21グラムの慰め

きづ柚希

21グラムの慰め


 魂が人を生かすための器官であるとするならば。21グラムの不可視の物質が、この身体を支配しているというならば。それはあまりにも軽すぎる。


 姉は泣くな、と言った。ただ泣くな、と。

 当時の姉が、ジェームズ・ランゲ説を理解していたか否かを私は知らない。それを知る術も無い。感情とは行動に伴って表出される。「悲しいから泣くのでは無く、泣くから悲しいのである」、ジェームズ・ランゲ説の本質を突いたこの一文はあまりにも有名だ。

 目の前にあるのはブラックボックス。しかるべき手順によって採取された故人の魂をこの箱の中に入れると、死者の言葉が再生される。葬式の間に採取された魂は、遺族によって規定の期間の所持が認められ、その間に一度だけブラックボックスによって死者の代弁が許される。続々と親族へと行われる故人最後の言葉に、場はさめざめとし、皆が悲しみの表情を表出していた。

 説によれば私が泣いているのは周囲の機微を読み取った結果の反射的な反応にすぎず、悲しいと思うのはこれが告別式という故人の旅立ちの場であるからである。感情が行動に伴うのだとすれば、場の変化によって感情が変化する。身内の結婚式であればその涙はうれし涙と、不合格通知を受け取った場面であればその涙は悔し涙と認知される。ここで疑問になるのは、行動に伴われた感情は果たして真であるかということである。しかしその感情が偽であるという論証は無い。なにぶん人の感情表出のプロセスと言うのは、酷く難解であり、現在に至るまでその感情の真偽は解明されていないためである。

 姉は私に泣くなと要求した。その理由は故人を悼む場に私の喚き散らすような泣き声が不適切だと判断したからか、それともただ単に煩わしかっただけなのか。或いはそのどちらもなのだろう。姉は私の唾液にまみれた口を掴み、その手を上に押し上げた。姉は”笑い”の表情を私に強制したのである。行動に感情は伴う。”笑い”の表情を形作られた私は大声を上げることも許されず、その後徐々に自身の感情が純粋な悲しみから別の感情へと変移していくのを感じた。






「可愛い目をしているでしょう」

 姉と姉の夫とは似ても似つかない黒い目。その生まれたばかりの小さな命を抱えながら姉が言った。それに私は同意の意を示したが、心の奥底では嫌悪すら感じていた。あなたのことが好きなのね、私の指をぎゅっと握った行動に姉は朗らかと笑ったが、それが把握反射であることを私は知っていた。

 生まれる子供たちの多くは生前に遺伝子操作がなされる。女性の子宮から採取した卵子と男性から採取した精子を人工的に受精させる。受精卵の段階で遺伝子操作を行い、母体へと戻す。ほんの30年ほど前ではデザイナーベビーと言われ倫理的観点からバッシングの嵐であったと聞くが、それも過去のことだ。大統領が二、三回変わる間にデザイナーベビーは急速に私たちの生活の中に広がった。

 医療技術によって救われる命があるといえども限りがある。遺伝的要素が大きく関わる疾患、生活習慣病、犯罪遺伝子、自殺遺伝子の発見、最初から備わることが無ければ苦しむことなく死ぬことのない命の数は増える。元来子供には健康に生まれる権利がある。病を知らず、罪を知らず、平和で安寧がもたらされる世界に生まれる代償として子供たちは、本来親から受け継がれられるはずの形質的特徴を放棄せざるを得なかった。子供が愛着を示す人間との、ひいては両親との外見的差異は成長するごとに顕著なものとなる。

「あなた、いやだって顔してるわね」

「なにが」

「この子を生理的に受け付けないんでしょう。私たちに似ない。この子のこと」

 姉は人の機微を推し量ることに長けていた。

 ぎい、と病室天井部に設置された監視モニタが首を振る。監視モニタの設置は犯罪抑止を目的とするだけでなく、国民全員の健康管理をも受け持つ。心拍数、体温、発汗、血中ホルモン、身体的変化を読み取り、異常が見られれば本人、周囲へと通達する。瞬きの回数や体温の上昇、手足からの発汗が異常であるとのデータが私のデバイスに通知される。人が嘘をつく際の典型的な特徴だ。それは当然姉のデバイスにも通達され、姉はそれを見遣るとやっぱり、と穏やかな笑みを見せた。違うと言いかけた口は自然と閉じられ、私は口を噤んだ。

「この子は誰にも似ていない。目の色も髪の色も黒いし、このすっと通った鼻筋も薄い唇も、誰にも似ていない。私たち一族の誰にも似ていない。産む前は確かにあなたと同じように思ったけれど、今はそれがよかったと思っているの」

「自分たちには一切似ない子供が?」

「ええ、そうよ」

 親と子が似ない、それはここ最近ではあまりにも普遍的になりつつある。しかし私にはこの一連の優性遺伝子至上主義とも言える流れが、生命の基幹を蝕むものであると感じざるを得なかった。

 確かにこの遺伝子操作がなされる世代は自由だ。人の行動、言動、心身の状態までもが逐一分析されるこの過保護すぎる監視保護社会において、この世代は最も自由な人間になりうる。誰もが望む平和な世界へと近づく。

「この子たちは病気を知らない。自ら死を選ぶことだって人を殺すだなんて悍ましいことだってこの子たちが大人になる頃にはすっかり無くなってしまうのかも。それがいいのよ。この社会は、この世界は、これからそうなっていく。その中でこの子一人だけが取り残されてしまうのはあんまりだもの」

 不快ワードが検出されたと通達が入り、姉があらいけないわ、と口に手を添える。この社会は悍ましいほどの監視保護社会だ。言論の統制、そのうち私たちの体の中に入ったナノチューブが思考と行動の統制までするに違いない。自殺や人を殺すこと、おそらくは犯罪と言う言葉自体、概念そのものが消えうせることとなる。このまま医療技術と義体化技術の進歩が続けば、今でさえ希薄な死という概念すら消え失せてしまうのかもしれない、ぞっとしない将来だ。

 今の監視保護社会でさえも、この社会で逸脱しない自己を作り上げるための弊害が人間の精神を脅かしている。集団への自己の埋没感、自己と他者との境界、それらはこの遺伝子操作によって劣性遺伝子が淘汰されるこの世代にこそ問題として必ずや社会の中にありつづける。遺伝子操作によって、個々人の顔や身体的特徴は軒並み平らに均され、近い将来街中で出会った人間が鏡の前で自身を見た時のようにそっくり同じであったという事象が平然となる。世界に三人しかいないという自分と同じ顔をした人間が辺りに溢れかえるのだ。それだけでもぞっとする話だが、言論の統制が当たり前となり体の中に染みつき、思考や行動の統制まで行われるとするならば。その時人間はアイデンティティをどこに求めるのか。顔も身体的特徴も、言動も思考も行動さえも似通った自分以外の他人が溢れかえる中で。指紋?、脳の皴の数?、付与されたマイナンバーの番号?、とんだお笑い草だ。ただそれでしか自分が自分であるという証明ができないのだから。

「似なくてよかったのよ。私たちに似たら、この子が不憫でならないわ」

 姉はその子の額をゆっくりと撫でる。心地よさそうな顔をしている。

「姉さんの遺伝子をまったく受け継いでいない子供であっても、その子供は姉さんの子供なの」

「ええ。わたしの、かわいい子供」

 あなたもいつか分かる、姉は微笑み愛おしくその子供を見遣った。

 前時代的な思考をしていることを重々承知している。自身と血縁的繋がりのある人物を、より血縁的に近い人物を次代に据える世襲制は今や過去の遺物だ。人々はそれぞれ理由をつけて、或いは喜々として子に遺伝子操作を行う。それによって自身の子供に形質が遺伝されることがなくても親は子を可愛がる。現代社会において家族とはいったいどのように定義されるのか。縦のつながりは消えた。その中で私たちはいったい何を目印に産んだ母と種となった父であると認識すればいい。私には分からない。私には分からなかった。







「魂は存在しない。そうであるとするならば、あなたはどう思う?」

 それから姉は二年生きた。

 享年24の短すぎる生涯だ。死因は遺伝的要因が強く作用する大腸がん。私の母もそうであった。姉が自身の病魔を知ったのは身ごもった直後であり、おそらく自身もまた自身の母と同じように先が長くないことを悟ったのだろう。私たちの母もまた若くして死んだ。姉は母と同じように自身が生きることよりも子を産むことを優先し、死んだ。

 その血脈は私にも受け継がれている。

「何も。不可視の器官、質量を持たない器官、物質的に存在しない器官を信じろという方がおかしいのかも。そう言われてもああそうだったんだ、と思うだけ」

「そうか」

 葬儀屋の男が応じる。

 扉を一枚隔てた先では姉の葬儀が行われている。棺桶に入り、美しい死化粧を施された姉が横たわる棺に人が集まる。生前の姉は私にとっては良い姉であったが、果たして姉の友人や家族にとって、この場に招かれた人間にとって真に良い人間だったと言えるのか。葬儀に招かれた人間は皆一様に悲しみの表情をし、唇を噛みしめ、涙する姿に私は何か異様なものを見てしまった気がして外に出たのだった。あの場で悲しみ以外の感情を表出することは許されない。環境的要因が、監視モニタが、私たちの場にそぐわない感情の発生を抑制する。

 脱色をしたような茶色のぎすぎすとした髪。軽薄な笑みを浮かべる眼前の男は葬儀屋。死化粧を施し遺族の要望に沿って葬儀をコーディネートするそれと区別されるものであると、彼の社会評価パネルが静かに告げていた。ほぼ全ての業務が機械化された現代においても、代替が効かない、人だけしかできない仕事。彼は死者の魂を固定する御業を知っている。

「じゃあこれはいらない?」

 男が透明な小瓶を私に見せた。魂は専門家によって採取され、生物分解によって骨もなにもかも無くなった後、遺族に手渡される。母の葬儀でもそういう手順であったはずで、私はそれが姉の魂であるに違いないと算段をつけた。

「今の時代、街中に設置された監視モニタ、出生と同時に脊髄に注入されるナノチューブ。前時代の人権団体が見れば人権侵害だと訴えかねない監視保護社会だ。人の言動を統制し、先日は公共の福祉のために人の思考や行動にも介入を認める法案が採決されたね」

「魂によって死者の言葉が代弁されるわけではないと?」

「ああ」

 人を動かすのは血を循環させる心臓と、酸素を取り込む肺と、栄養を吸収する小腸。そしてそれらの器官を規律し、思考する人唯一の器官である脳。それらさえあれば、透析と投薬、生理食塩液で人は生き永らえる。21グラムの不可視の器官が人を支配している、そう言うよりもずっと現実的だ。

「それでも、この空っぽの瓶が欲しい?」

 私たちは自由とは言い難い生活をしている。監視モニタと体内のナノチューブが私たちの言動、思考、行動を記録し、人が安全に平和に生きることができるようになされている。しかしテクノロジーが進歩した中で唯一人の心を揺るがすものが存在する。何年たっても心の奥底でこびりつく、死と言う概念だ。 先の大戦で、死地へと向かった軍人の精神的消耗が激しかったように。交通事故で亡くした息子に20年近く経っても母親が泣くように。私が五歳で亡くなった母の葬儀と告別式の言葉をよく覚えているように。人の死と言うのは人の心に鮮やかに残る。それが自身に近しい者であるのならばなおさらだ。

「要る。私たちの心は人の死に耐えられるほど、強くないもの」

 扉を隔てた先には葬儀が行われている。場によって変化する感情などなんて安っぽいのだろうと、表情を変化させればシフトする感情など信頼できないと思っていた。しかし死んだ姉を目の前にして心の奥から湧き上がる感情は間違いなく真であった。姉の静かに眠るような穏やかな死に顔を見た時の、生身の身体でもう二度と会うことができないのだと、そう思い目に滲んだ涙は、その時の心の動きは。

 あの中で偽ではないその感情を持つ者がどれほどいるのか。年端もいかない姉の子が、姉の死を理解しているか。あの薄っすらと涙を浮かべたように見えたあの子の涙に伴う感情が何なのか、他人である私は知らない。だけれど、あの子が今死を理解できなくても、その感情が果たして真であるかが判別できなかったとしても、年を経て思い返せば分かる。母の葬儀で一心不乱に泣いた私の感情は、悲しみだった。そしてそれは何年も何十年も心を深く抉る。

「それを、ちょうだい」

 21グラムの不可視の器官は慰めであった。私たちにとっての慰めだ。故人の骨すらもその焼けた後の灰すらも何も残らない私たち遺された者への、そして人の死を忘れかけた私たちの胸を深く穿つ悲しみへの。

 もちろんだ、葬儀屋が言う。

 おそらく私たちは肉体的”死”を体験する、最後の世代だ。義体化・医療の技術が更に進歩すれば、人は肉体よりもはるかに長い脳の寿命で生きることが可能となる。

 ふと、深い悲しみが共有できる相手こそが家族なのかもしれないと思った。血のつながらない子を自身の子だと言い切る姉の、つまりは親がこぞって子の遺伝子を弄繰り回す行為は、英断であり愚行である。愛する人を失わずに済む。それと同時に最も深い悲しみを共有する機会を奪い、進みすぎた科学技術が私たちに終わりのない謂わば牢獄ともいえる生を与えるのだ。だけれど今は、今だけはその導きだした答えが一筋の救いのように思えた。


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