06. 来訪



「結婚ってどういうことだよ!!!! 俺とのことは遊びだったのかよ!!!!!」

「わあ」

「は?」



 それは、水に張った薄氷が溶け始め、流れる泥混じりの水がその嵩を増した頃。この十年、欠かすことなく水辺を訪っている隊商が今年もまたやってきた。エレニアにとっては馴染みの景色ではあるものの、年に二度はない彼等の訪れは喜ばしく、楽しいもので、何より交易によってもたらされる種々の品は生活に彩りを添えてくれる。今年はアゼルが頑張ってくれたから、思いの外相手に渡せるものも揃ってくれた。各地を渡り歩く彼等の目にも、アゼルの刺繍は認めてもらえるだろうとエレニアは自信があった。用いた素材が上等だということを差し引いても、精緻な文様は職人も顔負けの出来栄えだ。これなら大抵のものは交換してもらえるに違いない。日頃、家のことを任せきりのアゼルが喜ぶようなものをと浮き足立って広場に向かったエレニアが……正確には、「夫婦なのだから、たまには共に歩きたい」と申し出たアゼルを伴ったエレニアが、市に出て真っ先に浴びた言葉がこれだった。

 よく通るが変声期らしい少し枯れた声は、何頭もの馬が並び、牽いて、あるいは担いできた荷を隊商の人間たちが広げる最中、肩をいからせて叫ぶ少年から発されていた。

 それは、赤に近い茶色の髪を鮮やかな青い布で纏め、水辺でも砂地でも見ない衣装を身に付けた少年だった。薄らと褐色に色付いた肌は、混血の証だ。様々な場所から人の集う隊商ではさして珍しくもない。とにかく、それが誰なのかエレニアはわからなかった。隊商には懇意にしているものや親しいものが何人かいたけれど、こんな年頃の知り合いは果たして居ただろうか? 記憶を辿っても、今ひとつ該当しそうな顔が浮かばない。その間にも、少年は威嚇するかのようにエレニアたちを睨みつけていてどうにも落ち着かなかった。

 吊り上がった目はエレニアとよく似た色合いの青色で、やや寸足らずな腰巻と長衣。似たような意匠の刺繍をエレニアは見たことがあるように思ったが、それだけではわからないというのも本音だった。うーん?




 一方で、うーん、と首を傾げるエレニアより、隣で立ち尽くすアゼルの方がよほど混乱していた。俺とのことは遊びだったのかよ。は? どういうことだ。遊びってなんだ。俺が聞きたい。

 すぐにでもどういうことかと問い詰めたかったが、本妻の矜持がそれを許さなかった。難儀な性格をしていると重々自覚はあるアゼルだったが、ここで少しでもたじろいだら負けだと認識していた。そもそも、エレニアとは生まれる前から一緒になると決まっている。ぽっと出の男に妻の座は譲れない。生まれる前からやり直してもらわないことには、アゼルとしては到底納得できなかった。

 傍目には恥じることなく、惑うことなく背筋を伸ばしてエレニアに寄り添うアゼルは、滅多にない二人連れ立っての外出だからと密かに着飾っていた。砂地の文化であるから誰にも気付かれないだろうが、布地は常より薄いものを倍の量巻き付けてきたし、殆ど見えないが耳環だって高価な銀細工である。鳴る音が美しく響くよう、気を配って縫い付けた極小の鈴だって今日のために出してきたとっておきだ。

 だから────睨むくらいなら、許されるだろう。だって、楽しみにしていたのだ。寒期の間共に過ごせたとはいえ、エレニアとの時間はやはり特別で、貴重なものだという気持ちは消えていない。むしろ、今だけのものであるからこそ、一日一日を大切にしている、その真っ最中だったのだ。アゼルは目を細め、眼前の男を見据えたままエレニアに擦り寄るように移動した。エレニアは自分のものだと──いや、自分はエレニアのものだと、主張するような動作だった。

 (どこの誰だか知らないが)

 アゼルは口元を覆う布の中で、唇を歪めた。

 (俺より相応しい妻はそう居ない自信があるぞ……!)




 (だから一体どこのどいつなんだよそのぐるぐる巻きの野郎は!)

 一年ぶりに会う、気になっていた女の子エレニアが結婚したと聞いたトゥエンは我が耳を疑った。確かに年頃の娘ではあったが、いくらなんでも早すぎる。水の民は十六まで結婚しないはずなのに、と詳しく話を聞けば、彼女は「夫」になったのだという。

 わけがわからなかった。トゥエンは詳しく話を、と要求したが、その話を持ち帰った者も委細は知らず結局よくわからないままこの日を迎えてしまった。どうして、少女であるはずの彼女が夫として生活をしなくてはならない? トゥエンは理不尽だと感じた。彼女には、妻として生きる道が確かにあって然るべきではないのだろうか?そう決まっていたのだ、と言われたところで、部族の一員ではないトゥエンはそんなもの知ったことではない。

 十五にもなって背丈が伸びず塞いでいたトゥエンを励まし、私より大きいんだから大丈夫だよと声を掛けてくれた優しいエレニア。絶対大きくなって戻ってくるから待っていてくれと告げて、確かに帰ってきたはずだったのに。あの時頷いてくれたのは、嘘だったというのだろうか。久しぶりに見たエレニアは、身長こそ少し伸びたものの昔と変わらぬ面影を残していて、胸が詰まる。本当はもっと他に言いたい事があったのに――――。

 「……………………」

 「うーん?」

 エレニアに触れる近さで控える砂地の男は、トゥエンのことを射殺しそうな目付きで睨んでいる。かなりの健闘を見せたはずの背丈を鼻で笑うかの如く、恐ろしい程の長身を一分の隙もなく布に押し込めた姿は眼力も相まってトゥエンに恐怖すら抱かせた。一言も発さないのが余計に怖い。せめて何か言ってくれればいいものを、睨むだけ睨んでおいて静観する構えのようだった。

 何より雄弁に「不愉快だからとっとと帰れ」と語る瞳と誤って視線を合わせてしまったのがいけなかった。トゥエンが迫力に押され所在なく身体を揺り動かした拍子に、魚の骨で組まれた簡素な首飾りが懐から飛び出す。きれいな乳色をした骨とは裏腹に巻かれた紐はところどころが解れていて、手入れをしつつ永く使ってきたのだろうということと、それでも切れた紐ごと大切に扱ってきたのだということが見て取れた。


 ゆるい泥の上に落ちたそれを慌てて拾い上げたトゥエンをじっと見つめていたエレニアは、ぱっと駆け寄るや否やトゥエンの手を取り囁いた。

 「もしかして────トーエ?」

 信じられない、と言わんばかりに目を見開いたエレニアは、すぐに破顔してトゥエンを抱き締めた。瞬間、ふわりと香る香辛料の匂いがトゥエンの知らないエレニアの過ごした時間を表していたが、努めてそれを考えないようにする。

 「久しぶり!」

 「や、やっと気付いたのか……! そうだよ! トゥエンだ!」

 「すごい大きくなってるからぜんぜん気付かなかったよ~」

 ふふ、と楽しそうに笑うエレニアは開口一番の失礼な言葉を気にしていないようで、トゥエンは安心する。流されたようで少し癪だが、そんなことはやっとの思いで果たした再会の前では霞んで見える。トゥエンの顔にも漸く笑顔が戻り、そして、

 「アゼル! 紹介しますね。この子は隊商の子でトーエ。トーエ、この人はアゼル。私の、奥さん」

 「おく──何だって?」

 「妻のアゼルだ。トゥエン

 すぐに消えることとなったのである。




 空は高く、天気は良好だった。風も突き刺すような冷気をひそめ、水温もこれから上がっていくだろうと皆が期待を込めるような、そんな好日。エレニアを中心に、連れ立って歩く三人組はひどく人目を引いていた。

 大声を上げて既婚者であるエレニアに告白した恥ずかしい男として周り中から認知されたトゥエンと、元から有名人である夫婦の三角関係となれば、耳目を集めないはずもない。隊商に加わっている商人やその家族たちはトゥエンを口では応援していたが、専ら手酷く振られる方に賭けていた。元よりエレニアはトゥエンの告白を告白と受け取っていなかったが、哀れなトゥエンはまだそれに気付いていないようだった。

 軽やかに市を歩くエレニアとは対照的に、トゥエンの足取りは重い。アゼルは悠然と足を進めていたが、時折トゥエンの方をじっと見ては視線を前に戻していた。いっそ、居ないものとして扱ってほしいと思うくらいだった。しかし、いつまでも誤魔化してはいられないからと、トゥエンはようやくのこと、本題を切り出した。

 「……エレニア、その。結婚って」

 本当に良かったのか。言外に滲ませたのは、後悔していないかという確認だ。

 けれど、返ってきたのは意外な反応だった。

 「えへへ、そう、結婚したの。なんだか照れちゃうな」

 頬を染めてはにかむエレニアは、どこにでもいる少女だった。恋をしているような、淡い微笑みを浮かべる姿は愛らしく、少年の瞳にとても眩しく映った。てっきり意に沿わぬ結婚なのかと邪推していたけれど、そうではないと分かりトゥエンは安心した。無論、それはトゥエンの失恋を決定付けるということでもあったのだが、トゥエンはまだそれに気が付いていなかった。

 幸せそうで良かったと胸を撫で下ろし、気を取り直してトゥエンは尋ねた。この様子なら、自分の聞いた話は何かの間違いだったのだろう。こんなに可愛らしい女の子が夫なんて言葉で表されるなど、冗談としか思えない。

 「夫、って聞いたんだけど、何かの聞き間違いだよな?」

 「? 夫で合ってるよ。ねえ、アゼル……奥さん?」

 眉を上げ、心底不思議そうな表情で布の塊に話し掛けるエレニアが知らない人間に思えて、トゥエンは眩暈がした。

 「……頼むからやめろ恥ずかしい、人前だぞ」

 ただでさえ布に阻まれ聞き取りづらいアゼルの声は、羞恥のせいで余計に愛想のない、ぼそぼそとした響きだ。気圧されて少し距離を保って歩いていたトゥエンには上手く聞き取ることが出来なかったが、すぐ隣に陣取ったエレニアには全て聞こえている。ただの照れ隠しだから、ぶっきらぼうな言葉も怖くはなかった。

 「ごめんなさい、でも嘘はついてないですよ?」

 「そういう問題じゃない」

 「……照れ屋さんですもんね?」

 「違うっ、断じて違う!」

 声を上げて笑うエレニアと、最早誰の目にも明らかなほど照れて狼狽するアゼルは市場に集う人々から暖かい眼差しで見守られていた。水の民だけではなく、隊商の者たちも向ける視線が柔らかい。誰からも認められた、似合いの二人。


 ――――これじゃあ、俺ばっかり取り残された気分だ。

 本当は、もう分かっていたのだ。トゥエンは間に合わなかった。それでも、温めてきた気持ちは本物だったから、思わず叫んでしまったのだ。

 長旅の先で見つけたエレニアは、成長したトゥエンよりも遥かに背の高い男を連れて楽しそうに笑っていた。懐中の皮袋には求婚のためにと溜め込んできた鉱石が詰め込まれ、研磨され花嫁を飾るときを待っていたというのに、エレニアはもう知らない誰かと所帯を持っていた。冗談だろ、と笑い飛ばしていたはずのトゥエンだったけれど、あくまで自然と寄り添いあう二人を見れば冗談でも何でもないとすぐに知れた。

諦めきれずに会いに行って、結局このざまだ。

 けれど、エレニアが嬉しそうに笑っていられるなら、それが一番いい。


 「……なあ、エレニア」

 「なあに、トーエ」

 「俺、大きくなった?」

 絶対大きくなって、迎えに行く。それがトゥエンの夢だった。けれど、エレニアは迎えなんて必要としていなかった。きっと、それだけのことだった。

 「うん! お守りも、持っててくれたんだよね」

 「もちろん」

 首から下がったすべらかな骨細工は、エレニアが贈ったものだ。親愛の証だと、柔らかい手から贈られたもの。今はところどころたこが出来て、手のひらの皮もすっかり分厚くなってしまったから、トゥエンの記憶の中にだけ残された残像。

 「あーあ、俺、失恋しちゃったのか」

 振り仰いだ空は清々しい晴天だ。雨の一つも降ってくれればまだ救われたのに、空までトゥエンとは仲良くしてくれないらしい。けれど、思っていたほど悪い気分ではなかった。

 「えっ、トーエ失恋したの!? 大変だ、ねえアゼル、今日はうちでご飯を食べて行ってもらいませんか。お客様だもの」

 「馬鹿エレニア、いいよそんなの」

 「…………客か。俺は、別に構わない」

 「いいのかよ!!!」




 翌日、隊商に戻ったトゥエンは皆に取り囲まれ、この事件の顛末を語り聞かせるように要求された。嫌々ながらも語り終え、トゥエンは終いにこう結んだ。

 「あいつなら、俺も納得できる」


 そして、アゼルはその日の日記にこう書き込んだ。

 「夫が鈍感なのがいいことなのか悪いことなのか分からないが、少なくとも求婚者殿は少し不憫だったように思う」

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私の綺麗な月 笠森とうか @tohcalenia

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