恋は川のように

響きハレ

 

 サイレンの音が聞こえた気がして、僕はイヤフォンを外して耳を澄ませた。しんとしている。午後十一時半を回ったところだった。

 机の上のアイフォンがラインの着信を告げる。天宮藍乃からだった。名前を見た僕の心臓がびくんと跳ね上がる。天宮からの連絡は珍しい。

 「今から渋谷に来ない?」

 絵文字もスタンプも押されていない文面だったけど、僕の心臓はどきどきと早打ちしていた。

 答えは一つ。

 「今から行くよ」と返信する。気持ちに気づかれぬよう冷静さを装って。僕はすぐに着替えて家を出た。気持ちの上では、家を飛び出したという感じだった。

 ぴんとした冬の冷気が一月末の夜の街に張りつめている。今夜は雪の予報だった。

 真っ暗な空を厚い雲が覆っている。けれど不思議と寒くない。

 心臓は高鳴り続けていて、駅への道のりは思わず早足になった。天宮に会える。今の僕にとってはこれはこの上ない喜びだった。

 先週、一緒に受けている日本の古典文学の授業の最終回があった。その授業の後、駅で別れて、もし次に会う機会があるとすれば、卒業式だろうと思っていた。でも卒業式でさえ話す暇があるかどうか。天宮には天宮のグループがあったから。僕はそれをいつも遠目で見ているだけだった。

 天宮からラインが来る。

 「センター街のアドアーズにいる」

 やっぱり天宮に会えるんだということを実感する。でもそんな気持ちを見せないように、「分かった」とだけ返信した。

 去年の今頃、僕は天宮に想いを告白して、そしてふられた。

 でもまだなぜか友達でいてくれている。それは不思議と嫌ではなかった。

 そんな関係の中で、期待していなかったと言えば嘘になると思う。でも、そういうのとはちょっと違う、何か独特の引力が天宮にはあった。




 中央線快速の上り列車に乗る。まばらの乗客。新宿に行くくらいの距離なら、いつもだったら窓際に立っているけど、なんとなくロングシートの端っこに腰かける。息が上がっていた。

 日付の変わりそうな時刻でも新宿駅には人がたくさんいる。平日でも遊んで帰る人や飲んで帰る人たちがいて、そこに残業帰りのサラリーマンが混ざる。陽気さと倦怠感の入り混じった空気が新宿駅に充満していた。僕は人の肩を避けて山手線のホームへと急ぐ。

 零時を回っている。電車が待ち遠しかった。ホームをびゅうびゅうと風が吹き抜ける。時間が経つほどに、天宮がどこかへ消えてしまうような気がしていた。列車到着のアナウンスが響く。ホームに入ってきた列車がパァンと警笛を鳴らした。

 新宿から渋谷に行くときは、いつも山手線の最後部車両に乗る。そこに乗れば渋谷駅の改札へ続く階段がすぐ傍だからだ。その階段を降りたところがハチ公改札で、その外にスクランブル交差点が広がっている。

 こんな時間でも昼間ほどではないが信号待ちをする人が大勢いた。一日に二十万人ほどの人が行き交う。交差点の向こうには巨大なスクリーンが四つ並んでいて、どれもまだ広告を流していた。

 以前あるテレビ番組で、スクランブル交差点から人がいなくなる時間はあるのか、という疑問を取り上げた企画があったのを思い出す。その番組は、マークシティの方からスクランブル交差点を見下ろした定点カメラの映像を用いてその疑問に答えようとしていた。

 定点カメラは、人の絶えることのないスクランブル交差点を映し続けていた。が、深夜三時三十六分、画面から人と車の姿が消える。それはものの九秒。

 それが番組の、疑問への解答だった。でも画面に映ってないだけで、たぶんセンター街の中とか、道玄坂の方とかに、人や車はけっこういたんじゃないかなと思う。

 信号が青になる。僕は横断歩道を渡り、センター街を目指した。

 スクランブル交差点正面のツタヤに向かって右側を走る公園通りと、ツタヤに向かって左側の109方面から東急本店まで続く文化村通りの、この二つの通りに挟まれた地帯がセンター街と呼ばれている。行政上は渋谷区宇田川町。僕がそれを知ったのはわりと最近だったけど。

 センター街はツタヤ横から入るメインストリートと、北側の井の頭通りの二つの道から主に構成されていて、その二本の道を結ぶ小道がいくつも走っており、さらにセンター街から南の文化村通りに続く小道と、北の公園通りの方に抜ける小道が、それぞれある。特に北の公園通りに抜ける小道はどこも上り坂になっているのが特徴だった。

 僕がセンター街にちょくちょくやって来るのは、普段の行動範囲から近いからというのもあるし、まんだらけやアニメイトがあるからというのもあるけれど、たぶんそれだけじゃない。坂道とカーブと細い抜け道の多いセンター街は、それ自体がまるで迷路みたいで、あてがなくても歩き回るのが楽しかった。




 スケートボードに乗った青年がセンター街メインストリートを進む僕を追い越して行く。彼は人を避けてするりするりと奥へ進んで行った。

 センター街のアドアーズは宇田川交番の傍にある。メインストリートをマクドナルドのある四つ辻で右に折れ、突き当りの井の頭通りを左に進む。すぐ右にスペイン坂の入り口があって、そこを素通りする。井の頭通りに沿って緩い右曲りカーブをちょっと進むと、正面に交番が見えてくる。交番がちょうどY字路の中心になっていて、アドアーズはその右向かいだった。

 天宮はいったい何のゲームをやっているんだろう。ラインを送ってみようとしたが、さっきの僕の返信に既読さえ付いていない。こういうとき、電話をかけてみても繋がらないのが天宮だった。仕方ない、店内を探し回ろうかと思ってアドアーズに入ったところで、入り口すぐの太鼓の達人で遊んでいる姿が目に飛び込んできた。一人なのにちょっと笑顔を浮かべて画面を見つめ、どんどこどんと太鼓を叩いている。

 また僕の心臓が高鳴り始める。

 天宮の姿を見るといつもこうだ。僕は深呼吸をして息を整えようと努める。

 太鼓を叩く天宮は僕の姿に気づいていないようだった。天宮の視界から逸れるようにするりと移動して背後に回り込む。僕の知らない曲で遊んでいた。赤い丸と青い丸が交互に流れている。それほど数は多くないから、難易度はふつうくらいだと思う。天宮は必死な様子で叩いていたが、なんだかちぐはぐで、つい口元が綻ぶ。

 曲が終わったところで後ろから声をかけた。

 「うわ! びっくりした!」と振り返り目を見開いて驚く天宮。まるで待ち人なんてなかったみたいだった。「こんなところで何やってんの」とわざとらしく僕に聞いてくる。

 「呼んだのは天宮の方でしょうに」

 「まさか本当に来ると思わなかったよ」

 天宮が呼んでくれたんならどこへだって向かうさ、とは口に出さなかった。代わりに「こんな時間にどうしたの?」と投げかける。

 「いや、終電なくしちゃってさ」そう言ってあははと天宮が笑った。こんな時間まで何してたの、なんて聞く勇気はなかった。

 ちょうどゲームが終わったところだったらしい。天宮が「一緒にやる?」と言ったので、僕も遊んでみることにした。

 「好きな曲入れていいよ」と天宮が言う。そうは言っても、こういうときに何の曲を選んだらいいのか迷ってしまう。友達とカラオケに来て一曲目に何を入れたらいいか分からないときみたいに。

 太鼓の側面を叩いて曲目を流していく。好きな曲をいくつか見かけたけれど、天宮は知らなそうだった。せっかくだから知ってそうな曲の方がいい。制限時間が迫る。

 結局、「じょいふる」「女々しくて」「ヘビーローテーション」という選曲にした。

 「あんたってAKB好きだったの?」と終わってから聞かれる。

 「いや別に……」

 「ゲームとかアニメとか入れるんだと思ってた」

 「だって天宮知ってるかわかんなかったし。知ってるの?」

 「知らないけど」

 そんな会話をしているうちに従業員が近づいてくる。そろそろ閉店の時間ですと言った。時刻は零時半を回っていた。

 表に出たところで天宮が「お腹が空いた」と言った。

 「食べたいものある?」と聞いてみる。

 「マック行こう」

 僕の返答を待つでもなく天宮が歩き出す。駅へ続く方面へと進んだ。センター街の中にマックがあるなあと思い浮かべていたら、天宮はそっちへの角を曲がらずに、井の頭通りに沿って進んで行った。

 「あそこにマックあるけど?」と後ろから声をかける。

 「いやでもさ、あそこはちょっとね」

 天宮が言ったのはそれきりだった。なんでそこじゃないんだろう。

 通りの前方に西武百貨店が見えてくる。公園通りへの突き当り、井の頭通りを挟むように西武百貨店のA館とB館が並び建つ。川にかかる橋のように、三階、五階、屋上の三か所に連絡通路があった。

 「そういえば最近知った話なんだけど」僕はある話を思い出していた。

 「なに?」

 天宮は特に振り返らない。

 「この道の下って川が流れてるらしいよ」

 天宮はふうんといった反応。

 「暗渠?」

 「そう。で、西武の上に連絡通路があるじゃん、それってこの道の下を川が流れてるから、地下に作れなくてあそこになったらしいよ」

 示し合わせたわけでもなく二人で道路を見下ろした。道路の下を誰に見られるでもなく川が流れている。僕は少し寂しいような気持ちになった。

 西武百貨店が近づいてくる。道を挟むAB両館の外壁は、一段ずつ横にずれた格子をはめたようなデザインで、センター街の中にあってやや古臭い。上には連絡通路があるから、なんだかトンネルのようでもあり、そこはいつも少し暗い印象があった。

 「なんかさ、人間の都合で地下に移しちゃった川が地下通路の建設を妨害するっていうのが、存在を消された川の反乱というか、俺はここにいるぞって主張みたいで、良いなって思うんだよね」

 西武百貨店のあたりを意識したことはあまりなかった。隣のロフトへ行くのでもセンター街メインストリートから入って小道を抜けて行っていたし、たとえ公園通りから井の頭通りに入ったとしても、ただ素通りしていた。この通りが井の頭通りという名前を持っていたことさえ、最近まで知らなかった。だから、今日はやけに通りの周辺が目につく。トラックの荷捌き用の停車スペース、歩道フェンス脇に置かれた花壇、壁面の送水口を守るように並べられた白塗りのコーン、道を隔てて置かれた牧神と人魚の像。

 牧神と人魚?

 こんな像があったんだ。

 ここがかつて川だったという知識が空想を招きよせる。光の中でそよぐ風。さわさわと揺れる草花の間を小川が流れている。川のせせらぎに合わせるように牧神が立って笛を吹く。その対岸にいるのは、石の上に腰かける人魚。牧神は人魚に向かって曲を奏でている。人魚は? 美しい歌声で水中へ引きずり込むセイレーンか、あるいは声を失って想いを伝えられなくなった人魚姫か。川が今は地中に埋められてしまったことを思うと、暗渠そのものが、地の底へと誘うセイレーンにも思えるし、泡になって消えてしまった人魚姫のようにも思えた。

 「でもさ」天宮が口を開いた。川の光景が意識の背後へと退いて行く。

 「渋谷駅の東急の解体工事やってたとき、地下の渋谷川の流路変更の工事やってたでしょ」

 「えっ?」僕は思わず聞き返す。

 「渋谷駅にさ、東急東横店があったでしょ。あの地下に渋谷川が流れてるんだけど、あの辺一体の改築のために渋谷川の流れを少しずらしたらしいよ」

 連絡通路のトンネルを通り抜ける。

 「だからね、この西武を建てたときは、暗渠は妨害したかもしれないけど、もう今はそんなもの、どうにでもなるんだよ。邪魔ならどかす。それだけ」

 井の頭通りが公園通りに突き当たる。公園通りに沿って右手の先に、駅前のスクランブル交差点と、駅からマークシティへと続く煌々と明かりの点いた連絡通路が見えた。自動車の往来が絶えない。

 信号の付近で立ち止まって僕を見上げた天宮の表情は少し悲しそうで、僕は何も言うことができなかった。

 公園通りの反対側を天宮が指差す。

 「あそこあそこ」

 その先にはマクドナルドの看板が見えた。確かにそこにマックがあったことを僕は思い出す。公園通りを進むとしても、だいたいがハチ公口からスクランブル交差点を渡るときにツタヤの側を歩いてしまうから、道の反対側に何があるのかはそこまで記憶に残っていない。そこを通るのは年に何度かタワーレコードに行くときくらいだった。

 信号が青になる。

 駅前のスクランブル交差点とは比べるべくもないが、ここもスクランブル式の交差点で、日中ならいつでもそれなりに歩行者の多い場所だった。美容院のカットモデルだか、何かの仕事のスカウトだかで、男の人が信号待ちの女の人に声をかけているのをよく見かける。

 マックのカウンターには二、三人のお客さんがいた。僕たちはその後ろに並ぶ。そこで前のお客さんに話しかける店員の話が聞こえてきた。

 「店内の営業は二時までとなっております」

 僕と天宮は黙って顔を見合わせて、そのまま店の外へと出た。

 「食べたいものあったんだけどなあ」と残念そうにする天宮。

 「カラオケとかなら朝までいられるんじゃない?」

 一瞬天宮の表情が強張る。

 「カラオケはないなー」

 軽く言い放たれた天宮の声にはどこか角があった。じわりと不安がこみ上げる。触れてはいけないものに触れてしまったかもしれない。

 「センター街の方、行ってみようか」

 天宮はそう言って、青信号の点滅している横断歩道へ向かって歩き出した。




 「先に席に行ってて」と天宮が言ったので、ポテトとホットコーヒーの乗ったトレーを持って一人細い階段を上って行く。二階窓際のカウンターにスペースがあった。

 コーヒーに砂糖とミルクを入れいている間に天宮が二階に上がってくる。トレーの上にはコールドドリンクとポテトに加えて、15と書かれたプレートが乗っていた。

 トレーを置きながら「あーあ、舞い戻ってきちゃったな」と天宮が独り言を言うように零す。僕のトレーを見て「あんたそれだけで足りるの」と言った。

 「夜ご飯は食べたし」

 僕はポテトを食べ始める。

 「夜ご飯って時間じゃないじゃん」

 天宮もポテトを口に放り投げる。咀嚼しながら「まあ私夜ご飯食べてないんだけど」とまた独り言を言った。

 黙ったまま僕たちはもそもそとポテトを食べ続ける。五分ほどたったところでトレーを持った店員が階段を上がってきた。僕はポテトを食べ終える。店員はきょろきょろと客席を見回していたが、天宮のトレーの上のプレートを見つけて「あっ」という表情をした。店員が近づいてきて、持ってきたハンバーガーと天宮のプレートを交換する。それを済ませるとすぐに去って行った。

 天宮は受け取ったハンバーガーの包みを広げる。普通のハンバーガーだった。それを一齧り。

 「普通のハンバーガーだわ、これ」と、天宮はまた咀嚼しながら言った。右手で口元を隠している。

 「普通のハンバーガーじゃないの?」

 「いやー違うんだよ」と天宮。

 「これはね、チーズバーガーのチーズ抜きなんだ」

 そこでまた一齧り。

 「チーズバーガーチーズ抜きでって頼んだらさ、店員変な顔してた」

 「そりゃそうでしょ」

 「お客様、それは普通のハンバーガーですが、だってさ。だからさ、私言ったんだよ。チーズバーガーのチーズ抜きをお願いしますって」

 「ふざけた客だね」

 「私は大真面目だったんだけどね」

 「真面目?」

 「何て言うかね、そういう気分だったんだよ、今日は」

 天宮はチーズバーガーらしきものを食べ続ける。

 「これはハンバーガーじゃない。チーズバーガーなんだよ。チーズ入ってないけど、歴としたチーズバーガーなんだ」

 「よく分かんないな」

 「分からないか……」

 天宮はじっと窓の外を眺めながらチーズバーガーらしきものを食べ終えた。トレーを横にずらして、カウンター上の開いたスペースで包み紙を折りたたみ始める。

 顔を少し俯かせたところで耳から細い毛束が零れ落ちた。それを見て僕の心臓がどくんと跳ね上がる。

 数回折りたたまれたところで包み紙は数センチの塊になった。もう折れそうもないと思ったのか、天宮はそれを無造作にトレーの上に放り投げると、ふうと長く息を吐いた。

 「四十回くらいだっけ、それくらい折りたたむと月に届くんだよね」

 「数字の上での話だけどね」

 「どれぐらいの紙の大きさがあればそんな回数折りたためるんだろ……」

 また天宮は窓の外をじっと眺める。その先にはラーメン屋の看板があった。

 天宮の左手がほんの少し宙をさまよってから、ドリンクの蓋に刺さったストローに辿り着く。それを意味もなく上下に動かして中の氷をガシャガシャとかき混ぜていた。

 また天宮がふうっと息を吐いて、口を開く。

 「あのさ、ふられるってどんな気持ち……?」

 「えっ?」

 突然のことに僕は聞かれたことの意味が分からなかった。

 「いや、私にふられたとき、どんな気持ちだったかって……」

 「まさかふられた当人にそれを聞かれるとは……」

 「いや、ごめん……」

 一年前の今頃の時期だった。三年生の授業が全部終わり、テストを迎える頃。四年生で天宮はゼミを続けないと言っていて、それに天宮はもともとバイトが多かったから、ひょっとすると四年生になって会うことはないんじゃないかという気がしていた。焦りからか、何かが僕の背中を押した。

 天宮と二人で受けていた授業の、テストの前日、「話したいことがある」と約束を取り付けて、テストを終えてから二人で大学近くのサイゼリアに行った。

 まばらな客。特に何を食べるわけでもなく、テーブルの上にはコーヒーが二つ。

 「話って何?」

 「好きな人がいてさ……」

 「えっ! 誰、誰?」

 「天宮、なんだけど……」

 「私!?」

 今思い出しても何だか決まらない告白だったと思う。天宮は「考えさせて」と言って、しばらく沈黙が続いてから冷めたコーヒーを飲みほして二人で店を後にした。天宮からラインがあったのはその夜。「気持ちには答えられない」といった風の文面だったと思う。それに何て返したかは思い出せない。……

 春休み明けに天宮からラインがあって、四年生でも同じ授業を一つ受けることになった。「実は好きな人がいる」という話を天宮から聞いたのは、もう少し後になってからだった。

 少しずつあの頃の気持ちが体内に湧き上がってくる。

 「悲しいとか、どうしてとか、仕方ないよとか、そういうのがごちゃ混ぜになった気分だったな」

 それを聞いた天宮がぽつりと言う。

 「恨んだりしなかった?」

 「恨み、ねえ…… 確かに好きな人がいるっていうのに僕と仲良くしてくれてたのがなぜなのかは、さんざん考えたかな……」

 「ごめん、別にそういう気にさせるつもりはなかったんだけど……」

 「いや、それはもういいよ。分かってるから……」

 天宮の左手が掴んだストローが容器の中の氷をザクザクとかき混ぜる。

 「あのね、私今日、ふられたんだよね」

 僕ははっと息をのんだ。

 顔を上げて僕の方を見る天宮の表情は、笑顔のようにも、悲しんでいるようにも見えた。その奥深くが読み取れなくて、隣にいるのにすごく遠い。

 「いや、今日っていうか、日付変ってるから昨日?」と言って軽く首をかしげる。

 僕はそのとき、心のどこかで喜びとか希望みたいなものを抱いてしまったのを感じた。でもそれじゃ付け入るみたいだ。ふられたって、別に急に好きじゃなくなるわけじゃないのは、僕自身がよく分かってるつもりなのに。

 僕はそれらをいったん全部飲み込んで、やっとの思いで「そうなんだ……」とだけ返した。

 天宮がまた窓の方に向き直ってこくりと頷く。

 「まさかこんなことになるなんて思いもよらなくて…… 一人でいるのが耐えられなくて、誰かにいてほしくて、それで思い浮かんだのがあんただった」

 少し嬉しさがこみ上げてくる。

 「なんであんただったんだろうね。ふられた者同士、理解しあえると思ったのかな…… ごめん、身勝手だよね…… 私、あんたの気持ち知ってるのに…… これじゃ利用してるみたいだ……」

 「そんなことない。天宮から連絡があって、嬉しかったよ」

 「そっか…… ありがと……」

 天宮が小さな声を零す。窓を見ると、そこに僕たちの姿が反射して写っていた。天宮の頬を涙が一つ零れ落ちる。僕はそのことには気づかないふりをして、窓の外へと視線を移した。

 「さっきあっちのマックに入れないって分かったとき、カラオケはどうってあんた言ったじゃん」

 「うん」

 「カラオケでふられたんだ。だから行きたくなかった」

 僕は何も言わずにじっと話を聞いていた。さっきの天宮の様子が脳裏に浮かぶ。

 「変だって思うでしょ」

 僕は首を横に振った。

 「よくカラオケに誘ってくれて。いつもウタ川交番そばのカラオケ館でさ。私、あいつの歌好きだった。ウタ川町で聞くあいつの歌……」

 聞いていて、僕は天宮の小さな勘違いに気づく。

 「あれ、ここってウダ川町じゃなかったっけ。ウタ川町じゃなくて、ウダ川町。まあ小さなことなんだけど……」

 「えっ……」

 思わず天宮と目が合う。

 「そうだったの……?」

 「たぶん……」

 「ああー……」と天宮がうなだれる。何かの力が抜けたように見えた。

 「私バカだなあ…… 何もかも一人でずっと勘違いしてたんだ……」

 そう言うと刻みに震えて小さく笑いをこぼした。

 「どうしたの?」

 「私たち、歌で繋がってるって、思ってたんだ。このウタ川町のカラオケでさ、一緒に歌歌って、私たち特別だって思ってた」

 「そんなこと考えてたんだ」

 「やっぱり変だって思うでしょ」

 「うん、ちょっと変、かな」

 「ほらー」

 笑ってしまう。天宮も笑っていた。

 ひとしきり笑ってから「そっか……」と自分に言い聞かせるように天宮が言う。

 「ここにいると思い出しちゃうからさ、だから離れたかったんだよね。でもウタじゃないのか」

 「ウダなんだよね」

 天宮がまた笑って、僕もつられて笑った。

 「ねえ、私がふられたって知ってチャンスだと思った?」

 突然そう言って僕の顔を覗き込む。びくんと心臓が飛び上がった。こういうの、ずるいよ。僕は天宮の視線から逃げて冷静さを保とうとする。

 「私と付き合いたかった?」

 「いや…… うーん…… でもふられたからって、急に気持ちが変わるわけじゃないでしょ」

 「まあそうなんだよね……」

 天宮は噛みしめるように何度も頷く。

 「ちょっとすっきりしたよ。ありがとう」

 その目ははっきりと僕の目を見ていた。

 「いや、僕は何も……」

 「そんなことない。やっぱりあんたと話せてよかったよ」

 「そっか。ならよかった」

 またじわりと喜びが湧き上がる。さっきまでどこかにあった形のない重い感情が、それに包まれていくような気がした。

 トレーの上のコーヒーに口を付ける。コーヒーはまだほんの少し温かかった。




 それからしばらく二人で他愛のないことを話した。最近見たテレビとか、最近はまっている漫画のこととか。

 いつもの僕たちに戻れたような、そんな気がしたとき、天宮が時計を確認する。つられて僕もアイフォンの画面を付けてみた。三時半が近づいている。

 「あっ」と天宮が声を上げた。「もう出よう」と言って席を立ち荷物をまとめ始める。

 「始発にはまだ早いんじゃないの? 四時半頃でしょ」

 「いや、ちょっと行きたいところがあるんだ。だからもう行こう」

 天宮は自分のだけでなく僕のトレーも持ってトレー置き場へと歩いていく。僕は急いでその後を追った。

 階段を降りて店外へ出る。ぴゅうと風が通り抜けて、僕たちは揃って「寒い」と言葉をもらした。コーヒーを飲んだせいか体の内部が冷えている。天宮は人のほとんどいないメインストリートを駅方面に進み始めた。

 「どこに行くの?」後ろから話しかける。

 「深夜三時半にさ、スクランブル交差点から人がいなくなるって知ってる?」

 天宮は振り返らずに言った。

 「昔テレビでやってたやつ?」

 天宮が頷く。

 「でもそれが?」

 「最近ネットで見たんだけどね、その時間、人がいなくなった瞬間のスクランブル交差点に向かって、人の名前を叫ぶと、その人に会えるんだって」

 そう言った天宮が僕の方へ振り返る。恥ずかしさを隠すようにあははと笑った。

 「こいつヤバいって今思ったでしょ……?」

 「うっ……」返答に詰まる。

 「どう考えたってこんなのオカルトじゃん? でもさ……」

 それほどその人のことが好きなんだね。

 僕は、天宮にこれほど想われてる人のことが羨ましくて、僕がどれだけ願っても手に入らないものなのにふってしまうその人が許せなくて、でもふられてもまだその人のことが好きで好きで仕方ないっていう天宮の気持ちもよく分かって、胸の奥がズキズキ痛んだ。

 センター街の入口に辿り着く。目の前に深夜のスクランブル交差点が広がっている。大画面の広告は止まっていて、日中ならそこらじゅうから聞こえてくるはずの音楽がないのが不思議な感じだった。何台も自動車が交差点を通り過ぎていく。交差点周辺には、僕たちのほかに三人ほど人がいた。

 ツタヤ前の地下道入口の横を通り抜けて交差点の正面に立つ。天宮は深呼吸をしていた。

 信号が青になる。

 瞬間、僕の知らない男の人の名前が渋谷の夜の谷を響き渡った。

 交差点を渡る人がこちらを振り返り、あたりを見回す。

 もう一度、天宮の声が雑踏のない交差点を通り抜ける。

 天宮の頬を、大粒の涙が零れ落ちた。

 一つ、二つ。……

 胸がぎゅうっと締め付けられる。

 「あまみやあいのーっ!」

 気が付いたときには僕も叫んでいた。

 青信号が点滅し始める。

 僕はあらん限りの声でもう一度叫ぶ。

 「あーまーみーやーあーいーのーっ!!」

 二度叫び終えたところで信号が赤になった。自動車の列が流れ始める。

 僕の隣でぽろぽろと涙を流す天宮がぽかんとしていた。が、僕と目が合うと、みるみるうちに赤くなっていく。

 「バカじゃないの!」

 そう言って天宮は僕の足に蹴りを入れた。

 「なんで私の名前なの!」

 もう一発。結構本気っぽくて痛い。

 「いや、だって……」

 訳を言おうと思うと、僕も急に恥ずかしくなる。

 「僕は、会えたよ……」

 「えっ?」天宮が足をおろす。

 「僕は、ここで天宮の名前を叫んで、それで天宮にこうして会えた。だからさ、天宮もきっと、会えるよ……」

 天宮が息をのむような音が聞こえた気がした。けれど、すぐに僕から目を逸らしてしまう。

 「バッカじゃないの……」

 言葉が白い息と共に宙へ消えていく。

 「なんか、ごめん……」

 天宮が首を横に振ってごにょごにょと何かを言った。「ありがとう」と聞こえたような気がした。天宮の目からはまだ涙が零れ落ちていたけれど、そこにあったのは初めて見るような笑顔だった。

 その横顔に、僕の心臓がまたどきりと跳ねあがる。

 恥ずかしくなって天を仰ぐと、真っ暗な空から雪がひらひらと舞始めていた。まるで水底に浮かぶ泡のようだ、と僕は思った。

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