海山論(後編)
「でも、そうですね。僕もまだ休憩入ったばっかりですし、せっかくだから本格的にしましょう」
そういって部下は辺りをきょろきょろと見渡した。
「どういうことだ」
そのとき、一人の女性がデスクに近づいてきた。
「部長、会議の資料です」
部下の目が輝く。
「丁度いい、君、少し前にインターンで入ってきた学生さんですよね」
「ええ、そうですが」
「休憩はもう終わりましたか?」
「これからです」
「やはり丁度いい! では少しだけ時間を割いていただけませんか?」
学生は訝しがるように数秒黙って口を開いた。
「それは仕事ですか?」
これはなかなか、学生がインターン先の社員に発したとは思えない言葉である。
「いえ、仕事でもないし、会社から特別な手当ても発生しません。ええ、まあそうですね。では僕たちから2000円、でどうでしょう」
「おいおい、お前、どういうことだ」
「いえ、簡単な話ですよ。学生さんにディベートのジャッジをお願いする。負けた方が2000円払う。明解でしょう?」
「別に、金を賭けなくてもいいじゃないか。彼女も困っているだろう」
「休み時間中に終わるのなら、私は構いません」
「話が早いですね、お題は『夏の旅行は山か海か』です」
一度言い出した手前、断ることはできなかった。
しかし、インターンとはいえ彼女も会社の歯車として汗を流しているわけだ。彼女が社会人としての生き方を身に付けているなら、俺の方に分がある。俺は部長だから。
だが、もしこの議論が、どう考えても大した議論ではないのだが、肩書で決まってしまうとするならば無駄な時間を費やすことになってしまう。
「まあ、なんだ、君。俺の方が上位の役職だからと言って、気を遣わんでもいいからな」
余計なことだったかもしれない。最近の学生というものが権力をどれ程意識しているかわからなかったし、俺の発言によって反って念押しのようになってしまったかもしれないとも思った。
しかし、学生は意に介していないようで「はい」と澄ましたものだ。
「ではまず僕から行きましょうかね。僕は旅行には山が適切であると考えます。今回の設定は家族旅行であるということを考えましても、山であるべきです。その理由はいくつかありますが、一番は会話です」
「会話?」
「ええ。これは山にはあって海にはないものです。仮に海に行ったとします。そうするともちろん泳ぎますよね。ビーチバレーもするかもしれません。でも、どうです? 泳ぎながら、あるいはビーチバレーをしながら、会話は成立しません。掛け声とか、合図とか、その類のものだけです。宿に帰っても、疲れてすぐ眠ってしまったり、ラインしたり、ゲームしたりと」
「一方、山は違います。山道を歩く。体を動かしながらでしたら、家庭の食卓ではできないような会話だってできるかもしれません。まあ、普段の会話といっても平日は残業が多いですし、まともに娘さんと会話できているか怪しいところですけれど」
また家族の話を持ち出しやがって。だが、会話不足に反論できないのがつらいところだ。
「第二に、危険性の問題です。娘さんが泳げるかどうかは存じ上げておりませんが、例え泳げたとしても海の上で足をつるとか、沖まで言って流されるとか、溺れる原因は挙げていけばキリがありません。その点、山では選ぶ山次第で安全性は格段に上回ります。以上二点より、この旅行は安全で、なおかつコミュニケーションに専念できる山にすべきなのです」
部下は原稿を読むかのようにすらすらと喋る。学生は手帳になにか書き込んでいる。要点をおそらくメモしているのだろう。
「では、海側の反駁と立案をどうぞ」
メモが終わってから彼女は俺に促した。
「まず最初に二つ言っておきたいことがある」
「なんでしょう?」
「俺は元水泳部だということ。娘は先月、学校行事で登山に行っているということだ」
「なんですって!?」
俺の言葉にさすがの部下も驚いた様子だ。
これが俺は勝算があると踏んだ理由だった。部下はやたらと頭と口が回るため、即興のディベートにおいて丸腰では到底勝てる自信がない。
「これは俺の家の旅行についてのディベートだからな。言ってみれば俺の土俵だ。情報の格差というものがどうしても生まれる。不公平だというかもしれないが、これは勝負だ」
「それはそうですが……」
部下は得心が行かぬといった顔だ。
「言った通り、俺は高校時代に水泳部でな。まあ今ではすっかり衰えたが、それでも娘より先にバテるなんてことはないさ。歩きながら会話をするというのは山にしかないものだが、父親の威厳を見せることだって大切だ、と思う。いつも家族で海に行くと娘に泳ぎを教えるんだ。俺が娘について泳いでいれば会話もできるし、事故のリスクもぐっと減るさ」
学生のメモが終わるのを待って俺はさらに続けた。
「さて立論だが、娘が学校行事で登山に行ったということ。それだけでも家族旅行で山に行かない理由にはなるが、さらにネガティブな動機がある。実は、娘は怪我をして帰って来たんだ。腕やら足やらに擦り傷をこしらえてな。妻に消毒液を塗られていたよ。そんなことがあっては、山には行きたくならないだろう。しかも、このことは山の安全性にも疑問を呈するものでもある。まあ、以上だ」
他にも、夏だから太陽を浴びたいだとか、汗をかいてもすぐ海に流せるだとか、いろいろと考えはあったが、これで十分だろう。学生に手間取らせるのも悪い。
「山側の反駁をどうぞ」
学生は無表情で司会を務めている。
「ええ、そうですね。事故のリスクですが、部長の献身により減る、とはいってもやはり海の事故の方がひどいですよ。なだらかな山なら多少踏み外しても、言い方は悪いですが擦り傷くらいです。一方海では部長の目が離れている間に溺れることもあるかもしれませんからね。まあ、そのくらいです。でもずるいですよ。探偵小説ならそんな後出しは許されませんよ」
そのようないちゃもんは想定内だ。だから俺は言い切った。
「事前の情報収集が議論の基本だろう」
「まあ……、そうですが」
しぶしぶといった様子でこれ以上喋りそうもない部下を見て、学生が進行を続ける。
「以上でよろしいですか?」
俺と部下は頷いた。
「では総括します。争点となったのは三点、『安全性』と『娘さんとの会話』、『娘さんの怪我』ですね。『安全性』は、海の方が山より重大事故が起こりやすく、山での擦り傷の発生を考慮に入れても山に若干の分があります。『娘さんとの会話』は山の方が時間的に多いですが、部長が娘さんに水泳を教えることができる海と一長一短でしょうか。『娘さんの怪我』には山側に反論がありませんでしたので丸々一つ海側に軍配が上がります」
司会の見本のような学生である。一息ついてこう続けた。
「よって総合的に、海側の勝利とさせて頂きます」
「仕方ないです」
部下はうなだれた。
「まあ、気にするなよ。お前の家族旅行なら負けていたさ」
俺が時計を見て仕事に戻ろうとすると、学生がおずおずと声を掛けてきた。
「部長、私から一つよろしいでしょうか」
「ん? なんだ」
「娘さんの怪我、腕と足と仰いましたが、具体的にどこか教えて頂けませんか?」
妙な質問である。俺はこのときの学生から、なんとなく部下のような雰囲気を感じ取った。
「具体的? そうだな、掌とか、前腕にも多少あったかもしれない。足は膝の内側辺りだったかな。まあ、長袖の体操服を着ていたみたいだからどれも軽いものだったよ」
「え、部長。それっておかしくないですか?」
萎れていた部下が嘘のように元気づいて反応する。
「おかしい? 何のことだ?」
考えすぎかもしれないのですが、と前置きしてから学生が話し始めた。
「私は、腕という言葉に少し違和感を感じたんです。山で何かに躓いたり、足を滑らせたりしてこけるとき、手や膝を怪我するならわかります。しかし腕となると、普通に転んだのでは怪我をしにくいと思います。それに、膝の内側となるといよいよおかしいと思いませんか。山から転がり落ちたのならあり得るかもしれませんが、そんな大怪我をしているという風でもありませんでした」
俺も転げた人を頭に思い浮かべたが、前に転んでも後ろに転んでも膝の内側や前腕を怪我するように思えなかった。
「うーむ。確かに言われてみれば奇妙かもしれん」
「あくまで私の推測なのですが、娘さんは木に登ろうとして失敗したのではないですか? ほら、大きめの木を手足で挟もうとすると……」
「本当だ! 前腕と膝の内側が当たりますね」
部下がその恰好を真似したまま大きく手を叩いたものだから、シンバルを叩くおもちゃのようになっている。その姿が滑稽で俺は吹き出すのをこらえながら喋らざるを得なかった。
「い、いや、そうかも知れないが、それがどうしたっていうんだ」
部下は人差し指を上向きに突き立てた。
「部長、学校行事で指示通り山を歩いているだけでは、木に登ろうなんて思いませんよ。特に最近の子は。つまり、つまりですよ……、娘さんは山が嫌いどころか、大好きなんじゃないですか? いや、これはすごい。学生さん、よく気付きましたね」
「いえ、私は別に……」
部下に褒められて学生の顔が少し赤らんでいる。部下の大袈裟な物言いに慣れていないのだろう。
「いやいや、これはすごいですよ。名探偵だ。ああ、ディベートのとき気付いていれば僕の勝ちでした」
「ええ、そうですね。ただし、これは『娘さんの怪我』に対する反論で、娘さんが海も好きであるという可能性はありますので山側の加点項目ではありません。ですが、プラスマイナスゼロなら『安全性』で山に若干の分がありますので、総合的に山側の勝利だったと思います」
どうやらこのお嬢さんもやはり、細かいことまではっきりとさせなければ気が済まない性分のようだ。
「ですが、負けは負けです。僕から二千円出しますよ」
「いや、待て、俺にも半分払わせてくれ。学生さん、君のおかげで俺が娘の気持ちをどれだけ蔑ろにしているか、気付くことができた。ありがとう」
「いえ、こちらこそ、面白いディベートでした。旅行先はぜひ娘さんに希望を聞いてあげてください」
貰うものはきっちりと貰って彼女はそそくさと立ち去ってしまった。
部下も自分のデスクへ戻った。
俺は一人、自分を恥じていた。薄っぺらい主観の情報なんてものを当てにして、娘の声を聞いていなかったことを。当時、娘に山でどんな怪我をしたのか聞いてさえいればこんな回りくどいことをしなくても良かったのだ。
そもそも、娘に交渉術を使うなどばかげている。
今日は早く帰ってゆっくり家族と話そう。
俺はそう決心した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます