君の涙は僕が ~The eyes of a kaleidoscope~

花岡 柊

君の涙は僕が ~The eyes of a kaleidoscope~

 暑さに辟易している夏の真っ只中。八月の盆明けは、休みボケした連中のだれた空気が余計にこの暑さを煽っていた。エコなんて言葉は会社には好都合で、こんなに暑いのに設定温度はやたら高い。なんなら、一台おきにエアコンのスイッチを切るなんて荒技を使う日まであった。地球には優しいが、社員には全く優しさがない。

「拷問かよ」

 隣の席に座る肉じゅばんを着込んだ真山はやたらと額に汗を浮かべ、遠い奥の席に座っている部長を恨めしそうにして見ている。因みに、部長の斜め上に設置されているエアコンは温度設定が他よりも下げてあるし、間違ってもスイッチを切られることはない。

 上司の権限か。

 しかし、誰もそれについて触れないのは、ネチネチとした性格の部長を相手にするのが面倒だからだ。

「部長の隣に座る手もあるぞ」

 ネクタイに手をやりわずかに緩めてからかうと、余計に汗が出ると真山は不服そうにしている。

 とめどなく流れる出る汗をハンカチで拭きながら真山がデスクワークをしていると、シャンとしたヒールの音が聞こえてきて、その音は俺たちのデスクの直ぐそばで止まった。目の前で止まった綺麗に磨かれているパンプスから視線を外して顔を上げると、爽やかな笑顔の関川さんだった。出社する時にはきっちり着ていたパンツスーツのジャケットを今は脱いでいて、真っ白なシャツがとても清潔感に溢れている。

「真山さん。良かったらどうぞ」

 パタパタと真山へ向けて風を送った後に差し出されたのは、会社の近所にできた飲み屋のクーポン付き団扇だった。少し小ぶりなサイズの団扇には、美味そうな酒のあてやビールジョッキの写真も載っていた。

「外に出たら配ってたんで、たくさん貰ってきたんです。今日もいい感じにエアコン切られてるし」

 部長の席を一瞥して笑顔で皮肉る言い方は、なんともサッパリしていてこっちがすっきりする。

「サンキュー。助かるっ」

 藁をも掴むように、真山が関川さんの差し出した団扇を受け取りバタバタと勢いよく扇ぎ出した。あまりの勢いに書類が飛んでいきそうになって俺は慌てて押さえる。真山の手に握られた小ぶりの団扇は、絶え間なく動き続けているから他の書類まで飛ばされそうで、重みのあるファイルを重ねるようにして置き強風対策だ。

「宮原君もどうですか」

 書類を片付けている俺にも関川さんは訊ねた。

 春に移動してきたばかりの俺にまだ慣れていないのか、なんとなく躊躇いがちだけれども一枚差し出してくれたから素直に受け取った。

 その後も関川さんは、エアコンの切られている席の辺りに座るやつらへ、団扇を配り歩いていた。

「あんなに、どうやって貰って来たんだろ。さすが関川さん。今日の夜はこの居酒屋、うちの社員で賑わったりしてな」

 真山が面白そうに笑って団扇で扇ぎ、それでも溢れ出る汗をハンカチでぬぐってから言葉を付け足した。

「そういえば。なんで宮原だけ君付けなんだろうな」

 言われてみればそうだ。

 自席へ戻って行く関川さんの颯爽とした背中はピッとしていて、その立ち姿は清々しく暑さも忘れて俺はしばらく眺めていたんだ。


 ほんのり汗をかきながら一日の仕事を終えれば、脳内に浮かぶのは汗をかいたジョッキに満たされた黄金の飲み物だ。想像しただけでたまらない。

 真山と一緒に関川さんから貰った団扇を片手に、パタパタと扇ぎなら居酒屋へとくり出した。

 真山が言ったように、何人かの社員が仕事帰りに関川さんの持ってきたクーポン付きの団扇持参で居酒屋へ来ていた。

「大正解」

 店内に入り、見知った顔が見えると真山が笑う。

「合流するだろ?」

 同じ部署の顔を認めて、真山が先を歩いていった。その後に続いてみんなが飲み始めている席に俺も向かった。そこには関川さんもいて、ジャケットを脱いだままシャツの一番上のボタンをはずしていた。男で言うところの、ネクタイを緩める感じだろうか。いやらしさを感じないのは、やはり彼女のさっぱりとした性格のせいだろう。けれど、席に着き目の前に座ってみたら白い首筋や鎖骨の辺りがほんのり色づいていることに気づいて、なんとなくそこへ視線をやる事ができなくなった。

「お疲れ様ー」

 真山が声をかけるとおうっ。と言うように先に来ていた奴らから笑顔が向けられる。既に一杯目に口をつけていたみんなから乾杯を貰い、ジョッキのビールを煽り、喉を鳴らして流し込んだ。キンと冷えたビールが、さっきまで社内で暑さにうだっていた体に染み渡る。

「かーっ。マジうまい!」

 そういった真山のジョッキを見れば既に半分以下で、先に来ていた連中のペースにあっという間に追いついてしまった。だから、あんなに汗が出るんだよと、他の奴らにつっ込まれても、そんなことになど頓着せず真山のビールはどんどん進む。

 十人ほど集まったうちの社員たちは、揃いも揃って団扇を近くに置いていたり、ビールを右手に団扇を左手にというようにしていて、その姿がなんだかおかしくてつい笑いが漏れた。

「楽しそうだね、宮原君」

 関川さんが頬を少しだけ染めて俺に言う。さっぱりとした化粧にアルコールで染まった頬が、いつもよりも彼女の雰囲気を和らげていた。ほんのわずかに小首を傾げてこちらを見る瞳がなんだか眩しい。

「揃いも揃って、みんなが関川さんから貰った団扇を持ってんのがなんか面白くて」

そんな俺もしっかり持って来ているわけだけれど。

 関川さんは、ジョッキの取っ手をしっかりと握り口角を上げる。それはなんだか得意げな顔を浮かべた子供みたいで、褒めて欲しそうにみえて又少し笑みが漏れた。

ここで、凄いじゃん。なんて軽口を叩いたら話が盛り上がりそうだな。

そう思ったところで、真山の方が先に話し出した。

「そうそう。この団扇、こんなに沢山どうやって貰って来たの?」

 俺の隣に座る真山が三杯目のビールを頼みながら、前のめりになって関川さんに訊いた。

「近いって」

まるで楽しみに観ていた番組を遮るみたいに邪魔をする真山の巨体を押しのけると、そんな俺を見て関川さんが口元に手をやり可笑しそうに笑っていた。

大人しく席に戻った真山に笑顔を向ける関川さんは本当に楽しそうで、釣られてこっちまで自然と笑顔になった。

「うちの社員いっぱい連れてくるから、たくさんくださいって手を出したら、本当にたくさん持たされちゃって」

 関川さんのまんま過ぎる答えにみんなが笑う。関川さんも笑う。

そして、関川さんの作戦にみんな見事に乗ったことにまた場が盛り上がった。

 今年の四月にこの部署へ異動になっばかりの俺だけれど、真山みたいに気さくな奴や、さばけた性格の関川さんのおかげであっという間にここへ馴染むことができていた。真山と関川さんとは同期にあたるけれど、入社式の時に会って以来、この部署で久しぶりに顔を合わせていた。その頃の記憶は余り定かではなくて、他の同期に関してはよく憶えていないけれど。入社式後の歓迎会で周囲に気配りをしていた関川さんの事はよく憶えていた。

「みんなー、一杯目はタダだからね。二杯目いきましょう。あ、真山さんはもう四杯目だね」

 豪快に笑いながら言った関川さんは、ピッと真っ直ぐ右手をあげて店員さんを呼ぶと、みんなからの注文をささっと取り、届いた焼き鳥を美味しそうに頬張っていて、気配りの届いた相変わらずの姿に安心感を覚えて笑みが漏れた。


 うだるような暑さがやっと過ぎ、読書の秋よりも食い物の秋で盛り上がる真山に、連日連夜飯へと連れ出されていた。

「よく食うなぁ」

 居酒屋のテーブル席で、真山の前にはメニューを端から端までと注文したかのような料理が所狭しと並んでいた。当然、俺の目の前もいっぱいだ。

「宮原、遠慮すんなよ。割り勘だからな」

「それ、割に合わねーだろ」

 俺の突っ込みにニヤリとしたあとは、バクバクと食べ物を口へと運ぶ。ノンストップだ。

 俺はとえば、割り勘だと言われても真山を見習いガツガツと一緒になって食べるわけでもなく。貪り食う目の前の真山を呆れ顔で見ながらビールを喉に流し込んでいた。

「ん? あれ、ななみちゃんじゃね?」

 口の中の唐揚げを片頬に寄せた真山が視線で示す先を見れば、確かに川原さんがいて離れたテーブル席のそばに立っていた。席に着こうとしているところを見れば、今来たばかりなのだろう。

 そんな川原さんのそばには、関川さんと同期の永沢さんも居た。

「女が三人集まると、華があるな」

 だらし無く頬を緩める真山。唐揚げや焼き鳥だけじゃなく、一応女性にも興味はあるらしい。

「ななみちゃん、可愛いなぁ」

 ヘラっと笑うから、キモいってと笑ってやった。

確かに川原さんは可愛らしいとは思うけれど、俺的にはそれ以上なにかを思うような相手ではない。

「関川さんは気が利くし話しかけ易くていいけどさ、女って感じじゃないよな。なんつーか、友達みたいな感覚だよな」

 真山は食い物にがっつきながら、俺に同意を求めるように関川さんの感想を話す。それを俺はただ黙って聞いていた。

「頼りになる、母親? いや、母親まではいかないか。姉貴かな」

「同期だろうが」

「そうなんだけど。しっかりしてるから、なーんか頼りたくなるんだよな。ほら、ななみちゃんだってしょっちゅう、関川さん、関川さん言ってんじゃん」

 友達に母親に姉貴か。まー、確かに関川さんは話しかけやすいよな。裏でコソコソ他人の事話したりするようなタイプには見えないし。後輩の面倒見もいいから、周りに慕われてるもんな。

 ここへ来てよく、関川さんは? という問いかけをされる。川原さんだけじゃなく、基本みんなに頼られているようで、何かあるとすぐにみんなが関川さんを探すみたいだ。あのネチネチとした部長でさえ、関川さんには一目置いている部分があるくらいだ。何かを問えば、間を置かずに答えが返ってくるから余計だろう。

 そう言えば少し前も、川原さんがコピー機を詰まらせて泣きそうになりながら関川さんを探してたっけ。やって来た関川さんは、業者かよって周りの社員につっ込まれながら、三箇所で詰まっていた紙をあっという間に取り除き、その上で汚れた読み取りのガラス面も丁寧に拭いて綺麗にしていた。思わず、お見事! と言いたくなる手際の良さだった。

いや、実際に感動して拍手をした。

「あのふんわりした可愛らしい感じが、堪らないんだよなぁ。何かあったらすぐに俺が守ってやるよ〜」

 関川さんの事を考えていると、目の前では真山が箸を持っていない方の拳を握りしめて息巻いていた。

 川原さんへ視線をやりつつ、真山の口は相変わらず休む事なく食べ物を咀嚼していて。そんなに食ってたら、咄嗟に川原さんを助けたくても動けないだろうと突っ込んでやった。

「大丈夫だ。俺の肉じゅばんがどんな鉄拳も受け止めるさ」

 ニヒルな笑みを浮かべているが、これは笑いを取ろうとしているってことでいいんだよな。

 俺がわざとパンチを繰り出すしぐさをすると、腹を突き出した。間違いない。

「関川さんも髪伸ばしたり、スカート履いたりしたらいいのにな。作りは、悪くないのに」

 突き出した腹を引っ込め、再び食に走った真山が呟いた。

「それ、セクハラ発言だろう」

 苦笑いで突っ込むと、内緒なと笑った。

 関川さんは綺麗な顔立ちだから、今のサッパリとした前下がりのボブはよく似合っていると思うし、あれだけ頼られてシャキシャキと毎日動いているから、パンツスーツは寧ろかっこいいと思うけどな。

 そこまで思って、これもセクハラになるかと苦笑いが再び漏れ出た。


 年が明け、寒さの厳しい季節になった。肉の塊みたいな真山でさえ、外に出れば寒いと言って身を固くしているくらいだ。

 この辺りはオフィス街というのもあって、ビル風が半端ない。あらゆる方角から吹く強風に、女性社員は髪の毛を抑えたり、スカートの裾を抑えたりしている。

「風で顔が切れそうだ」

 コートの襟元に顔を埋めて漏らした愚痴も、あっという間に風にさらわれた。

 仕事を終えて一人エントランスから一歩出た瞬間、子供なら簡単に吹き飛ばされてしまうくらいの強風に煽られ嫌でも足に力が入った。この場から一刻も早く逃げたくて、力を入れていた足を前に出し歩き出す。

 強風に目を細め、まるで何かの敵にでも立ち向かうように歩いていくと、俺の足元に向かってクルンクルンと回転しながらふわふわとしたものが飛ばされてきた。咄嗟に手を伸ばして拾うと、あったかそうな毛糸の手袋だった。しかも片方だけ。

 風の強さに目を細めて周囲を伺うと、数メートル先でキョロキョロしている関川さんがいた。

「関川さーん」

 掛けた声が風にさらわれるように流されていったけれど、呼ばれていることに気がついたようで一拍置いてから関川さんが走り寄る俺の方を振り返った。

「あ、宮原君」

 関川さんは寒さに頬を少し赤くして、マフラーに口元を埋めていた。風で乱れる髪の毛の奥から見える耳も赤くて、本当に寒そうだ。

 よく見ると関川さんは涙目で、思わず驚いてしまってから、この風が冷たすぎるせいなのかもしれないと一人納得した。

 それにしても、関川さんが泣く場面など今まで想像もしたことなどなかった。真山が言うように、関川さんは泣く姿よりも、常に背筋をしゃんと伸ばして仕事をするキリリとした姿勢ばかりが思い起こされるからだ。

 そのせいか、目の前の潤んだ瞳に驚き、つい見入ってしまった。

 まさか、本当に泣いたりしてないよな。俺、ハンカチなんか持ってたっけ。

脳内でハンカチのありかを探していると、関川さんが口を開いた。

「寒いね〜」

 少しだけ口元をモゴモゴさせ、風に声をさらわれないようにと大きな声で話しかけてくる。目尻を下げた笑顔で話す表情は涙目とは正反対で、やっぱりこの冷たい風のせいなのだろうと俺はやたらとほっとした。それでも頭の片隅では、ハンカチのありかを未だ探っている。

 関川さんの言葉にコクコクと頷き。ここで話し込んでも寒いだけだと、視線と仕草であっちと関川さんを促した。近くの商業ビルの中へ滑り込むように二人で逃げ込み、自動ドアが締まったところでほっと息をつく。

「ここ、抜け出すまでが大変だよね」

 風の強さに笑いながら、口元を隠していたマフラーに手を添えて少し下げたあと、乱れた髪の毛をさり気なく整えている。空いた方の手にはさっき俺が拾ったのと同じものが握られていて、瞳を潤ませたままこちらを見ていた。風のやんだこの場所で改めてその涙目を見てしまえば、さっきと同じような不安が蘇った。

 やっぱり、泣いてた?

 その理由を訊ねようとした俺より少し早く、関川さんが驚いたように小さく声を上げた。

「あっ。それ私のっ」

 関川さんの視線の先には、俺の手に握られた手袋の片方があった。差し出すと潤んだ目をほっとさせたようにして手を伸ばした。

「ありがとう」

 そう言って目を細くして笑った顔はあまりに素直すぎる笑みで、俺は惚けたように魅入ってしまったんだ。

 このビルの照明が明る過ぎるのか、関川さんの瞳にまだ浮かぶ涙に反射していてとても綺麗だった。

 なんだっけ、あの筒状の覗き込むと色とりどりの綺麗な柄が見えるやつ。そうだ。万華鏡だ。幼い頃に近所の女の子が祭りで買ったそれを覗かせてくれたことがあった。その時見た、色や形を変化させていく綺麗で眩しい模様か鮮明に蘇る。

 関川さんの瞳は照明の光を受けて、あの万華鏡のように綺麗でとても眩しい。

 真山は川原さんがふわふわしていて可愛いと言っていたけれど、関川さんだってこんなにキラキラとした可愛い笑顔を見せるじゃないか。可愛らしいのは、川原さんだけじゃない。

 そんな答に行き着いた瞬間、俺の左胸が大きく反応した。

「宮原君?」

 差し出したままの手袋を渡さずに動きが止まってしまった俺を、関川さんがわずかに首をかしげたようにして見ている。そんな彼女にはっとなり、慌てて手袋を渡した。

「なっ、なんか。転がって来てっ」

 何を慌てているのか、早口になる自分がいた。

 ビルの中は暖房が効きすぎているのか、いっきに体じゅうが暑くなる。

「買ったばかりなのに、気がついたら一つなくて。みつけてくれてありがとう」

 関川さんは、もう一度言って笑みを浮かべる。俺は真山みたいに浮いた汗が恥ずかしくて、さり気なく手で拭ってから思った。

「いや、みつけたのは手袋の方じゃなくて――――」

「え?」

 何を口走ってるのか。言ってるうちに余計にパニックになって来た。

 けど、俺が今みつけたのは、誰よりも素直で可愛らしい――――。

「あっ、あの。少しお茶していきませんか?」

 ビルに入っているカフェを指さし誘うと、関川さんがコクリと頷いた。

 真山が川原さんを守りたいと言った気持ちがよくわかった。

 もしも今目の前にいる関川さんがどこかで泣いていたら、俺はきっと何をおいてでもすぐに駆けつけるだろう。

 できるなら、関川さんの涙を拭いてあげるのは自分がいい。

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