る。
「はい?」
その笑顔が眩しくて、僕はまた俯いてしまった。
「ぼ、僕は二年十二組の小俣学です。貴女は?」
「私は一年五組の
彼女はニコッとして小首を傾げて名乗ってくれた。やっぱり可愛い。
「いろいろありがとう、岩尾さん」
僕は涙を堪えて礼を言った。すると岩尾さんは唇を可愛く
「名字で呼ばないでください、小俣先輩。私、自分の名字が嫌いなんです」
意外な反応が返って来た。名字が嫌いなのか。
「え、でもそうすると……」
僕は顔がドンドン熱くなるのを感じていた。岩尾さんはクスッと笑って、
「希って呼んでください。のぞみんでもいいです」
「あ、そう……」
僕は顔が火照っているのを岩尾さんに見破られていないか気にしながら応じた。
「じゃあ、下で待ってますね」
岩尾さんはまたフワッとスカートを翻して屋上を出て行った。バカな奴だと思われるだろうが、僕は完全に恋に落ちてしまった。
汚れていないブレザーの裏地を表に出してコンクリートの床に敷き、その上に岩尾さんから渡された制服を置いた。誰もいない屋上だとはいってもこんなところで服を脱ぐのは何だか妙な感じだ。幸い下着までは浸透していなかったので、染みができたワイシャツを脱ぎ、それを雑巾代わりにして首や顔を拭った。
「ふう……」
服を着替えるだけでこれほど疲れたのは生まれて初めてだし、これからもないだろう。僕はワイシャツとスラックスを裏返したブレザーで包み、岩尾さんを呼んだ。
「の、希さん、終わったよ」
彼女の名前を呼ぶ時、何だかすごくドキドキした。
「早かったですね」
岩尾さんは飛びっきり可愛い笑顔で現れた。僕は彼女をまともに見られなくて俯いてしまう。
「本当にありがとう。お陰で助かったよ」
人としての礼儀を忘れてはいけないと思い、頭を下げた。
「どう致しまして。私、虐めをする人達が本当に許せないんです。何が面白くてあんな事をするのか……」
彼女は右の拳をギュッと握って力強く言った。何だろう、この気迫のようなものは?
「ごめんなさい、私ってば、一人で熱くなっちゃって……」
ペロッと舌を出して照れ笑いする岩尾さん。ダメだ、可愛過ぎる。
「いや、そんな事ないよ」
岩尾さんが僕を助けてくれたのは、虐めが許せないから。それ以上のものはない。僕は勝手に好きになって、勝手に失恋したと結論づけた。もうこれ以上の妄想はやめよう。
「それ、洗濯しますから」
岩尾さんはぼんやりしていた僕からブレザーに包まれたワイシャツとスラックスをスッと取り上げ、スポーツバッグに詰め込んでしまった。
「え、あの、そこまでしてもらったら、悪いよ」
僕はハッと我に返り、慌ててブレザーの袖を掴んだ。
「いいんです。気にしないでください、小俣先輩」
岩尾さんはまた飛び切りの笑顔で言う。僕はポオッとなってしまい、掴んでいた袖を放してしまった。そして、人生最大の決断をする。今この時を逃したら、もう一生チャンスはないとまで思った。
「の、希さん」
「はい?」
岩尾さんはバッグのファスナーを閉じながら僕を見る。少しキョトンとしているみたいだ。
「付き合ってる人とかいますか?」
うわ、ちょっと直球過ぎた。唐突もいいところだ。頭がおかしいと思われるぞ。ところが、
「いえ、いませんよ」
何故か岩尾さんはニコッとして応じてくれた。驚いた、引かれていない。冗談だと思われたのかな?
「じゃ、じゃあ、ぼ、僕と付き合ってください、嫌でなければ……」
最後の方はゴニョゴニョになってしまった。顔が熱い。眩暈がする。倒れそうだ。
静寂が訪れた。本当は短い時間だったのかも知れないけど、僕には途方もなく長く感じられた。
「嫌だなんてとんでもない。私、最初からそのつもりだったんですから」
「ええ!?」
岩尾さんの言葉がよく理解できなかった。最初からそのつもり? どういう事?
「こちらこそ、よろしくお願いします、先輩」
岩尾さんはペコリと頭を下げ、またニコッとした。僕はもう何が何だかわからなくなっていた。何これ? 壮大などっきり? いつネタばらしがあるの? それとも全部夢? そんなオチ?
「先輩?」
無反応の僕を岩尾さんが不思議そうな顔で見ていた。
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