海山論(前編)

 昼の休憩中、俺はデスクで旅行のパンフレットをいくつも広げていた。

「どこか行かれるんですか?」

 部下も休憩に入ったらしく、開放的な表情で近づいてきた。


「そう。毎年夏には家族で旅行をするんだが、今年はどこにしようかと思ってな」

「いいですね、家族旅行。僕は小さい頃あまり旅行しなかったものですから、そういう習慣は少し憧れます」

 遠い目をする部下。これはなかなか珍しい。


「まあこれが、親の立場になるとなかなか大変なんだ。面倒とは言わないが、移動手段から旅館、何泊して、何をするか。全部細かく考えてるとそれだけで休日返上だよ」

「ああ、社員旅行と違って毎年違うところ行きますもんね」


 いまどき社員旅行なんてある方が珍しいようだが、うちの会社では昔からお世話になっている旅館とも縁を切れずに続いている。だが、若手からの根強い反対意見があり、今では希望者のみ参加ということになった。おかげで新人はほとんど参加せず、半ば年寄りたちの慰安旅行だ。


 前回の旅行ではこの部下が一番若かったが、二番目に若い社員は部下と一回り近く離れていた。

 若手のほとんどは、一人ではなかなか会社に文句は言わない割に、団体となると急に強気になるようで、半ばストライキのように一斉に来なくなったのだ。その中で部下だけがひょっこり来るのだからやはり肝が据わっている。


「子供は毎年温泉なんて行っても楽しくないだろうからな」

「今年はどこに行くんですか?」

「それを今、考えているんだ」

 俺はデスクに広げた旅行代理店のパンフレットを指す。どれも登録された宿の多さを競っているようだが、余計な選択肢が増えていい迷惑だ。


「そういうのって親だけで考えるものなんですか? 子供の希望を聞かないと不機嫌になったりするのでは?」

「まあそうなんだがな。子供に訊いても、どこでもいいなんて言うんだ。スマホでゲームしながらな。冷めたもんだよ。だが勝手に決めるとそれはそれで不機嫌になったりするんだ。だから二つ案を用意してどっちか選ばせるようにしようと思ってる」

 これは社内で共有されている営業マニュアルの典型例ともなっている。


「家庭の旅行に交渉術使うんですね。さすが部長、やり手だなあ」

「嫌味か?」

「まさか。それで、どういう二択なんです?」

「とりあえず海と山で、それぞれ具体的にどこに行こうか考えているんだが……」

 

「は?」

 部下は言葉を失ったと言わんばかりに大袈裟に呆れ顔をした。

「どうした」

「いえ、まさかとは思いますけど海と山と、どちらかを選ばせるということですか?」

「おかしいか?」

「愚問ですよ。そんなの自明じゃないですか」


 こうやって煽ってくるのは既に部下の常套手段として俺の中で分類されており、もはやそれによって青筋を立てることはない。俺はごく冷静に応える。

「いや、一般的には難しい問いのような気がするが」

「ちなみに部長ならどっちを選ぶんです?」


「ん? そうだな、俺なら……、ちょっと待った!」

「……なんです?」

「いや、お前、俺が言ったのと反対の方が良いと言い出す気がするんだ。お前から言え」

「……やだなあ、そんなことするはずないじゃないですか」

 部下は己の失策を隠すように言葉を濁す。


「早く言え」

「部長こそ、僕の言った方が良いとか言って、議論を避けようとしてないですか?部長にそんな不甲斐ないイエスマンのようなこと、して欲しくないです」

「開き直りか? お前は俺に何を期待してるんだ」

「じゃあこうしましょう。お互い相手に見せずに紙に書いて、一斉に見せ合いましょう」


 はあ、とため息をついて俺はその提案に乗った。下手に却下するとそれはそれで長そうだ。

「二つ書いて、俺と反対の方を時間差で出したりするなよ」

「……やだなあ、そんなことするはずないじゃないですか」



「書きましたか?」

 部下は自分のデスクから紙を胸元に持って戻ってきた。

「ああ」

 

「せーのっ」

 

 俺たちは同時に紙を裏返した。

「……海だ」

「山ですね」


 俺は海、部下は山を提示した。

 部下はそれを見て満足そうに頷く。

「そうでしょう、そうでしょう。部長は海にすると思いました。いや、残念です。意見がまさか食い違ってしまうなんて」

「一息のセリフで矛盾するな」


 俺は賭けに負けた。

 だが、こうなっては仕方がない。そろそろ上司としての威厳を見せるときが来たのだろう。

 


 俺は腕をまくった。

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