改訂にあたって:アメリカ南部州で暮らすということ

 この作品を初めて投稿したのは、2017年の春。アメリカに移住してから半年ほど経った頃だ。



 その数ヶ月前、とあるチャリティーバザーで1冊の本と出逢った。


「あなた、この本読める?」

 バザー会場で古本をあさる相方の隣に居た私に、売り子の女性が小さな本を差し出した。表紙に書かれた文字に、思わず頬が緩む。

「読めますよ。私、日本人なので」

 そう言うと、「なんだ、日本語だったのね。じゃあ、これ、プレゼントするわ」と手渡された。聞けば、どこのバザーに出しても買い手がつかず、処分するつもりだったとか。

 そりゃそうだ。アジア系と言えば韓国人ばかりで、日本人などほとんど見かけない小さな街だもの。慈善団体主催のバザーで日本語の文庫本に出逢うこと自体、奇跡に近い。

 そのルーツを知りたくて、売り子の女性に尋ねてみた。


「エステート・セール(=生前/遺品整理方法のひとつ。家財や雑貨など処分が必要なものを自宅/故人宅で販売する)で、本が詰め込まれたままの本棚を買い取ったの。これ以外にも外国語の本があったから、元の持ち主のコレクションだったのかもね」



 特に興味を引くジャンルではなかったけれど、日本から持ち込んだ本はとっくに読み終えていたので「せっかくだから読んでみるか」という気になった。

 書かれていたのは、分類学者リンネの思想と『ワン・ブラッド・ルール』の関係性。ちょっと小難しいな、と思いつつも「こういうジャンルは母国語でないと理解できない」と思い直し、黙々と読み続けた。

 その結果、私の脳内で「人種主義レイシズムの種を生み出したトンデモ学者」という誤ったリンネ像が完成し、『過ぎ来し方を眺めてみた』の初稿アイデアがムクムクと湧き上がった──




 たった一冊の本を読んだだけ。それだけでは足りなかった。

 そう感じて、初稿を読み返しながら少しずつ改訂を始めたのが2021年の夏。ちょうど、植民地時代に奴隷貿易の拠点港として栄えたサウスカロライナ州チャールストンへの旅行を終えた頃だ。


 かつてのチャールストンは、奴隷を中心に非白人の住民が半数以上を占めていたという。

 植民地時代からの豪奢な邸宅が建ち並ぶ美しい街並みの中でさえ、奴隷制の傷痕が其処此処そこここ色褪いろあせず残り、それが余計に切なく重く心にのしかかる──そんな場所だった。



***



 以前住んでいた西海岸とは全く異なる価値観と慣習を持つ、南部州バージニア。

 同じ州でも地域差が歴然としているのが、バージニア州の特徴と言えるだろう。

 アメリカ国防総省本部ペンタゴンが置かれワシントンD.C.に程近いバージニア北部や、州きってのリゾート地『バージニア・ビーチ』がある東部を「近代的アメリカ」の象徴とすれば、南部と西部は植民地時代からの歴史が良くも悪くも息衝く場所だ。私が住むバージニア州中南部などは、大規模農園プランテーション跡と古戦場だらけ。


 州都リッチモンドは、かつてアメリカ連合国の首都が置かれていたこともあって、時として人種主義を掲げる過激派や白人至上主義者の「聖地」となる。

 ダウンタウンを貫く大通り『モニュメント・アベニュー』には、南軍指揮官達の銅像5体が道路のド真ん中に連なるように設置され、人々を見下ろしていた。『南部の英雄』と称されたリー将軍の銅像もその一つで、市の観光名所となっていたのだが……

 BLM運動がアメリカ各地に拡大するにつれ、『奴隷制の象徴』とされた銅像達は落書きで埋め尽くされ、最終的に州政府の手で撤去された。


 


 そんな土地で暮らすうちに、小さないきどおりが少しずつ心の底に溜まっていくのを感じていた。買い物中、店員から人種差別的扱いを受けることが度々あったからだ。

 

 日頃から利用しているスーパーマーケットで、レジに並んでいた時のこと。

 私の前の客(白人)に笑顔で話し掛けていた店員(白人男性)が、私の番になった途端、無表情になり、視線を合わせることもなく淡々とレジを打ち始めた。無言でレシートを差し出す彼に「Thank you」と言っても、完全無視。

 仮に、彼の名前をジョンとしよう。

 その後、ジョンは私の後ろに並んでいた客(白人)に視線を向けると、にっこり笑顔で「How are you doing? Did you find everything okay?(接客の決まり文句)」と声をかける――そんな不快な状況が何度もあった。決まって、彼が担当するレジでの出来事だった。

 初めのうちは「キミの気のせいじゃないか?」と怪訝な顔をしていた相方も、私が何度も同じ話をするので、さすがに気になったらしい。「今度、一緒に行ってみよう」と提案してくれた。

 

 相方を連れて買物に出掛けた日も、ジョンが担当するレジの列に並んだ。

 私の番になると、珍しく顔を上げたジョンが「How’re you doing? 」と話し掛けてきた。が、彼の視線が向けられているのは、私の隣でショッピングカートを押していた相方(白人男性)だ。

「僕のワイフが、この店のオレンジジュースが大のお気に入りでね」

 ワザとらしく『ワイフ』に強調を置く相方。

「マンゴーとオレンジのミックスジュースも美味しいですよ。試してみて」

 そう笑顔で応じるジョンの視線は、最後まで相方に向けられたままだった。


 帰宅後、相方の感想を聞いてみると「いたって普通の、気さくな若者という印象」だったそうな。

 そりゃそうだ。キミ達の間には、レジでよく耳にする「顧客と店員の会話」が成立していたのだから。

 

 

 この話を友人(在米歴約30年の日本人女性)にしたところ、「あー、分かる。私も同じようなことがあったわ」と告白された。

 彼女の場合、娘(=父親が白人。当時、高校生)と一緒に出掛けた大手スーパーマーケットで、試食コーナーに置かれていたものを試していた時のこと。そのコーナーを担当していた店員(白人女性)が眉間に皺を寄せて「あなた、お金は持っているの?」と問いかけたそうな。

 その言葉に憤慨した娘が、母親を守るべく大声で店員に反論し始めると、騒ぎを聞きつけた他の店員が責任者を呼びに走り、結果的に、友人はくだんの店員から謝罪を受けたという。

「娘が私の分まで怒ってくれたからね。私一人だったら、悔しいけど、その場から逃げ出していたと思う」

 若い頃の彼女は、私と同じように、一人で出掛けることが憂鬱ゆううつだったという。

「夫が一緒でないと、同じ店でも店員の態度がコロッと変わるの。南部州は特に酷いわよね。けど、一部の心無い人に傷つけられたからって、この先もこの国で家族と生きていくんだから、いちいち気にしちゃダメよ。アメリカ暮らしを楽しまなくちゃね」




 未知のウィルスに世界中が震撼し、全ての活動が停滞した2020年。

 アメリカ国内で感染が広がる中、アジア人に対する憎悪犯罪ヘイトクライムが相次ぎ、「一人で外出するのが憂鬱」から「一人は怖い。一人は危険」と神経をすり減らした。『Stay Home』を言い訳に、家に引きこもった時期もあった。

 そんな中、『Black Lives Matter』のスローガンを掲げた人種差別抗議運動が始まる。人種主義の思想に関する議論がネット上を賑わすようになるにつれ、英語で書かれた記事の中に「リンネ」の名前を見かけることが多くなった。


 リンネが生きた時代のヨーロッパは、キリスト教の教義と思想が人々を支配し、社会を動かしていた。

 驚くなかれ、現代のアメリカ合衆国でも、およそ半数の人が「人類は創造主である神によって創られた。人類の祖はアダムとイブ。人類以外の生物は、我々に奉仕するために神が与えたもうた」と確信しているのだとか。おまけに「人間の中にも優劣がある」と心から信じているらしい。

 実は、私の義母もその一人。相方が結婚の報告メールを送ると、『非キリスト教徒、しかもアジア人と結婚だなんて、とんでもない!』と返ってきたのには唖然とした。



***



 色々な記事や論文を読み漁るうちに、私の脳内にあったリンネ像が少しずつ塗り替えられ、良い意味での変化が生まれ始めると、初稿のエッセイのが嫌でも目立つようになり、改稿の必要性を感じ始めた。

 


 発着点は変わらずに。

 リンネに関する部分は大きく修正して。

 改めて関係資料を読み直し、そこから新たに得た知識も織り込んで。

 そして、初稿を読んで下さった方々に感謝の意を込めて。 


 こうして出来上がったのが、この改訂版だ。




 アメリカ南部州で暮らしていると、ツッコミたくなることも多いけれど。

 2022年の私は、移住したての頃よりも、ずっと賢く立ち回れるはずだ。


 


 

〈参考文献〉


Brittany Kenyon-Flatt (2021). ”How Scientific Taxonomy Constructed the Myth of Race".

SAPIENS, the Wenner‑Gren Foundation for Anthropological Research

https://www.sapiens.org/biology/race-scientific-taxonomy/



Isabelle Charmantier (2020). "Linnaeus and Race".

The Linnean Society of London

https://www.linnean.org/learning/who-was-linnaeus/linnaeus-and-race



岡崎勝世(2007年)『リンネの人間論』 埼玉大学学術情報リポジトリSUCRA

https://sucra.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=15750&item_no=1&attribute_id=24&file_no=1



『ラビング:愛という名前のふたり(原題『Loving』)』(監督:ジェフ・ニコルズ) Focus Features(2016).

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過ぎ来し方を眺めてみた【改訂版】 由海(ゆうみ) @ahirun

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