05. 贈物

 約束をしてから、三つも月を越してしまった。エレニアは、もうあの日拾った金の糸のことなんてすっかり忘れてしまったに違いない。少なくとも、あれからエレニアが糸の話を蒸し返すことはなかったし、アゼルも殊更言い出すことをしなかったから、二人の間で糸に関する会話はあれから一切、ないままでいた。

 けれど、アゼルがあの約束を忘れた日は一日とてなかった。日毎、夜毎に時間を見つけては少しずつ針を進め、次第に肌寒くなる季節に追いつこうとするように縫い続け――とうとう、完成に漕ぎ着けたのだ。それは、金糸で縁取られ、美しい幾何学模様が刺繍された上衣だった。冬、というものが到来するこの地において、けれどまだエレニアは漁に出かける。もう少しで冬籠りに必要な分の魚を獲り終えるからとエレニアは言うけれど、悟られぬようこっそりと汲みに行った先の水は意外なほど冷たいもので。冷えた水、というものを何よりの贅沢と心得るアゼルにとってそれは宝の山にも思えたが、こんなところに潜っていくなど、正気の沙汰とは思われなかった。少なくとも、アゼルにとっては考えられない行為だ。「冬」という言葉は習い覚えていても、実感は伴わない。そも、一年を通して「暑い」という形容が殊の外似合う砂地において、冷たい時期がある、ということ自体がアゼルの想像を超えていた。本人もまだ意識してはいないことだったが、アゼルは寒さというものにひどく弱い。だからこそ、自分のためにと水に入っていくエレニアを案じ、気を揉んでいた。

 家から出ることのない自分がしてやれることとは、一体何なのだろう? アゼルなりの答えが、この上着であった。水辺ではなかなか手に入らない厚い生地を更に補強するように、金糸と、色とりどりの糸を用いて精緻な刺繍を施した。砂の民は、家ごとに受け継がれる刺繍の図案を持っている。アゼルが縫い付けたそれも、アゼルが継いだテイジャワ独自の図案だった。母が、祖母が、異国とも呼べる地へ嫁したアゼルに贈った形のない財産。そこに、砂の民が共通して持つ邪視よけのまじないや、子を守るまじないの模様を縫い足して、気付けば布地本来の色の方が占める面積を少なくするほどになってしまった。けれど、それだけ気持ちを込めて作った品だ。未だ成長途中のエレニアだから、長じても――そう、「初夜」を迎えてのちも着ることが出来るようにと丈を調節し、もういつでも渡せるように整えてある。アゼルの寝室、誰にも見せたことのないその部屋のいっとう良い場所に丁寧に畳まれたそれは、主が袖を通すのを待ち構えていたのであった。

 「それで、」

 イスファは溜息と共に目を瞑り、頭を振った。

 「どうして渡してないのか……私さっぱりわからないんだけど?」

 「恥ずかしい」

 「自分から作るって言ったんでしょう!!」

 即答したアゼルにイスファが言い返せば、細い眉を顰めてアゼルはもごもごと力なく言い訳を並べ立てる。

 「三月みつきもかかってしまったし……その、エレニアも、忘れているかも」

 言いながら自分の服を掴み悲しげな表情を――とはいえ、目元くらいしか見える部分などないのだけれど――見せるアゼルは相も変わらず淑やかで、女の自分より余程「妻」らしいものだ、とイスファは思う。

 「あのね、自分で言って自分で傷付くのはやめてちょうだいな。それにエレニア、忘れてないと思うけど? 私たちはものを覚えるのが得意なんだから」

 だから早く渡しておしまいなさい、とイスファはアゼルをせっついた。時間が経てば経つほど渡しづらくなることなど分かりきっているのに、アゼルはどうしても切り出すことが出来なかったのだ。無論、羞恥が理由という言葉に嘘はない。砂の民は嘘を嫌い、真実を貴ぶ。それは、けれど、すべてを伝えるとは限らないということだ。確かに贈り物をする行為そのものもアゼルには気恥ずかしさが勝つものだったけれど、何より金糸の衝撃が未だ尾を引いていたのだ。しかし、それを友人とはいえ家族以外の人間に伝えることは憚られて。

 「どうか、知恵を貸してほしい。イスファ」

 背中を押してほしくてイスファに相談をしているのだろう、ということくらいイスファにも見当がついていたし、アゼルもそんな自分に気が付いていた。行儀よく、じっとイスファの返答を待っているアゼルへと、イスファは投げやりに提案した。それが、彼女の受難の始まりでもあった。


 「あーもう、それなら遅い誕生日の贈物、でいいじゃない!? あの子、日が近いからって誕生の宴と婚儀が一緒くたにされてたし――あらそういえばアゼル、あなたはいつ頃生まれたの?」

 「ああ……丁度このくらいだな。月終わりに」


 さらりと告げられた事実は、イスファの動きを止めるに十分すぎた。それがどうした、と言わんばかりに首を傾げたアゼルを視界に入れながらも、イスファの頭は回転していた。月終わり、ということは、もう二十日と経たない内にアゼルは歳を重ねるのだ。それはつまり、宴の準備が間に合いそうもない、ということだった。

 水の民は祭り好きだ。星に祈りを捧げる神聖なまつりごとも折々に行うが、星のためではなしに人のために執り行う祭りの方も、砂の民の何倍も多く催される。さほど大きな部族ではないからこそ、新たな仲間の誕生はそれを盛大に祝い、何事もなく歳を重ねられたことをまた喜び、一族をあげて祝うのだ。このためだけに、余所から旅芸人を呼ぶほどの熱の入れようだった。けれど、今からではどれだけ早く連絡がついたとて月終わりには間に合わないだろう。言伝を託したくても、託す相手ぎょうしょうにんがいないのでは打つ手立てがなかった。

 「どうしてもっと早く言ってくれなかったかっ……待って。それエレニア知ってるの?」

 「自分の生まれた日なんて吹聴して回らないだろう、普通」

 「つまり」

 「知らないだろうな」

 「結婚してから六月むつきも経つのに!?」

 「何か問題なのか……?」

 流石のイスファも絶句した。イスファは、ひいては水の民皆が与り知らぬところであったが、砂の民は個々人の生まれ日を大々的に祝うということをしないのだ。その年に生まれた子供は一様に、新たな年を迎えた朝にその年齢を重ねることになっている。故に、人によっては自分の生まれた具体的な日時を知らないことだって往々にしてあった。ただ、アゼルは予言があればこそ自分の誕生日を覚えていたに過ぎない。

 ちら、とアゼルを見遣ったイスファは考えた。この恥ずかしがりな友人は、きっと自分の誕生日のことも言い出せないに違いない。となれば、イスファがエレニアに、伝えてやるより他にない。二人には、これから先の方が長いのだから――――細く、長く、息を吐き出したイスファを見つめるアゼルの瞳は不安を訴え揺れていた。

 「そんな目されたら、断れないじゃないのよ……」

 「? イスファ?」

 「私がエレニアに伝えておいてあげるから……あなたはそう、美味しい料理の献立でも考えておきなさい!」

 「――っ、感謝する!」



 任せろとは言ったが。イスファは思う。早まったかもしれない。眼前で大きな瞳を瞬かせて身を乗り出すエレニアは、大切な妻のための準備が何もできていないと慌て、かと思えばイスファの両手を握って感謝の言葉を叫び、ああでもないこうでもないと落ち着かず、終いには眉を下げて教えを、助けを、乞うたのだった。

 「どうすればいいと思う? イスファ」

 またか! イスファは大声を上げたいと思ったが、なんとか衝動を抑えることに成功した。確かに、エレニアが困り果ててしまうのも無理はない。誕生日とは基本的に共同体が祝うものであって、親密な個々人の間でささやかな祝福を贈ることはあってもまず、皆で集うことが前提としてあった。しかし、水の民らが行う宴の話をイスファから聞かされたアゼルは、あまりいい顔をしなかったのである。

 『大きな宴は、本当に必要ないんだ』

 『俺は、情けない話だがまだここに馴染めたような気がしないし……何より、あまり人前に出るわけにいかない』

 『……それでも何か、と言うのなら』

 『俺は……家族で一日、何の仕事もせずに、ただ過ごしてみたい』

 過分な願いだろうけれど、とその時アゼルは微笑んだ。既に寒気は水辺を満たし、そう時をおかず水面には氷が張るだろう。それまでに、エレニアは冬支度を済ませなくてはならないのだ。それはアゼルとて同じことだった。魚の大半が獲れないこの季節、水の民はそれまでに得た魚を通りがかる隊商に差し出し、日持ちのする食べ物へと換える。足りない分の魚は、手工芸品で補う。この二人の場合、エレニアが満たせなかった分だけ、アゼルが刺繍なりでそれを埋めることになる。しかし、予想より早く漁の腕を上げたエレニアだったから、アゼルはさほど労をかけず売りに出す品を完成させていた。ただでさえ糸や布が珍重される土地柄、アゼルの働きだけでも冬を越すだけの食糧は用意できるはずだった。砂の民は保存食を作るのに長けているから、捕った魚を交換に出さず手元に置いておくことだって、本当はできたのだ。けれど、エレニアはそれをよしとしないだろうとアゼルは感じた。その矜持に水を差すことが憚られて、アゼルは殊更口を出さずに夫の帰りを待つ日々を送っていたのである。

 アゼルが求めたものは、過分などとは程遠い、ささやかなものだった。イスファにしてみれば、たったそれだけのこと。エレニアの漁だって、一日くらいなら誰かが代わってやれば済むことで、イスファの夫だってそれくらい請け負ってくれる。だから、アゼルの願いを叶えてやるのは実はとても簡単なことだった。問題は、エレニアの方にあった。

 「アゼルに何を贈ればいいんだろう? アゼル、お姫様だからなんでも持ってるし……」

 「はぁ?」

 「とにかく、何でも持ってるの! 私にあげられるもの、思いつかない」

 頑固なこの少女は、自分が帰るだけでいいのだと言われても聞かないだろう。絶対に何かしてやりたいと言い張るはずだ。けれど、贈れるようなものなんて何もないのだとエレニアは言う。確かに、アゼルが嫁入り道具にと持参してきた品はどれも上等なものだったし、高価な布地や糸だって山ほど持っている。水の民が婚礼のためにと用意した数々の調度だって使いきれない程に転がっていて――つまるところ、祝福の子である彼らは、物質的に不自由することなく生活をしていたのであった。

 「んー、じゃあ、そう、思い出とか」

 「思い出?」

 そう、思い出だ。形に残るものだけが贈物ではないはずだ。アゼルが時間を求めたように、ものだけが人に贈れるわけではない。

 「エレニア、確か楽器が弾けたでしょう。昔、旅芸人から譲ってもらって。あれ、弾いてあげたらいいんじゃない?」

 「『砂漠の光』のこと? でも、そんなのでいいのかな?」

 「馬鹿なエレニア。いいから、私のこと信じて弾いてあげて。その日は特別、私……じゃないけど、漁、代わってあげるから」

 「でも、そんなの悪い」

 「何言ってるの、本当なら集落じゅうの人が漁なんてしないで宴を開くんだから構わないわよ。いいから、その日は二人で過ごしなさいよ!」

 「そこまで言うなら、そうするけど……」

 首を傾げたエレニアは、不思議そうに呟いた。へんなイスファ。


 

 アゼルにとって自分が生まれた日、ということに、特別な思い入れはなかった。皆が祝福してくれた、待ち望まれた日であることは確かだったけれど、それは言ってしまえば自分である必要のないものだったとアゼルは思う。重要なのはそのときであって、そこで生まれた自分ではない。けれど、その人のことをこそ想って開かれるという水の民の宴というものは、暖かくいい文化であるとも感じられた。

 イスファに言われた通り、得意の料理は腕によりをかけて作りはしたものの――自分のための料理、というものに馴染みがないから、結局はエレニアの好物ばかりが食卓に並んでしまった。しかし、それでこそ自分アゼルだと思ったから、そのままにしておいた。折角の「誕生日」なら、家族の、夫の笑う顔が見たいと思ったのだ。イスファがどう話をまとめたのか、アゼルは聞かされていない。だから、ただ待っていた。それが何時になろうと、待っているつもりだった。エレニアは朝方に「少し出てきますね」と告げて、朝靄の中を駆けていった。そう遠くには行かないと言っていたけれど、どこに行ったのかまではアゼルには分からない。もしかすると漁に出たのかもしれないが、アゼルにそれを止める権利はない。

 まだエレニアが外出してから長くはないはずなのに、こうも胸中が渦を巻いているのは誕生日とやらを知ったせいなのかと思うと、アゼルは少し苦い思いでいた。知らなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。

 「いつ、戻るんだ? ……エレニア」

 面と向かって呼べない名前だって、一人ならこんなに簡単に呼べるのに。それでも、一人でいるよりは名前を呼べないままで構わない。

 ぼんやりと絨毯の模様を指でなぞっていると、壁の向こうから音がした。聞いたことのある音色だった。アゼルの聞き間違いでなければ、それは故郷の調べ。もう聞くことはないと思っていた、伝統的な楽器の、由緒ある楽曲だった。一体、誰が? 宴には旅芸人を呼んでね、と語っていたイスファの顔を思い出す。もう間に合わないじゃないかと怒っていたのだから、まさか呼び寄せたわけでもあるまい。それなら、この音の主は?

 どうしても気になってしまって、アゼルは薄く布地の戸を押し開けた。本当は褒められた行為ではないけれど、知りたいと思ってしまったのだ。足音を殺して、そっと音の出どころを覗き込んで、

 「……あ、見つかっちゃった」

 照れくさそうに笑う、夫の姿とかち合った。手には使いこまれた故郷の楽器が抱え込まれていて、間違いなく今の演奏がエレニアのものであることを告げていた。

 「久しぶりで、上手く弾けるか分からなかったから……ちょっと練習してたんですけど、聞こえちゃってたんですね」

 「どうして、」

 つっかえた言葉の先を汲み取ったエレニアは、相も変わらず朗らかに言葉を繋ぐ。

 「昔、旅芸人のお姉さんに貰ったんですよ。この曲も、その時に教えてもらって。砂漠の光、という名前なんだそうです」

 知っていた。愛する妻へ贈る詩のついた、古い曲だ。砂漠では、熱すぎる昼の光より涼やかな夜の光が愛されるから、これは月の――妻のことを謳ったものだ。知らず、エレニアは弾いたのだろう。詩が付いていることだって、知らないのかもしれない。砂の言葉を知らぬエレニアだから歌詞の意味がわかるはずもないが、アゼルは安堵した。これでエレニアが全て知っていたら、自分はきっと死んでしまっていただろうと思ったのだ。

 「それで、どうしてそれを、急に」

 「そう! そうです。アゼル」

 楽器を置いて、エレニアは深呼吸した。ぐっと拳を握り、気合いを入れて。

 「えいっ」

 「は」

 「お誕生日、おめでとうございます!」

 小さくて柔らかい。なぜこんな位置に夫の頭が?というかこれは、

 「ばっ…………なっ、な、抱きっ……」

 「わーっ恥ずかしかった! 嫌だったらごめんなさい!」

 突然抱き着いてきたエレニアは、ぱっと身体を離すと薄く染まった頬を手で押さえながら視線を逸らした。俺は恥ずかしかったでは済まないと言いたかったアゼルだったものの、男の、妻の矜持でそこは堪えた。

 「今日は、お休みの日になったんです。だから、一緒にご飯を食べて、たくさんお話しましょうね」

 「ああ」

 イスファには、あとで礼を言わなくては。けれど、今は二人だけの時間だ。

 「もう一度、弾いてくれるか?」

 「はい! 何度だって弾きますよ。贈り物、なんですから」

 「……ありがとう。それで、その。俺もあるんだ」

 「何がですか?」

 「渡したいものが、あってだな」

 歯切れの悪いアゼルは、それでもなんとか最後まで言い切ることが出来た。

 「約束していたき……金の、糸のもの、が。……出来た」

 「本当ですかっ!?」

 「後で渡すから! 先に食事にしよう」

 背を向けて足早に室内へ戻っていくアゼルの後を、エレニアは短い足で駆けていく。照れているのが分かっているから、エレニアは笑いを堪えることができなかった。アゼルの作ったものならば、きっと素晴らしいものに違いない。アゼルの誕生日だというのに、自分ばかりが嬉しくなっているような気がしてしまうけれど――それでも、アゼルが嬉しそうなのはなんとなくエレニアにも伝わった。ならば、それでいいのかもしれない。興奮した心から湧き出るままに、エレニアは言葉を口にする。


 「アゼル、アゼル――生まれてきたのが、あなたでよかった」


 自分が自分アゼルであることを、誇らしく思えた瞬間だった。何より大きな贈物は、きっとこの出会いなのだと信じたくなる、そんな気持ちにさせてくれる言葉だった。アゼルはきっと、この先幾度となく繰り返す誕生日を心待ちにして日々を過ごせるだろう。そう、思った。



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